第一章 橘華という少女
今にして考えれば、あの日、弘之たちの誘いを断っていなかったら彼女に会うことは決してなかったのだから、人間、どういう運命が待ち構えているのかわからない。
それは、そろそろ制服の上着が暑苦しくなりだした、五月下旬の陽気な日差しの放課後のことだった。いつもなら掃除が済んでから弘之や益美と遊びながら家に帰るところが、なんとなく一人きりになりたい気分が上回って、二人と別行動でぶらぶらと甲州街道沿いを歩いていた僕は、通いなれた道の一本奥に、見覚えのない路地があるのを発見した。
「……飲み屋街か」
道幅が狭いせいか、いやに大きく見える雑居ビルの背に沿って、ところどころ黒ずんで、すっかり日焼けしたバーやクラブ、ピンクサロンのネオンサインが気にかかった僕は、人通りが少ないその路地へふらりと足を踏み入れた。
いわゆる歓楽街、という趣の軒構えを見ながら歩くうちに、いつか父さんにすすめられて読んだ、永井荷風の墨東奇譚を思い出してちょっとだけ不思議な興奮に駆られていると、どこからともなく、陽気なウィンナ・ワルツの調べが聞こえてくるのに気付いた。
耳をそばだてて音の出所を探っているうちに、どうやらそれが、右手の方向にある三階建てのテナントビルらしいとわかると、好奇心の赴くまま、そのビルの隅にひっそりとある集合ポストのところへ小走りに急いだ。そこで、どうやら三階に喫茶店があるらしいということがわかると、僕は意を決して、すっかり茶色くなってしまったコンクリートむき出しの階段を昇った。
三階にある喫茶店は「白鯨」という変わった店名で、茶色っぽい内装の中に、メラミン張りのテーブルが、年季の入った革のソファと一緒に客の来るのを待ちかまえている様子だったが、カウンターの前のプレーヤーに新しいレコードをのせている、いかにも職人気質な雰囲気を漂わせた白髪頭のマスターの他に、人の姿は見当たらなかった。
「――いらっしゃい」
あけっぱなしになったドアの前で、入るかどうか迷っていた僕に気付くと、マスターはにっこりとした顔で声をかけてきた。これはもう入らないほうがおかしいのだろうと思うと、僕は鞄を小脇に抱えたまま、そっとカウンターのドンケツの席へ腰を下ろそうとしたが、
「あ、そこ、常連さんの席でね……」
出鼻をくじかれて戸惑ったが、そのままなんとか中腰で三つ隣の席へ移ると、僕は出されたお冷を飲んでから、ホットコーヒーを注文した。見なれない顔ということが気にかかったのか、マスターはいかつい風貌に似合わず、気さくに話しかけてくれた。そのうちに話題が奥の席のことになると、マスターは淹れ終えたコーヒーを僕へ出してから、常連客のことを話してくれた。なんでも、その常連客というのは中学校に入った頃から熱心に通い詰めている女の子で、時折、大勢人を連れてくるかなりのお得意様なのだという。
「――そうでなくても、二日置きぐらいのペースでやってくる方なものですから、こっちでもその子のために、席を確保してるんです。とはいえ、先ほどは申し訳ないことをいたしました」
お詫びの気持ちです、と言いながら、マスターがよく冷えたイチゴをガラス皿へ出してくれたので、僕はすっかり恐縮してしまった。
「それより、おとといもやって来た、ってお話でしたけど、そうなると……」
「ええ、そうなんです。そろそろ、いらっしゃってもおかしくない時間帯なんですが……」
カウンターの上のパタパタ時計が、もう少しで四時になろうとしている。と、狭い階段の下の方から、小刻みにローファーで足元を鳴らす、可愛らしい足音がこちらへ近づいてきた。
「こんにちは」
どうやらこの子が、マスター言うところの熱心な常連客のようだった。見た感じは、僕とあまり年が離れていない小柄な子で、深緑色をしたダブルの背広とタータンチェックのスカート。ウェーブをかけた濡れ羽色のセミロングと白い肌が強く印象に残る、上品な目鼻立ちをしたその子の姿に、僕はつま先から頭の上へ電流が走るような感覚を覚えた。
「マスター、この方は?」
パタパタ時計を見ていたその子が、僕のことをマスターへ尋ねる。
「今日、初めてお越しになった方なんです。そこの第三高校の生徒さんで……えっと、お名前は……」
そこで初めて、名前を名乗っていなかったことに気付くと、僕は慌てて、高津健壱です、と自己紹介をした。すると、女の子はちょっと間をおいてから、
「小山内橘華といいます。――高津さん、よろしくお願いしますね」
そう言ってから、僕の右隣にある定位置へ腰を下ろすと、橘華さんはウィンナコーヒーを頼んで、ちょうど終わりかけていたパーシー・フェイスのレコードから、レーモン・ルフェーブルの盤にリクエストを出した。
「マスターからお伺いしましたよ。頻繁にお越しになるそうですね」
二杯目のコーヒーを飲みながら話を振ると、カップへクリームがのるのを遠目に見ていた橘華さんはそうなんです、と答えて、
「――甘くしないとダメなんですけど、コーヒーが大好きなんです。特に、ここのお店の味がお気に入りなので……」
どこかためらいがちに話す彼女の態度は、日ごろ接するクラスの女子連中とはわけが違う。まるで、猫の首についた鈴がころころと鳴るような上品さが、一音一句に満ち溢れている。
「橘華さん、そういえば他の皆さんは……?」
余韻をぶち壊すようなマスターの問いかけを無粋だと思いながらも耳をそばだてていると、橘華さんは腕時計へ目をやってから、
「掃除当番だっていうから、先に出てきたんです。そろそろ来てもおかしくなさそうなんだけど……」
彼女が来てから二十分ほど経っていることに驚きながら、いったいどんな子が来るのだろうと入口の方へ神経を注いでいると、性格のまるで異なる足音が入り乱れて、コンクリートの階段を昇ってくる音がこちらへ迫ってきた。
「――橘っちゃん、お待たせ」
「――待たせたな、お嬢」
「――お待たせしました、橘華さん。マスター、これをお願いします」
足音に性格が出るというのはひょっとすると本当なのかもしれない。現れた橘華さんの同級生たちは、そろいもそろって個性的な人たちだった。一番最初に店内へ入ってきたのは、おさげ髪に丸い、人懐っこい顔をした小柄な子。その次は今時珍しい、脛の辺りまでありそうな長いスカートにロングヘアの、切れ長の目でこちらを見てくるスケバンのような子。そして、ヘアピンで前髪を七三に分けたショートヘアの子が橘華さんのすぐ隣へ腰を下ろして、注文を書いたメモをマスターへ渡すと、女子校の一角がそこへ姿を現したのだった。
「困っちまったぜ、さっさと済ませて出ようとしたら、宿直の恩田に取っ捕まって、石鹸の場所探しと来たもんだ。ンなの保健室に行きゃあ一発なのによお……」
マスターから受け取ったお冷のグラスをまわしながら、スケバン娘が不機嫌そうな声を上げる。
「ほんとだよねえ。あの先生、家でもあんな感じなのかなあ。あんまり奥さんに任せきりなの、よくないよねえ」
「どうせそのうち泣きを見ます。そのときはこっそりお祝いしつつ、結婚相談所でも紹介してからかってあげましょう」
おさげの子が七三分けの前髪の、委員長然とした子と盛り上がるさまを、橘華さんはウィンナコーヒーの入った両の手でカップを持ったまま、なるほど、と頷きながら聞いている。
「で、時にお嬢。こいつは誰なんだい」
それまでグラスへ唇をつけていたスケバン娘が、カミソリのような目でこちらをじっと睨みながら、背中越しに橘華さんに尋ねてくる。
「紹介が遅れてたわね。――彼は高津健壱さん。今日初めてここへ来た人」
「……てえと、べつにあたしらに用があるわけではないのか」
「そうよ。だからスミさん、あんまり睨まないであげて。彼、怖がってるわよ」
顔に出さないようにしていたつもりだったのだが、いつの間にか胸の内を見透かされていたような気がして驚きつつも、スケバン娘ことスミさんの目が穏やかになったのを確認してから、僕はシャツの内側を嫌な汗が伝うのがわかった。
「高津さん、申し訳ありません。スミは縄張りにうるさい質でして……。あ、私、小山内橘華の同級生の島田夏織と申します。で、この子が同じく、級友の瀬古美津紀」
委員長風の島田さんに促されて、次は瀬古さんがのほほんとした口調で、
「瀬古です、よろしくお願いします」
「――んで、あたしが落第で同級生になった東田香澄。スミって呼んでくんな」
なるほど、年季の入った睨みなわけだ、と思いながら、彼女たちが飲み物を受け取ったのを見ると、僕はこれ以上いるのも邪魔だろうと、すっかりぬるくなった二杯目のコーヒーを飲み干してから、じゃ、今日はこの辺で……と言って、僕は逃げるように「白鯨」を後にしたのだが、内心では、
――また、遊びに来よう。
と、橘華さんとの再会を心待ちにしつつ、またあの店へ続く階段を駆け上がる機会をうかがっていたのだった。