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スペクルム カノン  作者: うさぎサボテン
第九章 老舗珈琲店の騎士
118/200

4.

 よく晴れた空の下で、軽快に響くラリーの音。その大半が華音と高橋先生によるものだった。時々刃が打ち返し、桜花も負けじと懸命にラケットを振るが全てが空振り。結果、シングルスの様な状況となった。

 予想外の事が起こらない安心感からか、華音はラリーを続けながら器用に考え事を始めていた。


(土星の魔女クラン。一体あのヒトは何者なんだ? オレ達が生徒だって事は気付いていたみたいだし、何処まで知っているんだ?)


 スパン!


「ひぇっ……」


 刃の悲鳴が聞こえネットの向こうに意識を戻してみれば、見事に刃の足下にスマッシュを決めていた。

 湧き上がる歓声。その殆どが女子だった。


「あ、ごめん」


 華音が頬を掻くと、刃は涙目でボールを拾い上げた。


「俺を殺す気か!? 日頃の恨みか!?」

「日頃の恨みって……自覚あるのか」と、ギャラリーの1人である雷がつっこんだ。

「でも、いいもん。俺、怪我したらさっちゃんに手当てしてもらうから!」


 さっちゃん。養護教諭の三田(さんた)せんせいの事だ。

 華音は刃を無視し、顎に手を当てて思考の海に潜り込んだ。

 意識が戦線離脱した華音を余所に、試合は再開する。

 こんな状態でも華音は抜群の運動神経を発揮し、高橋先生とのラリーが続いた。高橋先生は「やるわね……!」と悔しそうに顔を歪めた。


「わたしも1度ぐらいは役に立つんだから!」


 高橋先生が打ち返したボールを今度は桜花が返そうとラケットを構える。

 主に男子生徒による声援が響く。


「いくわよ……――――って、あぁっ!」


 綺麗に空振り。それでも、男子達からは歓声が沸き上がった。


「赤松さん、可愛い!」

「マジ天使」

「可愛いから許す」



 確かに可愛い。


 彼らの様に口には出さなかったが、雷も内心同じ気持ちだった。

 今度は女子の甲高い歓声が響き渡る。彼女達の視線の先には華音が。

 桜花の後ろに構えていた華音がボールを的確に捉え、打ち返す。この時も、まだ華音は思考の海の中に居た。


(三田先生とクラン。顔の作りや話し方、所作……似ている気がする。修学旅行の時も、魔女の魔力を辿った先に三田先生は居た。こんな偶然、きっとない。そうすると、やっぱり同一人物……)


 先程よりももっと深く深いところまで。光も届かないその場所に、声なんて当然届く筈はなく。

 華音は返って来たボールに気付かなかった。動きを止めた華音をギャラリーが不思議そうに見ている中、謎のやる気に満ち溢れた桜花が華音が取り損ねたボールに向かっていく。


「わたしが取るわ!」


 意気揚々とラケットを構える。

 皆が声を上げる前に、バシン! とボールよりも重いものを叩いた音が響き渡った。

 華音のラケットが地面に落ち、次いで華音が倒れた。その間誰しもの目にはゆっくりと見えた。

 コロコロとボールが転がっていき、皆は悲鳴を上げ当事者である桜花は事の重大さに気付いた。

 今打ってしまったのはボールではなく、華音の頭部だったのだ。


「華音!? え……嘘、でしょう?」


 膝を付きラケットを放って華音を抱き起こすが、意識がなかった。

 隣のコートで試合していた生徒達も集まり騒ぎは肥大化する。

 ネットの向こうから刃と高橋先生が駆け付け、ギャラリーからは雷が駆け付けた。


「一旦保健室に運んだ方がいいわね」


 高橋先生は呼吸している華音にひとまず安堵するも、表情は終始曇っていた。

 動揺している桜花と刃を押し退け前に出た雷は、ヒョイッと華音を軽々と担ぎ上げた。


「俺が鏡崎を保健室まで連れていきます」

「そうね。頼むわ、高木」


 高橋先生が頷くと、雷も頷き返して彼らに背を向けて歩き出す。


「わ、わたしも行くわ……」


 その後を桜花が申し訳なさそうについていき、2人で保健室へ急いだ。



 ***



 肌寒さに目が覚めた。

 ぼんやりと視界に映るのは、仄暗い室内。全身を預けているものは感触からいって、ベッド。然程、質は良くないが、冷たい床の上で寝るよりも幾分かマシだった。

 意識が覚醒するや否や、違和感に気付いた。まず、動かした右足が何かに引っ張られたのだ。


(何だ……これ)


 鎖だ。まるで飼い犬に付けるみたいに、ベッドと自分を繋ぎ止めていた。

 何が起こったのか分からない。皆目見当も付かない。此処は学校でもなければ、自宅でもない。一瞬のうちに別世界へ飛ばされたかの様だ。

 もう1つ違和感があった。何故か自分は衣服を着ていない。脱いだ覚えなんてないのに。それから、身体の至る所にある赤い痣……見ているとゾッとした。


 ベッドの上、膝を抱えてぼんやりと天井を見つめていると、両耳が此方へ近付いて来る足音を拾った。

 何故か、心の底からゾッとする。既に冷え切った身体が更に冷えていく感覚がした。

 やがて、重たい扉が開かれて少しの間だけ外の光と空気を取り込むと男が入って来た。

 見覚えのない男だった。恰幅がよく、身形も整っている事から育ちの良さが覗えたが、表情はとても醜く悪魔の様だった。


「ルイス。暫く逢えなくて寂しかったよ。でも、大丈夫。今夜は朝まで一緒に居られるから、思う存分可愛がってあげるよ」


 優しい顔で、優しい声色でそう言ってみせたが、依然として悪魔である事には変わりなかった。


 いや、それよりも……


 ――――オレはルイスじゃない!


 自分とは違う誰かの感情が、言葉が、脳内に流れ込んできた。


 ――――オレはオズワルドだ!


 最大の違和感。それは自分であって自分でない事。この身体はオズワルド・リデルのもので、これは彼の記憶なのだ。

 一糸纏わぬ状態となった悪魔の手が伸びてきて押し倒される。必死に抵抗しても無駄だった。

 心も身体も穢されていく。


 やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だやめろやめろやめろやめろやめろやめろ止めろ恐い恐い恐い恐い恐い恐い嫌だ恐い気持ち悪い


 拒絶、恐怖、嫌悪、絶望がぐるぐると混ざり合い、大きな感情の塊となって襲いかかる。


 ポツリ……。


 一滴の涙が頬を伝った――――



 ***



 鈍い痛みに目が覚めた。

 ぼんやりと視界に映るのは、明るい室内。全身を預けているのは、感触からいってベッド。ふんわりと優しく肌触りが良かった。

 意識は覚醒していくのに、頭部の温度は依然冷たいまま。後頭部を外側から冷やされている感覚があった。確認してみると、ひんやり冷たいジェル状の枕が置かれていた。


「良かった……華音、目が覚めたのね」


 安堵した柔らかな声に、華音も安堵した。

 上体を起こすと、真横で桜花が丸椅子に腰掛けて此方を見下ろしていた。

 後方から降り注ぐ陽光に包まれて、まるで天使の様に可憐で美しかった。

 そんな天使の顔は華音の顔を見た途端に、戸惑いに変わった。


「ど、どうしたの? まだ……頭痛む?」

「頭?」


 後頭部に手を伸ばす。確かに、ズキズキと鈍い痛みはまだ残っていた。しかし、何故桜花はそう思ったのだろう? そんなに苦痛の表情を浮かべていただろうか……と手を頬に持って行くと液体が付着した。


「あれ? オレ、何で泣いてるんだ?」


 己の瞳から零れ落ちた涙だった。今はこれ以上溢れてくる事はないが、心がそわそわし始めた。

 俯き、思考を巡らせる。

 何か物凄い感情に呑み込まれて――――


「そうだ……オレは」


 オズワルドの記憶を見た。前にも何度か見た事はあるが、これはもっと深いところ……オズワルドが最も沈めておきたかった記憶の一部だった。

 華音が流した涙はオズワルドの悲しみが具現化したモノ。意識が同調した結果だった。

 桜花が不安そうな顔をしていたので、華音は首を横に振ってふわりと笑った。


「もう心配しなくても大丈夫だよ。……と言うか、此処って保健室だよね? オレ、いつの間に気を失ったんだ?」

「えーっと……それは……」


 桜花は華音から目を逸らし、指を組んだり解いたり落ち着かなくなった。

 今度はオズワルドではなく自分自身の記憶を手繰り寄せる。

 体育の授業でテニスをしていた事は覚えている。ペアは桜花で、刃と高橋先生ペアと試合をしていた。その最中、土星の魔女の事を考えていたら頭に衝撃が走り――――今に至る。

 先程まで天使に見えていた桜花の姿が小悪魔に変化した。

 華音はもう1度後頭部を押さえた。


「桜花……まさか、キミが」

「――――っ! ごめんなさいっ」


 桜花は椅子から下りて冷たい床の上で土下座した。


「わたしがラケットで華音の頭を打ちました……。でも、態とじゃないの」

「そうだろうなって思ったよ。いつもの事だし……じゃなくて! その格好はやめて!」


 慌ててベッドから下りた華音は桜花の顔を上げさせた。


「華音……大事なくて良かった……」


 グスッと桜花は泣き、不意打ちをくらった華音は今度は心を打たれた。


(その涙は卑怯だろ……。可愛いから許せるって、オレも相当馬鹿だな)


 華音はベッド、桜花は丸椅子に座り直し、一旦落ち着く。

 保健室である事は純白のベッドの存在と窓から見える校庭で一目瞭然だが、疑問なのが此処の主たる養護教諭の姿が見当たらない事だった。


「三田先生は居ないの?」

「ええ。だから勝手に冷却枕とベッドを借りたの。此処まで華音を高木くんが運んでくれたんだけど、授業もあるから戻ってもらってわたしが残ったのよ。華音を1人にしておく訳にはいかなかったからね……元々わたしが原因なんだけれど」

「そう言う事か。何処に行ったんだろう……」


 ガラッ。


 扉が開かれ、噂の人物が戻って来た。

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