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スペクルム カノン  作者: うさぎサボテン
第四章 鏡崎家の事情
49/200

13.

 校内を彼方此方逃げ回っていた魔物を、漸く屋上へ追い込む事に成功した。

 狐を象った黒い影のそれは、赤い双眸をぎらつかせ鋭い牙を見せて魔法使いを威嚇。だが、華音は怯む事なく、堂々とした足取りで魔物との間合いを詰めていく。その間、マナを集めた。


『カノン、仕留めろ!』


 脳内でオズワルドが叫び、華音は小さく頷いて杖を構えた。

 ところが、魔術が繰り出される間際に魔物は背後の柵を飛び越え、空中に身を投げた。


「待て!」


 すぐさま、その後を華音が追う。

 同じ様に空中に身を投げ、その体勢から器用に魔術を発動させた。


「ヘイルテンペスト!」


 無数の氷の粒が嵐の様に吹き荒れ、魔物を飲み込む。

 氷の粒に身を裂かれた魔物は1人分の生命力を吐き出し、消えていった。

 氷の嵐と魔物が視界から消えると、眼前に中庭の噴水が迫って来ていた。

 華音は特に動揺せず、着地の体勢を取る。その時だ。


『悪いが、カノン。もう時間だ。私は還る』

「えっ」


 脳内でオズワルドの声がし、華音は動揺した。

 憑依が解け、髪色、瞳の色、服は元に戻ったのだが、華音の身体はまだ空中にあった。せっかく着地の体勢に入っていたのに、ほんの少しの動揺でそれも失敗に終わり、重力におとなしく従って噴水に落下した。

 バシャンと水飛沫が上がり、閉まっていた中庭側の窓が転々と開いた。


「何だ!?」

「今、誰か噴水に落ちなかったか?」


 まだ残っていた数人の生徒や教師のどよめきだ。

 華音は噴水から身を起こし、慌てて走り去った。落ちた高さがそれほどでもなかった事が幸いし、少し足が痛む程度で済んだ。



 咄嗟に逃げ込んだのは、1階の角にある多目的教室だ。午前中、他の学年が使用していた様でまだ戸締りがされていなかった。

 華音は扉を後ろ手に閉めて、息を吐く。上下する肩には、ゴルゴが乗っていた。


「オズワルドの奴、あのタイミングで言わなくたっていいのに。全身びしょ濡れだ……」


 髪からも、制服からも、水が絶え間なく滴っている。

 華音は扉横に手を伸ばし、エアコンのスイッチを押した。この時季は既に冷房に設定されているが、態と暖房に設定変更した。

 室内が暖まれば、少しは早く乾く。

 青空を背景に、金色の太陽は一段と張り切っていて洗濯物もよく乾くものの、その下を堂々と歩ける程、華音は強靭な心を持ち合わせてはいなかった。

 会う人に好奇な視線を浴びせられ、顔見知りには「どうしたの?」と容赦なく疑問を突きつけられるだろう。それは、華音としては苦行だった。

 エアコンが効き始めるまでの間、さすがに服が肌に貼り付く不快感に耐え切れなかった華音は、ネクタイを外してカッターシャツを脱いだ。

 カッターシャツを絞れば、足元に小ぶりの水溜りが出来た。

 ゴルゴは、教卓の上でくつろいでいる。

 華音も、手頃な席にネクタイとカッターシャツを置いて着こうとした……


 ガラッ。


 後ろの扉が開き、華音とゴルゴは静止した。

 教師が戸締りに来たのかと身構えた。だが、聞こえて来たのは大人の声ではなく、アニメのキャラクターの様な可愛い声だった。


「華音?」


 桜花が深刻な顔をし、そっと中へ入って来た。

 その姿に、一層華音は血の気を失った。まだ、教師が来た方がマシだったかもしれない。


「桜花……。何でここに。帰ってなかったんだ」

「うん。忘れ物して戻って来たら、華音らしき人が此処に入っていくところを見たから……」


 桜花が近付いて来て、華音は咄嗟にカッターシャツを引き寄せて僅かに横を向いた。上半身だけとは言え、こんなところで異性に素肌を見られたくなかった。

 そこで漸く、桜花は華音が全身びしょ濡れである事に気が付いた。益々、桜花の表情に深刻さが増した。


「え? ずぶ濡れじゃない。一体何があったの? 大丈夫?」

「これじゃあ、まるでこの前の桜花みたいだね。まあ、オレの場合は魔術をくらった訳じゃなくて、中庭の噴水に落ちたんだけど」


 華音は照れ笑いしながら、頬を掻いた。

 その様子にホッとした桜花は、鞄から猫柄のタオルハンカチを取り出した。


「今これしかないけど、よかったら使って?」

「あ、うん。ありがとう」


 華音は遠慮がちにそれを受け取り、水の滴る毛先にフワッと当てた。

 ふと、桜花の視界に痛々しいものが映った。手を伸ばし、華奢な指先で華音の背中に触れた。


「……酷い火傷ね」


 ピタリと華音の動きが止まった。


「もう治ってるみたいだけど、痛そう。一体何があっ」

「やめろ!」


 その手を、華音はパッと叩いた。

 行き場のなくなった手をぶら下げ、桜花が大きな栗色の瞳を何度も瞬かせた。

 それまで顔面蒼白だった華音は、悔しそうに、或いは悲しそうに奥歯を噛み締め、カッターシャツをギュッと抱えた。

 部屋は暖房で暖まってきたのに、2人の間に流れる空気は冷房がかかっているかの様に冷えていた。

 桜花は触れてはいけないモノに触れてしまった自分の不注意さを恥じ、暫くの間、俯いて口を引き結んでいた。

 華音はそこに存在する事実を隠す様に、まだ湿っているカッターシャツに袖を通した。身体よりも心がじめっとして不快だった。

 1つ1つ丁寧にボタンを掛け、桜花を一瞥して口を開く。


「ごめん……桜花。最近桜花に当たってばかりだ」


 そこには桜花に対する怒りは一欠片もなく、唯言葉通りの感情が表情となって表れていた。

 桜花は顔を上げ、首を横へ振った。赤茶色のウェーブした長髪がそれに合わせ、サラサラと揺れた。


「謝るのはわたしの方。勝手に踏み込んでしまってごめんなさい。けれど、華音」


 桜花はじっと華音を見た。それはまるで、あの夜のハムスターと同じ……何でも見通しているかの様な目だった。

 華音はたじろぎ、視線を逸らした。


「他人には、絶対に踏み込んではいけない領域がある事は分かってる。わたしにだってある。それでも、ここ最近のキミを見ていると踏み込まずにはいられないのも事実なのよ。正直、心配になるの。ねえ、キミは熱湯と薬缶が恐いって話してくれたわよね。それは、今のそれと関係あるんじゃないかしら? ……言いたくないなら、言わなくてもいいから」


 桜花の瞳は、まだ正直に華音に向けられていた。

 華音は観念した様に視線を桜花へ向け、息を吐いた。震えだした手首を握って押さえる。


「雷と刃にも隠してたのに、まさか桜花に見られるなんて……。そうだよ。その通りだ。この火傷痕は、薬缶に入った熱湯をかけられて出来たものなんだ……」

「かけられた……?」

「…………母さんに」


 酷く沈み、消え入りそうな声だったが、2人しか居ない室内ではちゃんと桜花の耳に届いた。

 桜花は一瞬、耳に届いた言葉の意味がきちんと理解出来なかった。知っている筈の言葉なのに、未知の言葉に思えた。実際、意味などなく、言葉通りだった。

 脳内で巡り巡った言葉は再び戻って来て、桜花の口から零れ落ちた。


「お母さんに…………。そんな……それって」

「虐待」


 華音は淡々と言った。反面、表情は怯えていた。


「嘘……。だって、だって華音のお母さんって大きな会社の社長さんだよね?」

「うん。鏡崎家具の現社長。世間が知っているあの人は、気高く、仕事が出来る社員想いの、誰もが尊敬する女性。オレも社長としての母さんは尊敬しているんだ。けど、やっぱりオレにとっては1人の母親。オレの前ではちゃんと母親なんだよ。だから、オレは……オレだけは世間の知らない鏡崎社長を知っている。世間がそんな事ある筈ないって思っても、それは世間での話。家では全く違うって事もあるんだよ……」

「そう……かもしれないけど……。でも、会社が上手くいってるって事は幸せって事じゃないの?」

「今は、ね。今から8年ぐらい前、鏡崎家具の経営が一時傾いた事は知ってる?」

「んと……何となく……」

「……オレのこの火傷も、その時に負ったものなんだ」


 華音が苦笑いを浮かべ、再び毛先から滴って来た雫をハンカチで拭った。

 桜花はそれを目でぼんやり追いながら、出揃った真実に胸を痛めた。掛ける言葉が見当たらなかった。

 華音は瞳を閉じた。

 瞼の裏に身を潜めるのは、湯気の立つ薬缶を手にした母親の影。8年経っても変わらず、ふとした瞬間に現れては華音の前に立ち塞がる。その度に、華音の両手足は恐怖の鎖に雁字搦めにされ、身動き1つ取れなくなってしまう。

 幻影が消えないうちに、華音は震える唇を開いた。


「幸せな日々が終わったのは、父さんが亡くなってすぐの事だった――――」

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