五年前の終止 その2
「…………じいさん……ラナロア……?」
二人に気付いたルーシャは顔を上げる。
その瞳に生気はほとんどなく、顔もやつれて血色が良くない。
「ルーシャ、何で私たちがここにいるのか解りますか?」
目が合うと、ラナロアは二階の廊下の手すりから、下のフロアにいるルーシャに問いかけた。
「……………………」
ルーシャはサーヴェルトとその隣に立っている『黒装束のラナロア』に視線を固定している。彼がトーラストの街を離れるのはもちろん、人間の黒衣の姿で現れる意味が何を指しているのか知っていたからだ。
「……じいさんと一緒に、こんな所までオレに説教をしに来たのか?」
「えぇ、私が再三『休め』と言ったのに、あなたは言うことを聞いてくれませんから……“強制休暇”を取らせることにします」
「…………いらない」
「拒否する権利はありません。まずは、自分の姿を見なさい。それが聖職者の姿ですか?」
「…………………………」
ルーシャの白い退治用の服は、悪魔の血で全身染め上げられている。
「あなた一人で倒したのですか。現場を見た以上、我々はあなたのやった事を問題にしなければいけなくなりました」
ラナロアは視線を床に移す。
ルーシャの足元にはたった今、彼によって倒された悪魔が仰向けで倒れている。
姿は貴族が身に纏う立派な上着を羽織り、辺りには本人が着けていた装飾品が散らばっていた。
一見、人間のように見えるが、服から出ている手足や顔は異様に毛深く爪は長く鋭い。赤黒い血が吐き出された口からは大きな牙が上下に覗いていた。
おそらく、これは『吸血鬼』だろう。悪魔の胸には未だ『宝剣レイシア』が突き立てられていた。
三人が居る場所はとても広く、中央は三階まで吹き抜けになっていた。天井や壁には豪華な絵と装飾が施された跡があり、全盛期は立派なダンスホールだった面影がある。
ここはかつて栄華を誇った公爵の屋敷であり、主亡き今は悪魔が彷徨う森深くの廃墟であった。
こういった昔は人間が住んでいた立派な屋敷には、知能やプライドの高い怪人系の悪魔や、元は人間で死後に魔力を有した悪霊系の悪魔が多く住み着く。
この廃墟は近くの町では有名であったが、いたずらに屋敷を荒らそうとする輩でなければ、ここの主の悪魔は町の人間に手を出すことはしていない……と、連盟は報告を受けていたのだ。
サーヴェルトは大きく息をつくと、険しい表情でルーシャに語りかけた。
「そいつの退治依頼はまだ来ていなかったはずだ……それを届け出無しに殺すってのは、連盟の退治員として色々と問題がある」
そんなサーヴェルトに向かって、ルーシャは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「…………こいつは実際には害があった。道に迷って屋敷に入り込んだ人間を殺して金品を奪っていたんだ。さらに、町の人間では足が付くと分かっていて、町とは反対側の川岸に来た者を拐って血肉を食っていた。この先の部屋を調べてみればいい……人だったものが山のように積まれている」
やはり、調査済みで倒したのですか。
ラナロアはルーシャがある意味、恐ろしく冷静に動いていたことに感心してしまった。
「【聖職者連盟】の判断を待っている間に何人殺されると思う? それにオレは、川岸の集落でこいつの話を聞いて調べに来ただけだ」
こういう知能のある悪魔を独断で退治する場合、ちゃんとした裏付けをしてからでないと本部から退治の許可が下りない。
たぶんルーシャは『調査』という形で村人に依頼され、ここを訪ねたらいきなり襲われたので『退治』したという、『緊急事態』としてかわすつもりなのだろう。連盟としてはそれは違法ではない。
しかし血塗れで剣を突き立て、悪魔を踏みつけている様は、とても聖職者とは思えなかった。
ズルッ……!
ルーシャが剣を悪魔から引き抜く。
悪魔は一瞬体を仰け反らせると、口からまとまった血を吐いて動かなくなった。すると悪魔の体から無数の煙が上り、その輪郭はぼやけて溶けていく。
それと同時に、ルーシャの体に付いた血も跡形もなく消える。
まるでまだ何もしていなかったように、ルーシャの服には一切汚れは付いていなかった。
「……ルーシャ、帰るぞ。お前はしばらく自宅謹慎になる。連盟を通さず無茶ばかりしたから、少しは休めと支部長の命令だ。このまま、俺とケッセルの屋敷へ戻れ」
「…………断る。まだ終わっていない」
「何を…………ん?」
その時、異常なほどの冷気がホールを包んだ。
フロアの一階の床が白い靄で覆われていく。
「サーヴェルト……すぐにルーシャのところへ行きましょう。城中の魔力が下へ流れています。おそらく、吸血鬼がいなくなったことで、新しく『主』になりたがっている者がルーシャを狙ってきています」
「なるほど、ルーシャの身体を乗っ取った奴が次のボスになるってわけか」
サーヴェルトとラナロアは急いで近くの階段を降りた。
今のルーシャは負の感情で動いている。悪魔を祓うというより寄せ付けてしまう。
悪霊系の悪魔にとってそういう人間の身体を乗っ取ることは、実体有りの悪魔に昇格できる最高の物件と言えた。
しかも、聖職者は普通の人間よりも悪霊に耐性があり丈夫で、上手くいけば人間に紛れて生活できるのだ。
二人がフロアに降りた時には、かなり濃く真っ白な冷気が床全体を隠してしまうほどであった。
サーヴェルトは正面の大扉を見据えて立つルーシャの腕を掴んで引っ張ったが、ルーシャは全く動こうとしない。
大扉の隙間から、この冷気のような瘴気が吹き出しているのを感じる。
「おい!! ルーシャ!! 駄目だ、お前はもう戦うな! これ以上、無慈悲に悪魔を殺せば【絶対の魔王】の怒りを買うぞ!! お前は悪魔になりたいのか!?」
「……なら、【絶対の魔王】を倒せばいい。そうしたら悪魔はいなくなる……」
うわ言のような声が聞こえた。
サーヴェルトにはルーシャの気持ちを考えれば、悪魔への復讐に走りたくなるのも解る。しかしここで止めなければ、自身を破滅に追いやっていくのが目に見えているのだ。
何があっても放さないつもりで、サーヴェルトは武器を置いてルーシャの身体を両腕で抱き締める。
「二人とも下がりなさい!!」
ラナロアの声にハッとなり、前を見たサーヴェルトはますます焦りが募った。
目の前の大扉がゆっくりと開くと、冷気がさらに濃く霧のようにフロア全体に広がる。
クスクスクスクス…………。
何かの笑い声があちこちから反響して、声の主の居場所が分からない。
サーヴェルトが目を凝らすと、自分たちを包む霧がいくつもの塊になっていることに気が付いた。
無数の骸骨のような顔が、前後左右頭上からルーシャとサーヴェルトを取り囲んでいる。
「まずい……二人そろって悪魔になるわけには……」
サーヴェルトはルーシャと共に悪霊に囲まれ、成す術がなかった。
このままこの群れに一斉に襲われれば、二人の生命力は食い尽くされ、残った身体に悪霊が入り込むだろう。
良くて上級悪魔、最悪の場合は不死者として、この古城に住み着くことになってしまう。
「喰えるもんなら喰ってみろ……」
サーヴェルトの耳にルーシャの低い声が届く。
しがみつくサーヴェルトを無視して、ルーシャは『宝剣レイシア』の柄を強く握りしめる。
「『我、汝の力の道標なり』……」
法術の聖言を唱え始めると、宝剣の刀身が再び青白い光を帯びていく。
「ルーシャ!! やめろ! こんな近くで全体攻撃の法術を使ったら、お前の身体もズタズタになるぞ!!」
「死ななきゃいい……じいさんは伏せてろ。コイツらは全て滅す……!!」
「ルーシャ!!」
こちらを見ないルーシャの横顔から、サーヴェルトは全てを悟る。
彼の目的は目の前の悪魔を消すことだけ。
「――――やめろ! それは……」
妻子の敵討ちではなく、悪魔そのものを滅ぼすつもりで片っ端から殺す……その殺戮に正当性は少しも存在しない。
悪霊たちはルーシャが攻撃の準備を終える前に、二人を取り殺そうと我先にと襲い掛かってきた。
「くそぉっ!!」
「――――このっ……!!」
サーヴェルトは目を閉じ、ルーシャは宝剣を振りかぶって刀身に宿らせた法力を放とうとした。その時、
ザアアアアアアア――――ッ……!!
ルーシャとサーヴェルトを冷気が包み込んだ。
「何、だ……!?」
「…………これは」
まるで津波が押し寄せたように、空気を凍らせるほどの魔力と殺気がホールに充ちていく。
冷気はルーシャたちを取り囲んでいた悪霊たちも包み込み、周りに発生していた障気の霧を霜に変えて下へ落としてしまう。ホール全体の空気が真冬の外気のように澄んでいくのが分かった。
『アァアアアア…………!!』
うめき声をあげた悪霊たちの動きがピタリと止まり、ルーシャたちの背後を見て、あからさまに『恐怖』の様相を浮かべた。
『ア……アァ、アアゥゥ……』
そして、そのまま四方八方へ飛び去りホールから姿を隠す。
「な…………」
「何だ、急に悪霊が……」
悪霊が退いた途端、二人は背中にビリビリと圧を感じて体を硬直させた。ルーシャの宝剣から法力の光が消え失せていく。
少しの間をおいてルーシャとサーヴェルトが後ろを振り返ると、ラナロアが体全体に魔力を纏って立っていた。
ラナロアのマントや髪が、風もない屋内ではためいている。
「…………………………」
ラナロアは人間の血が流れてはいるが、【魔王階級】にもひけを取らないほどの『上級悪魔』である。
おそらく悪霊に向かって魔力で圧力をかけているのだろう。ラナロアはただ黙って前を睨み付けていた。
実体の無い悪霊たちは、その気配だけで一溜まりもないはずだ。
「困ったものですね……」
ラナロアはボソリと呟いた。
悪霊たちはラナロアの気配に圧され、襲う気力も失くしたらしい。フロアから彼らの気配がどんどん引いていった。
その場にはルーシャとサーヴェルト、そしてラナロアだけが立っている。
ラナロアの金色の瞳から殺気が消え、マントと髪の毛は自然の動きを取り戻していった。
しかし、ラナロアの眼の鋭さは消えない。
口を真一文字に結び、眉を潜めながらつかつかとルーシャの目の前まで進んで睨み付けた。
「ルーシャ、あなたは自分のやっていた事を自覚していますか?」
冷淡なトーンの声が響く。
ラナロアは本気で怒っている……と、ルーシャとサーヴェルトは瞬間的に感じる。
トーラストの街がまだ集落だった頃から、ラナロアはあの土地に住んでいた。
代々ケッセル家では子供が産まれるとラナロアが名前を付ける。そのため、ルーシャもサーヴェルトも生まれた時から彼を知っていて、ケッセル家の人間は何歳になってもラナロアには頭が上がらない。
普段はケッセル家の者に甘いラナロアが、怒りを含みルーシャを見下ろしていた。
ルーシャもなかなかの長身だが、それよりも背の高いラナロアの視線は他の人間ならば動けなくなるくらい怖いだろう。
そのラナロアを前に、ルーシャは負けじと怒りの表情で彼を振り仰いだ。
「……分かっているつもりだ。でも、オレは完全に間違った事をしていたのか? 敵討ちの相手が悪魔と判っているのに、特定できないから待っていなきゃならない。オレから探してはいけないのか? 他の人間に悪魔の被害が有るのを黙って見なきゃいけないのか!?」
一気に捲し立てると、ルーシャは歯を食いしばり震えながら下を向く。
サーヴェルトはそんな孫の様子に胸が痛んだ。
しかし、今日ここへ二人が来たのは、ルーシャに無謀な退治を止めさせるためだ。
「ルーシャ、帰るぞ。話なら後で…………」
「分かりました。好きにしなさい、ルーシャ」
サーヴェルトの言葉を遮るように、ラナロアはルーシャに向かって言い放った。ルーシャもサーヴェルトも目を見開いてラナロアを見る。
「――――ただし、条件があります」
ラナロアはその場に膝を付きルーシャを見上げ、
「その『レイシア』で私を斬りなさい」
ニコリと微笑みながら言い放つ。
「………………え……?」
「おい……ラナ……?」
一瞬、ラナロアの言っていることが、二人には理解できなかった。