9.
華音がゆっくりと桜茶を味わっている向かいで、桜花は注文品をペロリと平らげ、受け取り口までアイスを取りに席を立った。
女の子はよく甘い物を次々と食べられるなと、華音はしみじみ思った。水戸もアルナも、甘い物なら沢山食べる。
「華音―。凄く可愛いわよ」
桜花が小走りで戻って来た。右手には、桜の花びらが載った桜色のアイスクリームを持っていた。
横から人が歩いて来るのが見えた。
「桜花、危な」
華音が言い終える前に、桜花は前を横切った人にぶつかった。
「きゃっ。ご、ごめんなさい……」
桜花が顔を上げると、柔和な顔立ちの女性がそこに居た。
「あ~大丈夫ですよぉ。お気になさらず。ちゃんと周りを見ていなかった私が悪いんですからぁ」
「いえ……あの、そんな。――――嘘!? 本当にごめんなさい! アイスが……」
女性の服にアイスクリームがべっとりと付いている事に気が付いた桜花は青ざめ、その場で正座した。
華音がギョッとして席を立ち、周りがざわつき始めると、女性はズボンのポケットからタオルハンカチを取り出して手早く服に付いたアイスクリームを拭い去った。
「ほら! ぜーんぜん大した事ないですから。それに、これ作業着なので汚れてもいいんですよぉ」
胸を張った女性が着用していたのは、青葉が着ていた物と同じ。つまり、女性は此処の従業員だった。
しかし、それ以前に華音には女性個人に見覚えがあった。
女性は桜花を立ち上がらせ、「台無しにしてしまったアイスを買い直しますねぇ」と言って、桜花を注文窓口へと連れて行った。遠慮する桜花の声は完全無視だった。
華音はその後ろ姿を見送った後、ふと思い出した。
ふんわりとした髪に、眼鏡、柔和な顔立ち、間延びした話し口調……あの人だ。
2人が戻ってくると、華音は真っ先に女性に話し掛けた。
「以前、お会いしましたよね」
女性は瞠目し、桜花はアイスクリームを落としそうになった。
「か、華音……それ、口説いてる……みたい」
「え!? ち、違うんです……えっと、オレ鏡崎です」
名乗れば思い出してくれるだろうと、しどろもどろになって告げると、女性は再度瞠目してすぐに笑顔になった。
「あの素敵なお庭の! 偶然ですねぇ。此処でお会いするなんてぇ」
華音はホッとし、笑い返した。
「此処のスタッフだったんですね」
「ええ、そうなんです」
親しげな2人の間に入れそうもなかった桜花は、不満げに華音の袖を引いた。
「……知り合いなの?」
「お、桜花。あーえっと、前に家の庭を覗いてた人……」
「それ……不審者じゃない」
ジメッとした桜花の視線が突き刺さり、女性は慌てて両手を振った。
「あまりにも素敵なお庭だったので、見とれてしまっただけなんです! 決して怪しい者ではありません。あ。私、植木星乃って言います。よろしければ、園内を案内致しますよぉ」
華音と桜花が顔を見合わせると、植木はハッとした。
「ごめんなさい。私、お邪魔でしたねぇ」
顔を見合わせたままの2人は暫し呆けて何も言えなかった。
「あ、あれ? お2人は恋人同士ではないのですかぁ?」
途端2人は顔を赤らめ、同時に顔を背けた。
「は、はい。違います。高校の同級生です。案内でしたよね。是非、お願いしてもいいですか」
否定した勢いのまま華音は話を進めてしまったが、桜花が反対する事もなく、植木の案内のもとで園内を回る事となった。
様々なエリアを案内してもらったが、植木の担当エリアである、チューリップ畑は特に圧巻だった。
色毎に整列したチューリップが広がる光景は、遠目で見ると虹色の絨毯の様で美しかった。
「まだ開花していないけど、向こうにも別の種類のチューリップを植えてあるんですよぉ。とっても綺麗なので、また来月辺りにでも見に来てくれると嬉しいです」
植木はチューリップ畑を背に微笑んだ。
華音と桜花がチューリップに見とれている傍で、何組かの客達がそれを背景に写真を撮っていた。SNS映えしそうだし、いい思い出になるだろう。
「せっかくなので、お2人も記念撮影しましょうよぉ! 私撮ります」
あまりにも植木が嬉しそうに言うので、2人は頷いて桜花がスマートフォンを渡した。
「お願いします」
「まっかせて下さい。私が愛情込めて育てたチューリップは映える事間違いなしですから!」
華音と桜花は戸惑いつつ、チューリップ畑を背に並んだ。
「はぁい、撮りますよぉ。あ。もう少しくっついてもらえますかぁ?」
「えっ……はい」
華音が躊躇いがちに桜花の方に寄ると、いち早く桜花が寄って来て華音の腕に自らの腕を絡めて来た。
華音に好きな相手が居るのは知ってるけれど、今日ぐらいは自分のものにしたっていいじゃないと、小悪魔な部分が桜花をそうさせた。
「良い感じです。では撮りますので笑って下さい」
カシャッとシャッター音がし、桜花は華音から離れて植木に歩み寄った。
植木は桜花に画面を見せながら、嬉しそうに返した。
「良い1枚ですねぇ。美男美女って感じで。SNSに載せるといいかもです」
「わたし、SNSはやっていないの。それに、これは大事に保管するわ。撮ってくれてありがとうございます」
桜花は好きな相手とのツーショット写真に満足すると、スマートフォンを操作し始めた。
「華音にも送るわね」
程なくして華音のスマートフォンが震え、写真が送られてきた。
華音も誰にも見せずに、大切に保存する事にした。
賢人が華音と桜花と別行動したのは、青葉に確かめたい事があったからだ。もしこれが思い過ごしであったなら、純粋な気持ちでデートを楽しめばいい。
賢人と青葉は温室を歩いていた。
左右にニョキニョキと生えているのは、巨大な柱サボテンで賢人の身長を優に超えていた。
青葉は楽しそうに「大鳳竜って言うんだよ」と説明してくれた。
「サボテンかぁ。前に買ってみた事あるけど、枯れちゃったな。毎日、ちゃんと水あげてたのに」
へらへらと笑う賢人に、青葉は眉をつり上げてぴっと人差し指を向けた。
「だからだよ。サボテンはね、時季によってあげる水の量が決まっているの。生育期でも、月に1回か2回たっぷりあげれば十分なんだよ」
「そうだったのか。ほら、だって植物って毎日水あげるイメージだから」
「賢人くんって頭良いのに、植物に関しては全然だね」
「学校の成績が良かっただけだよ。良い点採る為に勉強してただけで、勉強そのものはどうでも良かったからね。それに」賢人は青葉の手を取った。「植物は君の担当だからね。青葉が教えてよ。これからも」
「勿論だよ――――って、賢人くん!?」
その手を握ったまま賢人が歩き出し、青葉は狼狽えた。
「このまま手繋いで歩こう」
「えぇーっ。恥ずかしいよ……他にお客さん居るのに」
そう言いつつも、青葉は手をしっかりと握り返した。
青葉はいつまで経っても初心なままだ。他人に仲睦まじいところを見られるのが恥ずかしいと言う。婚約しているのだからいずれ結婚するのに、それでは少々不安である。だが、今は別の不安があった。
時折盗み見た青葉の横顔は、何処か遠く……此処ではない別の世界を見ている様で、青葉自身が此処には居ない様に思えた。
青葉であって青葉でない存在。
賢人の視線に気付いた青葉は、くすりと笑って賢人の方へ顔を向けた。
「なぁに? その、熱っぽい視線は」
「ん? あぁ……キスしたいなって思っただけだよ」
「だ、駄目です! 人が居るんだから……」
疎らだが客の姿が見受けられた。
「あはは。じゃあ、人が居ないところでね」
賢人は指先で青葉の柔らかい唇にちょんっと触れた。
「もう……賢人くんったら」
階段を下った地下通路は仄暗かったが、硝子ケースに展示された植物がライトアップされていて寂しさはなかった。それに、繋がれた手の温もりが独りではないという安心感を与えてくれた。
コツコツと、2人分の足音が反響する。賢人が何も言わないので、青葉もそうした。
上りの階段が見えてくると、賢人は深刻な声色で、青葉に尋ねた。
「そう言えばさ、ずっと気になっていたんだけど……お父さんは元気かい?」
「なぁに、急に。お父さんなら元気だよ」
「そっか。それならいいんだ」
「変な賢人くん」
嘘だ。
青葉の父は現在入院していて、笑顔で「元気」だなんて言える状況ではなかった。榊原青葉は嘘をついている。
賢人は奥歯を噛み締めた。
疑念をなくしたかったのに、更に増すばかりだ。気を抜けば、恋人が自分の知らない誰かに見えてしまう。
上から降ってくる白い光に照らされ、青葉の愛らしい顔が浮かび上がった。それが青葉でなくて、誰に見えようか。けれど、だからこそ恐ろしかった。
何かが榊原青葉に取り憑いて、成り代わろうとしているかの様な……。
階段を上りきると、亜熱帯の森が広がっていた。サボテンの展示場と同様、此処も全面硝子張りで明るい。
青々とした葉をたっぷりと蓄えた樹木に極彩色の大輪、様々な種類の多肉植物が室内を満たしていた。
今の季節を忘れてしまいそうな場所だ。
此処でも相変わらず青葉は植物について話してくれ、賢人は関心を示している風を装って考えていた。榊原青葉が榊原青葉である事を証明する質問の内容を。
大きな樹木の陰が落ちた場所で賢人は立ち止まり、青葉の手を離した。
「ねえ、青葉は僕の事好き?」
「なっ……何言ってるの!?」
青葉は顔を真っ赤にし、辺りを落ち着かない様子で見回した。
「大丈夫。誰も居ないよ。僕は……青葉が好きだ。初めて逢った時からずっと」
「……そんな一途なところが好きだよ。これ、前にも言ったね」
「その時の事は勿論、青葉も覚えているよね?」
「うん。忘れる筈がないよ」
「僕がうっかりマーガレットを下敷きにして寝てしまった事を青葉に怒られたんだよね」
「そうそう。あの時は本当に怒れちゃったんだから」
「……コスモス」
「え……?」
青葉が固まり、賢人はフッと笑うと目を伏せた。
「マーガレットじゃなくてコスモスだよ」
「あ……あぁー本当だ。気付かなかったよ」
「……覚えて、いや、知らないんだね」
賢人はじっと青葉の瞳の奥を捕らえた。
こんな時、自分が嫌になる。ほんの些細な心の揺らぎを見抜いてしまう自分が。
青葉は暫し賢人と目を合わせると、俯いて唇を噛んだ。