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スペクルム カノン  作者: うさぎサボテン
第四章 鏡崎家の事情
44/200

8.

 街灯が照らし始めた街を、華音が桜花を背負って歩いていく。道中、好奇の視線が槍の様に突き刺さる事もあったが、2人はなるべく気にしない。と言うより、華音は1人悶々としていて、桜花は彼の背中に顔を埋めたままだったので、気付いていなかった。

 擦れ違う人の姿もまばらになり、明かりの灯った民家の立ち並ぶ景色となった。

 時折、夜風に乗って各々の夕飯の匂いが漂って来た。

 外を出歩いているのは、華音と桜花だけだ。

 華音は夜空で煌き始めた星を眺めながら、(おもむろ)に口を開いた。


「さっきオレが怒ったのは、桜花が勉強が出来ない事に対してじゃないんだ」

「……違うの?」


 桜花は顔を上げ、首を傾けて華音の顔を覗き見ようとした。


「嫌な過去を思い出したから……。オレ、熱湯と薬缶が恐いんだよね。おかしいだろ」


 華音は無理な笑みを作ってみせたが、当然桜花からではその表情は覗えない。けれど、声色で何となく分かった。


「そうだったのね。別におかしくはないけれど……」


 これ以上、桜花は言葉を続ける事が出来なかった。続けてしまったら、きっと華音を拷問するみたいになってしまうから。

 知りたい事はある。しかし、知られたくない事も、知らなくてもいい事もある。だから、お互いにもうこの話題に触れる事はなかった。

 桜花の住むアパートに到着した。

 玄関を華音が開け、桜花を玄関で下ろした。

 それから、華音は本人に許可を取り、急いで桜花の部屋から自分の鞄を回収。靴を履き、まだびしょ濡れのまま床に座っている桜花を振り返った。


「そのままじゃ風邪引くから、ちゃんと風呂に入りなよ」


 前を向く――――と同時に扉が開かれ、黒い短髪に栗色の瞳の、スーツ姿の中年男性が入って来た。肩に担いだ鞄を下げ、瞳を数回瞬かせた後、ニィと歯を見せて笑った。

 扉がパタンと閉まる。


「おかえり、お父さん」

「え。お父さん!?」


 平然としている桜花を思わず振り返る華音だが、肌にしっかり貼り付いたままのパーカーと水の滴る赤茶色の長髪を見て固まった。

 俺の大事な娘に何をしたんだ! と激怒されてもおかしくない状況。

 案の定、桜花の父は歯を見せたまま華音の肩を思いっきり掴んだ。


「ご、ごめんなさい……えっと、これは……」

「お前さんが桜花の彼氏か! いやぁ……ありゃ、嘘だと思ったんだが、本当に居たとはなぁ。しかも、イケメンだし、頭良さそうじゃねーか」

「あ、はい。え? あの?」


 予期していた展開と異なり、華音は唖然とした。

 華音の言葉を待たず、桜花の父は容赦なく続けた。


「うちの娘は恋愛経験ないから、色々教えてあげてくれ。あーそれと、もう遅いだろうが、うちは壁薄いから周囲に丸聞こえだからな」

「? 何の事ですか?」

「お前さんが本気なら、娘を嫁にやってもいいが……在学中は妊娠させないでくれよ?」


 恋愛に疎い華音も、さすがに最後の言葉で己の置かれた状況を理解した。桜花の父から逸らした顔は、真っ赤だった。

 羞恥のあまり反論出来ない華音の代わりに、桜花が頬を同じく赤く染めて声を荒げた。


「その言い方セクハラよ!」

「いやぁ、でも言っておかないとと思ってな。最近の若者は、学生でも割と多いって聞くし」

「ストレートすぎるのよ! と言うか、華音は違うからね!」

「名前呼びってところが怪しい気がするがな。普通、異性1人を自宅に呼ばんだろう」

「もう! わたしが違うって言ってるのに、どうして疑うのよ。こうなったら、お風呂入って今日の事はお湯に流すわ!」


 桜花はバスルームへ、スタスタ歩いて行ってしまった。

 残されたのは華音と桜花の父。初対面同士の、形容し難い空気が流れる。

 華音の方が気不味くなり、助けを求める様にドアノブに手を掛けた。


「お、お邪魔しました!」


 その声色にも表情にも、いつもの優等生の面影は殆どなかった。





 木曜日の夕方、漸く華音は桜花から解放された。

 結局、桜花の父と鉢合わせて以来何だか桜花と関わるのが気不味かったのだが、桜花は全てお湯に流し、翌日から平然と華音をまた自宅へ招いて勉強会を開催した。

 この一件で、華音は自身が意外にも押しに弱いのだと気付いたのだった。

 この際、切りがよく金曜日まででも構わなかったのだが、桜花の方から「あとは自分で頑張る」と言い切った為、それに従った。

 だから、本日の予定はない。

 ホームルームの時間が終わり、チャイムが鳴り終わると、華音は帰り支度をして席を立った。

 昨日まではこの時点で、桜花を伴って教室を後にしていたが、今日は帰り支度をまだしている桜花の横を素通り。

 それを見て、雷が華音のもとへ歩み寄って来た。


「鏡崎。今日は……いいのか?」


 雷は桜花を一瞥し、華音の表情を窺った。


「ああ。もう大丈夫。何かオレに用でもあるのか?」

「何か悪いな。実はさ……数学で分かんねーとこがあってさぁ」

「そうか。じゃあ、教えるよ」

「サンキュ。マジ助かる。俺の知り合い馬鹿ばっかだから、頭良いお前が居てくれて良かった」

「それで、場所はどうする?」


 華音は教室を見回し、雷に視線を戻して首を傾けた。

 雷は腕を組み、天井を仰ぎ見て唸る。


「そうだなー……学校でもいいけど、あんましお前と一緒に居ると、お前の評判悪くなりそうだし……」

「評判?」

「俺、こんなナリだしな」


 耳に付けたピアスに、着崩した制服、喧嘩で鍛えられた拳……全てが華音とは真反対だ。心根優しい雷は、その事で親友に迷惑がかかるのではないかと危惧しているのだ。

 勿論、華音の方はそんな事気にもしていないのだが、雷が許せなかった。

 雷は、まだ視線をそのままに真剣に考える。


「かと言って、うちは散らかってるし、人を呼べる状態じゃない。それに、妹と弟が居て勉強に集中出来やしない……」

「……それなら、オレの家に来るか?」


 少し間を置いて華音が言うと、2方向から「え!?」と声が上がった。

 1人は雷、もう1人は華音の後ろから、鞄を肩に担いでやって来た刃だった。


「鏡崎の家って良いのか? 何か悪いような……」


 雷は恐れ多いと言った様子だ。

 対して、刃は無遠慮な笑みを浮かべ、華音の首に腕を回した。


「華音ちゃんの家、俺も行きた~い!」


 華音は鬱陶しそうにその腕を払い、背後は無視して続けた。


「別に、家政婦が1人居るだけだから。無駄に部屋あって広いし」


 これだけ聞けば、唯の裕福自慢の様だが、華音の事をよく知っている親友達からすれば、心からうんざりしているのだと分かるので羨望も憎悪も抱かなかった。寧ろ、同情が沸いた。

 刃は無視された事など介意せず、また華音の首に腕を回した。


「そんじゃ、これから華音ちゃんの家行って、パーっとやろうぜ!」

「お前は何がしたいんだよ」


 漸く華音が振り返り、刃の表情がみるみるうちに主人に構ってもらえた飼い犬の様に生き生きと輝いた。


「パーティーさ! 西野達も呼んでさぁ」

「待て待て。俺は勉強をしに行くんだぞ」


 すっかりその気の刃に制止をかけたのは、雷。

 華音も頷き、再び刃を無視する事を決めると腕を振り払って歩き出した。一歩遅れて雷も歩き出した。

 教室を出て行く2人を、慌てて刃が追いかける。


「ちょっとぉ! パーティーはしないから、俺も混ぜてよ! 何かハブられるの寂しー」





 鍋の中で、新鮮なトマトのしっかり溶け込んだスープがぐつぐつ音を立てている。それに合わせ、おたまでスープを掻き混ぜながら水戸が鼻歌を歌う。

 更に、夕食作りの演奏会に電話の音が加わると、水戸は火を止めて急ぎ足で廊下へ出た。

 広い玄関の片隅で、固定電話が甲高い音を立て、ボタンの上の液晶画面を忙しなく光らせていた。

 水戸は受話器を取り、耳にそっと当てる。


「はい。鏡崎で……」


 受話器越しに聞こえて来た声に、表情が引き締まる。


「今からですか。……はい。分かりました。華音くんにも伝えておきますね」


 通話が切れると、水戸は息を吐いて受話器を置いた。

 たった数秒の、一方的な短い伝言だったが、数時間説教をされたかの様な疲労を感じた。まだ、表情は強ばっていた。

 鏡崎家の家族関係が壊れてしまっている事は、他人である水戸もとっくに気付いている。華音は表面上は聞き分けの良い息子にしか見えないが、母親に対する強い拒絶の様なモノがあった。

 母親が華音に直接連絡を取らないのは、そう言った感情を感じ取っているからなのかもしれない。

 水戸はまだ開かれる事のない玄関扉を見、複雑な面持ちでパステルイエローのエプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。

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