『あの日』の夢
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――――これは夢だ。
すぐに気が付いたレイニールは、自分のいる状況を静かに見詰めた。
客観的に見た己…………彼は一生懸命、花を摘んでいるようだ。
レイニールの視線はとても低くなっていて、地面に生えている雑草の白い花を摘む手はとても小さい。
摘んでは花の茎を編み込み、それは下手ながらも縄のようになっていく。どうやら自分は雑草の花で冠でも編んでいるのだろうと思った。
――――あぁ、思い出したぞ。これは『あの日』の記憶だ。
レイニールには『あの日』という記憶がある。
それは、まだ十二年ほどの短い人生において、生涯忘れることはできないと悟った一日の出来事だった。
この夢は『あの日』、まだ4才ほどの自分の記憶だ……と、レイニールは確信している。
確かこの時は、住んでいた屋敷の庭で花を摘んで、母親に花輪を作って贈ろうとしていたのだ。
摘んでは編み込み、摘んでは編み込み……
ガタガタの冠にも充たない大きさの、花の輪がそろそろ完成しようとしていた。
――――花輪が完成したら、余はこれを持って屋敷の中庭へ…………
『…………うわぁあああっ!!』
――――へ?
その時、後ろで何か悲鳴が悲鳴のようなものが聞こえた。
しかし、夢の中の小さな自分は、花を編むことを少しもやめようとはしていない。まるで悲鳴が聞こえていないようだ。
――――なんだ? 今の…………
『こ、こんにちは?』
誰かが後ろから声を掛けてくる。だがやはり、自分は花を編むことをやめずに振り向きもしない。聞こえていないのだ。
――――誰だ? あの時は誰もいなかった……はずだ。
『あの日』、このタイミングで誰かが来たとか、そんなことはレイニールの記憶にはない。
地面にしゃがむ自分の背後に、誰かが近付く気配がする。夢の中だというのに、その気配ははっきりとレイニールの背中に伝わってきた。
そして、その人物が静かに後ろから、自分の様子を見ているのが分かった。時折、とても小さな声で『がんばれー』と言われていることも。
「……できたっ!」
しばらくして夢の中の自分が声をあげた。
小さな花輪を手に立ち上がると、自分はくるりと後ろを振り向いた。歩く予定の景色が視界に収まる。
そこで、レイニールはその視界に入ったものに驚いた。
――――…………リィケっ!?
王都の近くの山の中で出会った少年の『リィケ』だ。
ただ、あの時の寝間着姿とは違い、コートのような厚手の【聖職者連盟】の制服と思われるものを着ていた。
――――何故、お前が此処に!?
リィケの方も驚愕の表情で、レイニールを見詰めて立ち尽くしている。
もちろん、これは夢でありリィケが何故かいることも、夢だから……と一蹴することはできるのだが…………
『ロアン……?』
――――……誰だ?
幼いレイニールの顔を見たリィケは、彼の知らない名前を呼んだ。しかし、ハッとしたような表情をした後、
『レイニール……だ』
小さく呟いていた。
――――リィケは、余の顔を知っている? 何で知って…………
夢の中の自分は疑問を口にすることなく、リィケを通り過ぎて屋敷の中へと移動していく。
「ははうえー! どこにいらっしゃいますかー?」
『あ! 待って、レイニールっ!』
それと同時に、背後からリィケもついてくる気配がしていた。
幼いレイニールは母親を捜して屋敷を進んでいく。
その途中で出会う使用人の視線。そのほとんどは冷ややかだ。自分たち母子が、この屋敷では味方があまりいないのを物語っている。
――――知らない……というのは、時として恐ろしいものだな。
幼いレイニールは一度も止まることなく、屋敷の中を走り回った。背後からリィケがずっとついてきているが、屋敷の者たちが何も言わないところを見ると、このリィケ自体も“夢の一部”なのかもしれないと思う。
走り続けてやっと、母親のいる中庭へとたどり着いた。
――――母上…………。
こちらに背を向けているが、その後ろ姿は気品に満ちていて美しい。
だが、見付けた母親は『お茶会』と称した『吊し上げ』に遭っているところである。三人の貴族の夫人が、日頃のヒステリックなストレスをぶつけてきているのだ。
本来ならば、国の正式な『寵姫』であるレイニールの母親に不躾な態度は許されないが、この三人の刺客を送りつけてきたのは、他でもない王の正妻である『正妃』だ。
この国では、いくら陛下からの寵愛を受けていたとしても、『寵姫』が『正妃』を訴えることはできないことになっている。
特にレイニールの母親は『寵姫』という立場が不似合いなほど大人しい女性で、常に『正妃』に対して礼儀を欠いたことがなかった。
それが余計に陛下の気を引いてしまい、『正妃』の怒りを買っていることをレイニールはよく知っていた。
「まぁ! それでよく、陛下とお話ができますこと!」
耳障りな甲高い声。そのセリフを皮切りに、三人の夫人たちは競い合うように『寵姫』を締め上げていく。
「メリシア様、そんなことも御存じなかったのですか?」
「皆様、仕方ありませんわ。メリシア様は御正室様のように、貴族のご出身ではありませんものねぇ」
「貴族の社交界では当たり前ですのよ。ふふふ、私たちで良ければ教えて差し上げてもよろしくてよ?」
レイニールは耳を覆いたくなる。
母親はいつも、人を小バカにする言葉をこの者たちに投げ付けられていたからだ。
「えぇ……申し訳ございません。わたくしの勉強不足です。皆様からは色々とご教示いただいておりますのに…………」
だが、大人しい母親は言い返すどころか謝ってしまう。それがますます彼女たちの嗜虐心を煽っていく。
母親がどんどん追い詰められる。見ていた幼いレイニールの頬に、涙が一筋伝っていくのが分かった。
――――この時はまだ、陰で泣くことしかできなかったな。
そう、こんな子供に何ができる?
――――今なら、こんな好き勝手される前に処してやれるのに。
ふと、そんな不穏なことを思った時、後ろで黙って立っていたリィケが、ずんずんと母親と夫人たちへと近付いていくのが見える。
『ちょっと!! おばさんたち、さっきからひどい!! レイニールのお母さんが何したの!?』
――――ぶはっ!?
遠慮のないリィケの怒りのセリフに、レイニールは思わず吹き出した。
『おばさんたち、あっちでレイニールが聞いて泣いてるんだよ!? ひどいこと平気で言う人のこと“無神経”って言うんだって、僕だって知っているんだからー!!』
おそらく聞こえていないだろう相手に、リィケはプンプンと怒って抗議している。
――――く……くくっ、はははっ……!
目の前で母親がバカにされ、当時の自分は泣いているというのに、リィケの言い方がツボにはまってしまい、意識の中のレイニールは笑いが止まらなくなっていた。
――――ふ、ははは……リィケ、お前が本当にその場に居れば良かったのに。
心底そう思った。笑いが収まってから改めてリィケを見ると、何やら母親の顔を覗き込んで顔をひきつらせている。
――――…………?
ここからでは、リィケが何に驚いているのか分からない。疑問に思っていると、後ろから声が掛けられた。
「おい、レイニール……」
「あ……兄上……」
「静かに。あっちへ行くぞ」
それは、たまに王都に帰ってくる、十六歳も年の離れた兄の『リズウェルト』であった。
リズウェルトはレイニールを腕に抱えると、中庭をそっと抜け出した。その時、リィケも二人の後ろについて歩いてくる。
三人は正面の玄関入口付近の庭へ移動すると、そこにある池の淵のレンガに腰を下ろす。握り締めてボロボロになった花輪が池の中へ落ちた。
「すまない。本当はもう少し早く来たかったのだが、身だしなみがどうのとか言われて控え室で捕まってしまってな……」
「…………兄上……う、うぅ~……」
顔が涙でぐちゃぐちゃになった彼を、兄は黙って受け入れてくれる。
頭を撫でられる懐かしい感触と、兄に抱き付いた安心感が蘇ってきた。この頃のレイニールの最大の味方は、腹違いの兄のリズウェルトであったからだ。
リズウェルトは『正妃』の子供であるが【サウザンドセンス】ではない。その事を理由に、もう何年も前に王宮を出て一般人として仕事をしているというのを、レイニールは本人から聞いていた。
兄上が……“父上”なら良かったのに……。
母親と歳が四つしか離れていない兄に、レイニールはいつもそう思っている。
しかし、その願望を口にすると、リズウェルトはレイニールを嗜めた。
実際にレイニール母子をよく庇うリズウェルトに対して、『父親の愛人に息子が骨抜きになっている』だの、『王の寵姫は若い王子の方を好んでいる』などどいう、下卑た噂を流そうとする者がいたからだ。
――――くだらない噂だ。この噂のせいで、兄上はここへ頻繁には来られなくなってしまった。
会えるのは半年に一度くらいだ。レイニールの方から会いに行きたいと言ったが、それは叶わなかった。
兄のいる連盟の支部がトーラストだと聞いたのも、そういえばこの日だったと頷いていると、隣でリィケが眼を見開いてリズウェルトを見ている。
角度を変えたり、正面からじっと見たり。
その間、何かに悩んでいるようなリィケの表情が可笑しくて、レイニールは再び笑い転げていた。
『あっ!! そうか!!』
――――お? 何か分かったか?
リィケの顔がスッキリしたというように笑顔になった。
『そっか、この人……リーヨォだ!! 眼鏡もヒゲもないから分からなかった!!』
――――リーヨォ? そういえば、本部ではそう呼ばれていたことがあったな……?
兄の偽名が出てきたということは、リィケはトーラスト支部でリズウェルトと関わることがあるのだと、レイニールはほんの少し羨ましくなった。
『そっか……じゃあ、リーヨォも心配してるね』
――――え?
いつの間にか、リズウェルトにしがみついた自分の頭を、リィケ手を伸ばして撫でている。しかし、リィケの手はレイニールをすり抜けてしまった。
『幻じゃなく、本当の世界で絶対見付けるから……待ってて』
――――……。
きっと、本当に触れるリィケの手は優しいのだろう。
顔を上げたレイニールの視線が、偶然にもリィケの顔へと向く。
目が合った気がして、何故か気恥ずかしくなってしまう。
――――わかった。お前が見付けてくれるまで、余は待っていよう。だから、会えたら…………
パチンッ!!
何か弾ける音がして、それに合わせたようにリィケが突然消えた。
――――…………ああ、あれは…………
優しい余韻に浸る暇もなく、リィケが消えた向こう側には高笑いしながら屋敷から出てくる客の夫人たちがいた。
その者たちを認識した途端、パリッという音と細い糸のような“紅い稲光”がレイニールの周りに発生する。
――――そう……『あの日』は日頃の礼を返した日だ。
「…………………………」
幼いレイニールは夫人たちの前に進み出て、これ以上ないくらい愛らしくにっこりと微笑んだ。




