5.
オズワルドはしゃがみ、アルナの髪を掬って悪戯な笑みを近付けた。
「お前、こんな事してただで済むと思うなよ? 何、最初は痛いかもしれないが、そのうち痛くなって痛いまま終わる。大好きなカノンにならどんな事をされても嬉しいだろう?」
「言葉がおかしいぞ!? やだやだーっ!!」
アルナの喚き声に、ほわまろの耳がピクピク動く。
これは主人の危機。
ほわまろはアルナを救うべく、震えながらもオズワルドに飛び掛かる。
斜め後ろからの襲撃である為、オズワルドの視界には絶対に入らない筈……だったのだが、
「先日夕食に出された兎肉のミートパイは絶品だったな」
オズワルドは片手で白兎をいとも簡単に捕らえた。その際、ずっと視線はアルナに向いたままだった。
ほわまろは一気に血の気を失い、項垂れて失神した。
「ほわまろー!?」
叫ぶアルナの頬をオズワルドはほわまろを放ってその手で抓んだ。
「いひゃいいひゃいぃ!」
両手で強く引っ張ると、アルナは本気で痛がり全身を使って逃れようと藻掻いた。比例する様に手に力を込めるオズワルドの顔は愉悦に満ち溢れていた。さり気なく足でアルナの爪先を踏み付けている。
「ちょっと、オズワルド! それはやりすぎ……」
言い掛けて、華音は喫驚に目を見張った。2人分の足音が近付いて来る。普段は聞き取れない遠くの音も今の耳なら簡単に拾えた。
そう時間がかからないうちに、電柱の向こうからゴミ袋を提げた主婦2人組が姿を現した。
主婦らは近所の噂話で盛り上がっていたが、男子高校生と幼女の姿を認めるとすぐに話題をそちらへ切り替えた。
「あら? あれって、鏡崎さんのお宅の華音くんじゃない?」
「ホント。あの女の子は確か家政婦の親戚だったかしらね」
「こんなところで何を……って、虐待じゃない!? あれ」
「まあ! 大変」
最初は声を潜めていた2人だが、テンションが上がって段々と声が大きくなりオズワルドの耳にも届いた。
「成績優秀で礼儀正しい良い子だと思っていたのに……」
「やっぱりそう言う子は闇を抱えているものなのよ」
「そうね。この間自分の子供を虐待死させて逮捕された大学教授も、普段は真面目で優しかったらしいからね」
「恐いわねー……うちの妹の子供が鏡国高校に通っているんだけど大丈夫かしら」
憶測がどんどん肥大化し、まるで事実かの様に語られていく。やがてはそれがばら撒かれて当人以外の中では真実となってしまう。結果的には多勢の主張の前に成す術もなく、当人さえも真実だと主張するしかなくなるのだ。
当事者でありつつも無関係である矛盾した立場にいるオズワルドにとって状況的にここで引き下がるのは面白くはないが、顔面蒼白の華音を横目に見て小さく溜息をついて諦めを示した。
「これが原因で心に傷を負い、部屋から出て来なくなっても困るしな。――――アルナ」
突然と優しい声で名を呼ばれてアルナは固まった。頬は解放され、オズワルドの指先がアルナの額をツンっと突いた。
「駄目じゃないか、勝手に家を出て。ちゃんと留守番してるように言った筈だよな?」
優しくも厳しい態度は、誰もが鏡崎華音に抱く印象通りの優等生。
アルナも一瞬華音が戻って来たのではないかと錯覚した、見事な演技だった。
「それと、兎を虐めちゃ駄目」
それお前だろう、と華音は心の中で叫んだ。
まだほわまろは縫いぐるみの様に転がっている。
「は……はい」
華音に叱られた心持ちになり、アルナはすっかり縮こまった。
俯きかけたその顔をオズワルドは覗き込む。
「ごめんなさいは?」
「……うぅ~。ごめんなさい」
「よし、良い子だ」
オズワルドはにっこりと笑い、アルナの頭を撫でた。
本物はアルナに対してこの様な態度を1度も取った事はないが、すっかり主婦達は騙されて感心し前言撤回した。
「なーんだ、躾だったのね。あたし、早とちりしてしまったわ」
「面倒見の良いお兄さんじゃない。これなら姪も安心ね」
主婦達が通り過ぎていくと、オズワルドは人当たりの良い優等生から高飛車な宮廷魔術師の顔に戻し撫でていたアルナの頭をがっしりと掴んだ。
「私はこの通り唯の少年で戦う術がない。魔物が現われたらお前が代わりに倒すんだ。それから、ブラックホールの魔女捜索も忘れるな」
「やっぱりお前カノンじゃない~っ」
「返事は?」
オズワルドの気迫に、アルナはイエス以外の選択は出来なかった。
「……はい」
「あまり信用ならないが、まあいいだろう」
オズワルドはアルナを離し、パチンと指を鳴らした。すると、バサリとゴルゴが舞い降りて来て主の目線で浮遊した。
使い魔を伴ってオズワルドは鏡の向こうの自分と向き合った。
「それじゃあオレは学校に行かなきゃいけないから、そっちの事は頼んだよ。オズワルド・リデル?」
まるで自分そのものに言われている様な感覚だった。
「え? ちょっと?」
「くれぐれも粗相のないように。もし、何かあればどうなるか分かってるよな?」
本来は自分のものであるのに、笑顔が恐い。華音はずっと硬直したままだった。そのぎこちない唇から紡がれた言葉もまたぎこちなかった。
「だい……じょうぶ。多分」
「それならいい。――――さあ、道案内を」
答えに満足したオズワルドは視線をゴルゴに向け、使い魔を先導させて学校へと向かった。
男子高校生の後ろ姿が遠ざかっていくと、華音も複雑な気持ちのまま鏡面から消えた。
***
回想と華音の親友達への簡単な説明を終えたオズワルドは深い溜め息をついた。
鏡崎華音に成り替わる事など造作もないと思っていたが、いざ学校へ足を踏み入れてみると戸惑うばかりだった。使い魔の目を通じて多少なりとも彼の私生活は把握しているつもりだった。しかし、実際は視ているだけでは分からない事だらけで。苗字で挨拶された時は自分へ向けられているものだとは、すぐには気付けなかった。
宮廷魔術師でいる時は名前は疎か、声を掛けられる事自体ないのが常だったのに。その為、オズワルド・リデルは対応の仕方が分からなかった。
唯、助かったのが授業だ。授業中は座して教師の話を聞きつつ黒板に書かれた文字をノートに書き写せばいいだけだから。
不思議と、スペクルムとは異なるリアルムの文字を読み書き出来るのはこの身体が覚えているからで、もし元の身体に戻ったらもうそれは不可能だとオズワルドは断言出来た。
残念ながら鏡崎華音に成り切れなかったオズワルド・リデルは、あっさりとその違和感を彼の親友の1人に指摘されてしまった。気付かれる事は想定内だったが指摘される事は想定外で、雷の無防さに対してつい2度目の溜め息をついた。
「気付けた事までなら良かったが、その様に無防備な状態で本人に指摘するなんて命知らずだな」
「気付いたのに気付かないフリをするなんて出来ない。華音は俺の大切な親友だ」
親友を想うと、雷の顔は引き締まって頼もしくなる。
「カノンは良い友人を持ったものだな。だが、もし別の誰かだったら……魔女がカノンに成りすましていたらどうするつもりだったんだ」
「そ、それは……この拳で」
「ぶん殴る、か?」
雷が拳を胸の前に持ってきたまま押し黙ると、オズワルドはくすりと笑った。
「そう言えばお前は魔物に立ち向かっていたな。それで、同じ様に殴れるのか? 親友を」
「………………無理、だな」
じゃれ合いならまだしも、魔物と同じ様に――――はたとえ夢や空想の中でも出来なかった。
雷は華音に対しては使われる事はないだろう拳を静かに下ろす。完全に敗者の顔だった。
「お前が冷血な人間だったならその拳は役に立っただろうが、実際は無力だ。そして無知だ。大切な者を護ろうとする前に、まず慎重に行動する事を心掛けろ。どんな些細な事でも、時として命取りになるのだから」
そうだ。オズワルドの言う通り己は無力。喧嘩に強くても、別次元の存在の前では弱者だ。華音や桜花の様に別次元の魔法使いの力を借りられるなら話は別だが……そこで雷はこの頃考えていた事を訊くいい機会だと思った。
「確かにそうだ。けど、それは俺のままの状態の話だ。なあ、俺も別次元の俺の力を借りられたりしないのか?」
オズワルドは目を瞬くと、視線を下げ腕を組んだ。
「此方へ干渉出来るのは魔力の高い者のみ。まず、私の身近にそう言った者は居ないな。つまり、城内には居ないと言う事だ。1人素性を隠していた騎士が居るが、さすがにもう居ないだろう。人間でドロシーの様に魔力の高い者は稀だしな。あとはエルフ、竜族、妖精、もしかしたら小人や獣人の中にお前が居るかもしれないが、戦闘能力も備わっているとは限らん。したがって、期待は出来ない。諦めろ」
そうか……と雷は目を伏せたが、疑問を抱いてすぐに顔を上げて訊き返した。
「別次元では人間じゃなかったりするのか?」
「ああ。私は半分は人間、半分はエルフのハーフエルフだしな」
「ハーフエルフ……」
「何だ、カノンからは聞いていないのか」
雷はこくりと頷くと共に納得した。先程から同年代に言われている気がせず、年長者から言われている気がしていたからだ。
あまりファンタジー作品を好まない雷も、その存在の知識はあった。
「華音と同じ外見なのに年は違うんだな」
「400歳以上は離れているな」
「マジか。あ、それで華」
「スッゲー!」
ずっとアホ面のまま沈黙を貫いていた刃が急に感嘆の声を上げ、雷の言葉を遮った。
眉根を寄せた雷を押し退け、刃はキラキラとした目をオズワルドに向けた。
「魂入れ替わるとかラブコメの定番じゃん! 別次元の自分同士で男同士だけど。でも、男女でも出来るって事だよな。最高じゃんよ! 俺達、私達、入れ替わってる――!? からの、トイレどうしよう? 風呂はどうしよう? って! 不可抗力だって自分に言い聞かせ、つい異性の身体を触」
「黙れ」
雷は言葉と同時に肘を刃の愉快な頭に落とし、そのまま強く抑えつけた。
「全然喋んねーと思ったら、んなくだらない事考え」
「くだらないとは何だ! いってーんだよ、バカヤロー」
刃は力ずくで雷の肘を押し返し、再度オズワルドを今度は真剣な目で見つめた。
「ところで、オズワルドさん。華音は今オズワルドさんとしてスペクルム……だっけ? に居るんだよな?」
「それ、俺がさっき言おうとした……」と雷は独りごちた。
「ああ。カノンは今頃」
扉の向こうから声がしてオズワルドは言葉を切った。
雷と刃もそれに気付いて扉の前から離れると、扉が開いた。
姿を見せたのは気弱そうな1年生2人組で、3人の先輩の姿を認めるとまた薄暗闇の中に引き返そうとした。
雷がすぐさま閉まりかけた扉を掴んだ。
「俺達もう行くから」
そう言って扉を大きく開くと、2人は遠慮がちに屋上へ出て来た。
入れ違いに雷が屋内に入って行き、刃、オズワルドと続いた。
「俺達も早く飯食おーぜ」
1年生達がコンビニ袋を提げているのを横目に、刃が伸びをしながらぼやいた。
雷は「そうだな」と相槌を打ち、そんな彼らの背中を見ながらオズワルドは本来此処に居るべき少年の事を思う。
(カノン、上手くやれていると良いが)
最後にオズワルドが屋内へ入ると、扉がパタンと閉まった。