兄の肖像
「ベ……【ベルフェゴール】……!?」
リィケはレイニールの母親の顔を凝視したまま硬直する。
しかし今、自分が見ている女性は【魔王】ではなく、ひとりの大人しい女性だと思い至り、体からするすると力が抜けていった。
そうか……きっと同じだ……。
【魔王マルコシアス】は、リィケの母レイラの姿を奪っている。
【魔王ベルフェゴール】はレイニールの母親の姿を手に入れたのだ。
目の前の光景が本当に起こった過去であるならば、この女性はこの時点では人間で、レイニールと一緒に暮らしている。
じゃあ、この人はいつか…………
“悪魔に殺され、姿を盗られる”
この国に数多くある悪魔被害の、もっとも残忍なものの一つ。
レイラの五年前のような事がレイニールの母親の身に起きるのだろう。
いつ、そうなるかは分からないが、この光景が儚いものであることをリィケは理解した。
大人しい女性が貴族の婦人たちの嫌味に、弱々しい笑顔を浮かべて耐えている。それを女性の子供が目に涙を溜めて、こちらも必死に泣くまいと耐えているのだ。
「………………」
リィケは黙って立ち尽くす。
“王子様”というのは、もっと華やかで周りに大事にされていると思っていた。しかし、事情を知らないリィケから見ても、彼ら母子は冷遇され辛い目に遭っている。
リィケが痛々しい思いでレイニールを見た時、彼の背後から静かに近付く人物がいることに気付いた。
『おい、レイニール……』
その人物は驚かせないように、レイニールにそっと声を掛けている。
『あ……兄上……』
『静かに。あっちへ行くぞ』
だいたい二十歳くらいの、切れ長の目で細身の男性。
『兄』と呼ばれたが、長い黒髪以外はレイニールと顔や雰囲気は全く似ていない。
レイニールのお兄さん……?
この時、リィケは分からなかったが、この人物は第一王子の『リズウェルト』であった。
リズウェルトはレイニールをそっと抱き抱えると、母親や婦人たちに見付からないように速やかに中庭を後にする。リィケもその後に続いていった。
少し歩いて二人とリィケは別の庭へ出る。
そこは陽当たりの良い、小さな人工の池がある場所だ。
レンガで造られた池の縁にレイニールを座らせると、リズウェルトはポンポンと頭を撫でた。レイニールは俯きながらされるがままになっている。
『すまない。本当はもう少し早く来たかったのだが、身だしなみがどうのとか言われて控え室で捕まってしまってな……』
『…………兄上……う、うぅ~……』
幼いレイニールは声を掛けられると、今まで我慢していた堰が壊され一気に泣き崩れた。
リズウェルトにすがって泣く姿は普通の子供とどこも変わらず、頭を撫でられてますます強くしがみついている。
「レイニール…………」
そんな様子を見て、リィケもたまらず隣に座って背中を撫でた。手がすり抜け触れないと分かっていても、そうしたくなってきたのだ。
『子供のお前に気苦労をかけるなんて……陛下は滅多に表へいらっしゃらないし、王宮の奴らは大人げないのが多いから…………本当にゴメンな……』
言ってため息をつくリズウェルトの顔は、リィケから見て心底悲しそうに思えた。その顔が、寝る前に見たルーシャの姿と重なる。
仲の良い二人を見てほんの少し、リィケはルーシャが恋しくなってきた。
レイニールには優しいお兄さんがいるんだ……でも、僕にだってお父さんがいるし……優しいもん。
リズウェルトはレイニールをあやし馴れているようだ。
ルーシャはリィケに接するのがいまだにぎこちないのだが、そこは身内の贔屓目でルーシャに軍配をあげるリィケ。
しばらくの間、リズウェルトはレイニールを抱えて、背中や頭を撫でて落ち着かせていた。
『中庭の客人が帰るまではここにいろ……お前は何も見ていない。いいな?』
『……は……い…………』
レイニールは黙って顔を埋めていたが、やがて頭を上げ目を擦りながら渇れかけた声で呟いた。
『兄上が……“父上”なら良かったのに……』
『――――――レイニール』
呟き直後、リズウェルトが低い声で名を呼ぶ。
『…………俺は兄であって父親じゃない。お前の父は聖リルダーノ王国現国王陛下。例え願望でも余計なことは言うな。もし誰かに聞かれて、変に噂を流されれば…………困るのは……メリシア様だ……』
『…………はい……』
きっと本心からの希望だろう。
レイニールは再び、リズウェルトに強くしがみついた。
ぽん、ぽん、ぽん…………静かに背中を叩く音がする。
『俺は明後日まで、連盟で仕事をすることになっている。明日も夕方なら来られるし、帰りも寄るから……』
『帰る……? 兄上は王都に戻ることはないのですか?』
うるうると上目遣いで尋ねられ、リズウェルトはほんの少しバツの悪いような表情になった。
『あぁ……まぁ……確かに王都は生まれ故郷だ。でも、俺はあっちに大事な仕事があってなぁ…………』
『あっちとは、どこの町ですか?』
『んー…………他には内緒だぞ?』
『はい…………』
「…………?」
リズウェルトは普段、王都にはいないらしい。
リィケは特に何の感情もなく、二人の会話を聞いていたのだが…………
『俺が仕事をしているのは【聖職者連盟】の………………“トーラスト支部”だ』
『“トーラスト”?』
「…………えぇええええええっ!?」
不意を突かれて叫んだリィケは、慌てて両手で口を押さえた。しかし、二人には自分が分かられていないことを思い出す。
トーラスト支部にレイニールのお兄さんがいるの!? でも、こんな人…………見たことないけどなぁ……。
リィケも連盟の職員全てを把握している訳ではないが、退治員となった今は、それなりに全部の課へお使いなどで顔を出すことも多い。
「祭事課? あそこなら人も多いし、わからない人も…………」
ブツブツと呟きながら、改めてリズウェルトをじっと見詰めてみる。
レイニールは母親似だろう。女の子かと思うほど整った顔に深紅の瞳が目立つ。しかし、レイニールとは似ていないリズウェルトには、レイニールほど顔に特徴がないように思えた。
長い黒髪以外は、黒い切れ長の目で顔立ちもスッキリしている。
…………ん? あれ?
その顔に、リィケは気付く。
え……? この人って…………
――――――パキン!
「なっ!?」
その時、何かが割れるような音がして、まるで目隠しをされたように目の前が暗転する。
ズシン……と、体が重くなって沈んでいく気がした。
……………………………………
……………………
「――――――はっ!?」
目覚めたリィケが見たのは、カーテンも開けられ明るい陽の光が射し込む部屋の中。もちろんベッドの上にいる。
「……………………夢?」
今のは“夢”だ。
きっと、“現実にあった過去の夢”。
リ――――ン……ゴ――――ン……
リ――――ン……ゴ――――ン……
朝を告げる鐘の音が耳に入ってきた。
近くの時計を見ると既に九時を過ぎていたため、今の鐘の音が朝二番のものであることが分かった。
「もう、こんな時間……」
リィケは何とか起き上がり、辺りの風景を確認する。
うん、変わってない。大丈夫。
今度はちゃんと寝ていた部屋であり、前を見ると既に起きていたルーシャが着替えをしていた。
「お父さん、おはよ……」
「ん? あぁ、おはよう」
「……その服……」
ルーシャが着ていたのは普段着でも、退治員の制服でもない。
青と白を基調に、ゆったりとしたコートのような服。あちこちに金の糸で刺繍が施され、腕にはトーラスト支部のエンブレムも縫い付けてある。白いプリーツの入ったマントは祭事課ではよく見かけるものだ。
ルーシャは珍しく、祭事用の司祭の法衣を着ていた。
「……今日、何かあるの?」
「これから、ミルズナ王女と食事に行かなきゃならない……」
聞けば、滞在中はミルズナと一緒に、朝食を摂る約束をさせられたらしい。今朝は夜の話し合いが遅かったため、時間をずらしてくれたそうだ。
「一応、王族と席を共にするのなら、それなりに“正装”で行った方がいいからな」
「“せいそう”って?」
「ちゃんとした場所へ行くための、ちゃんとした服装のこと」
「ふーん……?」
動き易い退治員の服装でも良いとは思うが、昨日同席したライズは司教の服を着ていたのでこちらにしたという。
まだ頭が働かず、ボーッと話を聞く。
しかし、リィケは昨晩、ミルズナの所へ行けなかったことを思い出してハッとなった。
「あ! そうだ! ごめんなさい、昨日は寝ちゃって……」
「いや、お前が起きていられないのは王女も分かっていた。それに、王女だけならまだしも、王子までいる前で居眠りするわけにもいかないだろうし……」
「王子?」
「昨夜はレイニール王子の兄で、この国の第一王子のリズウェルト様もいてな……」
「えっ!? レイニールの!? やっぱり本当にいたんだ!?」
リィケの驚きぶりにルーシャは首を傾げる。
「……どうした?」
「あ、あのね…………」
上手く説明できるか分からなかったが、リィケは自分が見たことを出来る限り細かく説明した。
一時間後。
ルーシャとリィケは予め指定されていた連盟本部の部屋で、ミルズナが来るのを待っていた。
そこへ、ライズとリズウェルトを連れたミルズナが入室してくる。
「おはようございます、ルーシアルド。お待たせいたしました…………あら、リィケも来てくださったの?」
「おはようございます」
「おはようございます…………」
ルーシャとリィケは立ち上がってミルズナへ一礼をする。
リィケの姿を見てミルズナは嬉しそうだが、リィケの視線はミルズナよりも隣のリズウェルトへ注がれていた。
「……あの……」
「リィケ、どうかしましたか?」
「僕……聞きたいことがあって……」
リィケはそろそろと、リズウェルトの前へ進み出る。
その様子を不思議に思ったミルズナが、ルーシャの方を向くと、何故か困ったような表情で視線を返してきた。
「王女、それに…………リズウェルト王子。少しだけ、リィケの無礼をお許しいただけますか?」
「別に構いませんが…………何かしら?」
「……簡単な『確認』です」
ルーシャとリィケは視線を合わせて頷いた。
リィケはリズウェルトを見上げて、その顔をじっと覗き込む。
しばらくして、リィケは苦笑いを浮かべて口を開いた。
「王都だから……ちゃんとした場所だから、ちゃんと“正装”してたんだよね? だよね…………リーヨォ」
リズウェルトが目を見開いて硬直する。
しかしそれは一瞬で崩れ、口の端が上へひきつった。
「ルーシャを騙せたから、イケると思ったんだが…………」
胸元のポケットから、黒淵の眼鏡が取り出されてあるべき場所へ納まる。
「まさか、リィケに見破られるなんて。子供ってのは怖ぇもんだなぁ…………」
たった眼鏡ひとつ。
それだけで『リズウェルト王子』は、見馴れた『研究員のリーヨォ』へと姿を変えた。




