少しずつの変化
カラァ――――ン……
カラァ――――ン……
朝二番の鐘が鳴る。
時刻は午前九時。
「…………おはよ」
「あ、おはようございます! ……って、イリアさんが朝に出勤してるっ!?」
「…………出勤しない方が良かったの?」
『徹夜』『泊まり込み』が当たり前のイリアが、普通の出勤の時間帯に現れたことにアリッサは驚愕の表情を浮かべた。
「研究室にいないから、シャワーでも浴びに行ったのかと思ってました。昨日帰ってたんですね……」
「ちょっと……急用でね。あ、今日は頑張るつもりだから、エッグタルト三個お願い。昨日のは持って帰ったら弟たちに食べられちゃった。美味しかったから、今度は店に連れてけって言われたわ」
「ふふ……ありがとうございます。母に伝えておきますね」
イリアはため息をついてイスに座る。
机に向かうと、ふと昨日のことが思い出された。
『オレは“ルーイ”のことを知っている』
サーヴェルトの思いもよらない言葉に、イリアは一晩中悩んでいたのだ。
……知っているなら、何でクラストでの報告時に何も言わなかったのかしら?
ルーシャが【魔王】に口づけをされた事実を隠していたように、言ってしまえば周りが騒ぐと思ったのだろうか?
いえ……これは、騒ぐだけじゃ済まされないわね。
何か重要な事を、サーヴェルトは隠している。それは何かがひっくり返るほどのもの。
もう……アタシだけじゃ、考えまとまらないわ。
こういう時にリーヨォがいれば、イリアと二人であーだこーだと推論を述べ合って、気持ちの整理が行えるのだが。
「……リーヨォ、早く帰ってこないかしら」
「イリアさん? リーヨォさんが何かありました?」
「ううん、ちょっと会いたくなっただけ……」
「っっっ!?」
イリアの言葉にアリッサは興奮気味に目を輝かせた。
「やっぱりイリアさんはリーヨォさんを……!」
「ない。絶対ない。完全にない。一生独身の方がマシ!」
見事にアリッサの期待をへし折り、イリアは溜まっている仕事のファイルを机に積み重ねた。
とりあえず……今のうちに仕事を片付けてしまおう。サーヴェルト様への疑問は、ルーシャが帰ってきてからじゃないと解消されないし!
イリアは昼まで目の前に集中することにした。
…………………………
………………
同時刻。
連盟建物内 支部長室。
「ミリア。悪いが、明日は連盟も家も、どちらも完全に休みをもらっても良いだろうか?」
「あら、連盟だけでなく家の仕事もですか? 珍しいですね。用件をお聞きしても?」
朝から仕事を机に山積みにしながら、支部長補佐官サーヴェルトは支部長である妻のアルミリアに伺いを立てていた。
「まぁ……その、旧い知り合いと会おうと思ってるだけだ。呼び出してみるけど、会えないかもしれない……」
「……お呼び立て……今からですか? トーラストにお住まいの方なの?」
「ん……そう、だな……」
「………………?」
いつもはハッキリとものを言う夫が、なんとも歯切れの悪い反応をしたため、アルミリアは内心首を傾げる。
「あらぁ、もしかして女性かしら? とうとう第二夫人の候補でも?」
「んなっ!? そんなわけないだろ!」
妻の突拍子もない推理に心底驚いたのだろう。サーヴェルトは思わず立ち上がり、すぐにアルミリアに抗議する。
「あらあら、別に構わないですよ? ルーシャも再婚する気配もありませんし、ケッセルの血筋は年々少なくなってますものね……」
「ない! 絶対ない!! オレはお前がいれば充分だっ!!」
サーヴェルトの言葉にアルミリアは驚きで目を見開いた後、満面の笑みで彼を見上げた。
「うふふ……この歳で夫にそんなこと言われるなんて……嬉しいわ。ねぇ。サーヴェルト」
「――――――っ……!!」
サーヴェルトは耳まで真っ赤になり停止する。固まる夫を眺めながら、アルミリアは書類を一枚取り出して目の前に置いた。
「さて……冗談は置いておいて。はい、これ。ちゃんと形だけでも、休暇届けをお願いしますね」
「お、おう…………」
ぎこちない動作で書類を書き始めるサーヴェルト。それを見てアルミリアは苦笑する。
「もう、そんなに固くならないでくださいますか。本当にただのお知り合いなのよね?」
「……本当にただの知り合いで、普通の友人だ。それと、戻ったら、今度はルーシャのことを考えておかないといけないな……」
「ルーシャのこと? 何ですか急に……」
ルーシャの話題になったことにアルミリアは眉をひそめた。今日のサーヴェルトは、どこかそわそわして落ち着かない気がする。
「いや……前から思っていてな……その友人には、ルーシャのことも関わってくるんだ。そろそろあいつには、オレたちの仕事も覚えてもらわないと。オレたちも歳だし、引退を考えないとな……」
「そう、なのですか。ルーシャには支部長の仕事を継いでほしいと思っていましたけど……」
連盟の仕事は世襲ではないが、隣接する神学校や病院はケッセル家が運営している。そのため、ケッセル家の聖職者が連盟の支部長や補佐官に就くのが当たり前になっていた。
「ルーシャは…………残念だが、支部長とケッセルの当主の両立は無理だろう。あいつはオレと同じで器用な方じゃない」
「あの子、あなたの若い頃にそっくりですものねぇ?」
「ゴホンッ! そ、そんなに似てないだろ……」
今日のアルミリアはサーヴェルトへの当たりが強い。
そう感じても、口ではいつも負けているサーヴェルトは、アルミリアに余計なことは言わずに話を進めた。
「そうなると、将来は『退治課』のルーシャを補佐官に推すわけだ。つまり、今の『祭事課』に支部長の候補を見付けて育てないとな」
代々、支部長と補佐官は課の間で公平を期すために、『退治課』と『祭事課』から一人ずつ選ぶ。
「優秀さと、ルーシャとの相性を考えると、私は“レバン”が良いと思います」
「あぁ。レバンなら、そつなくこなしていくとは思うが…………惜しいことに、あいつには“欲”がない」
神学校や連盟での功績、年齢と出世の早さでいけば、ケッセル家の親戚で司祭のレバンが適任だ。しかし、彼はそれ以上の地位を求める気がなかった。
「レバンには幾度となく『司教』の資格試験を勧めていたのだが、あいつ『司祭の資格だけでも、充分に連盟の仕事はできます』と言うばかりでな……」
一般的に【聖職者連盟】で一番多いのは『僧』や『女僧』であり、それを束ねる役割には『司祭』の資格が必要である。
さらに連盟の支部長ともなれば、それ以上の『司教』もしくは『大司祭』の地位でなければ他の者は納得しないのだ。
「レバンが無理なら……そうねぇ……あ! じゃあ“ローディス”は? あの子は子供の頃からがんばり屋さんで、レバンと成績もそんなに変わらなかったわ」
ローディスが子供の頃にいた孤児院はケッセル家の所有である。サーヴェルトもアルミリアも、彼のことは昔から知っていた。
「確かに。あいつは出世こそは遅いが、確実に結果は出している。それに、対外的にも性格が聖職者らしい…………ただ……」
「ただ?」
サーヴェルトは大きくため息をつく。
「レバン以上に欲がない。それに自己犠牲が強いうえ、自分を過小評価する癖がある……」
「あらまぁ、そういえば……」
長年、支部長補佐官をしているだけあって、サーヴェルトは他の職員をよく見ている。レバンもローディスも能力は評価しているが、他の人間に彼らを支部長に推すように説得できるだけの『圧』が足りない気がしていた。
「惜しいんだよな。レバンもローディスも、もう少し周りを黙らせられる何かが足りない……」
「……足りないなら、うちのルーシャもまだ『司祭』ですよ。あの子が戻ったら、私から『司教』の教えを叩き込んだ方が良さそうね」
「お前がか?」
「ええ。サーヴェルトは今までずっと、“アメとムチ”のムチばかり振るっていたのだから、これからはアメでも配っていてくださいな」
「今さら……」
“できない”と続けようとして、サーヴェルトは口をつぐんだ。昨日、ルーシャとちゃんと話をする……と決めたばかりなのを思い出す。
「ほどほどにな。あいつに避けられない程度にしとけ」
「……大丈夫ですよ、ルーシャももう大人ですから」
それだけ言い終わると、二人は昼まで黙々と予定の仕事に取り掛かった。
…………………………
………………
カラァ――――ン……
カラァ――――ン……
――――これは何番の鐘の音だろう?
最初に聞いた鐘から数えて三回目。
小屋に射し込む光の角度から見て、午後の三時くらいだろうか。街外れの棄てられた物置小屋には、他に時間の経過を知る術はない。
――――そろそろ夕方になるか。なるべく早く動けるようにならないと。
この小屋に流れ着いてから、『彼』は仰向けになった身体を起こそうと、必死に脚や手の関節に意識を集中させている。
何度かの挑戦で、片腕だけなら動くようになった。
「ギギ……」
『今なら……』
片腕を動かし、指先で木製の床材を引っ掻く。金属でできた指は少しずつ表面を傷付け、床の一部に幾何学的な模様を浮かびあがらせた。
「……ギ……ギギ……ギ……」
『……ダエ……グ、オセル、ユル…………』
他には聞こえない呪文の言葉が金属の口から紡がれる。
投げ出された腕の周りが淡い赤の光を放った。手のひらの下、床には引っ掻き傷で書いた小さな『魔力栓』の術式が描かれている。
――――よし、成功だ。このまま『魔力』を流せば、身体も動くだろう……。
『魔力栓』が乗っている腕から、徐々に関節の動きが滑らかになっていくようだった。
――――身体が動くようになれば、街の様子も見に行ける。もしかしたら、この姿でも解ってくれる者もいるかもしれない。
“人形の身体は【サウザンドセンス】に触れば判る”
彼の話を聞くことができた少年がそう言っていたことが、今の彼にとっての唯一の希望だった。
――――早く、戦えるようにならないと……。
気持ちに反応した拳が握られる。
――――余は母上を死なせた者共を、絶対に許さない!!
小屋の外では、西の空が赤みを帯びていく頃だった。