母の肖像
「はぁ…………」
パタン……と、部屋の扉を閉めてからそこに立ち尽くして数分。
ルーシャは何度も両手で顔を擦っては、今までの話を頭の中で反芻してため息をつく。
……何がオレの周りで起こっているんだろう?
本部の執務室で聞いた話は、最後まで衝撃的で現実感を伴わなかった。
とりあえず、今夜はもう寝ないと。
明日の……いや、今日の朝食は王女と一緒に摂る約束だし……。
少し遅めにしてもらったとはいえ、遅刻するわけにはいかない。
上着を壁に掛けて、簡単な寝間着に着替えると視線を横へ向けた。
「……リィケは寝てるな」
リィケは部屋を出る前に転がしたままの体勢で寝ている。それだけを確認して、ルーシャは隣のベッドへ潜り込んだ。
…………………………………………
……………………
また、自分の意思とは関係なく、何処かへ来たようだ。
リィケは必死に考えていた。
自分はルーシャと一緒に、部屋にいたことは覚えている。
レイニールのことを話しているうちに、泣いてしまって眠ったのだということも分かる。
リィケはひとつずつ、眠る前を思い出していた。
「ここ、何処だろ……?」
レイニールに会った森に移動したように、見覚えのない寝室で寝ているのだ。
「うん…………あれ?」
ベッドから降りる時、体に何も感触がないことに気付いた。
確かにリィケの身体は人形であり、普段は痛覚や触覚は機能していないが、身体に当たるものを感知するくらいの感覚はある。
しかし、ベッドを降りる時にその摩擦がない。
「あ…………」
何気なく上げた自分の手が、透けて輪郭がハッキリしていない。
僕かこの場所が“幻”なのかな……?
意識は起きているのだから、何かの風景に入り込んだ『夢』なのかもしれない。
森で目覚めた時は、枯れ葉を踏む感触もあった。
きっと違うものだと考える。
…………『裏の世界』じゃないよね。
部屋の窓が開いていたので、ちょっと顔を出して空を仰ぐとキレイな晴れ上がった青色が続いていた。
裏の世界の空は真っ白だ。
つまりここは神の欠片の『忘却の庭』の力が連れてきた場所ではない。
「せめて、ここがどこか分かれば……」
そう呟いて窓の下を見た時、ここが建物の二階で外の庭に誰かがいるのを見付けた。
人! 誰かいる!
思わず窓の縁に手をついて身をのり出す――――つもりが、リィケの身体はそれをすり抜けて外へ転がり出る。
そしてそのまま、真っ逆さまに地面へ落下した。
「うわぁああ――――……あ、あれ?」
頭から地面に落ちたが、なんの感触もなく着地する。
……体が透けているし、今の僕ってオバケみたいなものかな?
試しに建物の壁を叩こうとすると、何の抵抗力もなしに手が貫通した。足元以外はすり抜けてしまうのかもしれない。
やはり自分自身に実体がなく、この世界では見えていないものなのだ。
さっき人が居たよね?
振り向くと、小さな人影が近くにしゃがんでいる。
リィケの目の前にいた人物は、どうやらまだ幼い子供のようだ。
「えーと、こ、こんにちは?」
『……………………』
さらに試しにリィケは声を掛けてみた。
しかし、目の前にリィケが落ちてきたのにもかかわらず、その場にいた人物は見向きもしない。やはり、リィケの姿は見えていないのだ。
子供は小さな背中を丸めて、地面に生えている花を摘んでは茎を編み込んでいく。どうやら花で冠を作っているようだが、組み込まれた花はなかなか上手く絡まらずにほどけてしまう。
あ、また取れた……頑張れー!
つい、リィケは後ろから応援していた。
組んではほどけ、また組み直す。
組んではほどけ、また組み直す…………
何回もやるうちに花の茎はボロボロになって、雑草の花といえど形の良いものは減っていってしまった。
それでも小さな子供は必死に茎を結んで、冠……とまではいかない、ブレスレットのサイズの花の輪っかを作り上げた。
『……できたっ!』
無邪気そうな声をあげ、やや不格好な作品を両手に持ち立ち上がると、子供はリィケの方へ振り返った。
「あっ!?」
リィケは子供の姿に声をあげた。
歳は4、5才くらいの男の子で、着ていたのは軍服に似た造りの服に白いマント。所々に宝石もあしらわれたものだ。
リィケが驚いたのは、その少年の顔だった。
艶のある黒髪が短く整えられている。
顔は幼いながらも整っていて、着ている服が違えば女の子にも見えるほどの美少年だ。
その子供の大きな両方の瞳の色は、まるで宝石のような『深紅』である。
「ロアン……?」
まさに幼いロアンがいるのだ。
しかし……いや、やはりというか、ロアンとは年齢の他にも違う点がある。
まず、眼帯をしていない。ロアンの左目は白い眼帯で隠れていた。
次に子供らしい笑顔と行動。ロアンはどこまでも無表情で、感情も戦闘以外は平坦な感じだった。
そして何よりも、醸し出す雰囲気というかオーラというか……リィケが少年に感じるものは、ロアンとはまるで違う。
――――別人? まさか……この子は……
「レイニール……だ」
そう、『ロアン』として会った人間は、本当なら『レイニール』なのだ。
クラストでロアンを見た、ライズやミルズナは彼を『レイニール』だと言っていた。
「じゃあ……ここは……ロアンがレイニールだった『過去』……とか?」
たぶん、また“神の欠片”の能力だ。
まだ確信した訳ではないが、ここが『過去の世界』なら納得できる。リィケは少し見守ることにした。
幼いレイニールは花輪を手に、パタパタと建物の中へ入っていく。リィケが振り向くと、そこは自宅の倍くらいの大きさの屋敷だ。
周りを見回すと、小さな針葉樹の林の向こう遥か遠くに城が見え、ここが王宮の敷地の端に造られた離れであることがうかがえる。
『ははうえー! どこにいらっしゃいますかー?』
「あ! 待って、レイニールっ!」
リィケはとりあえず廊下を小走りで奥へと、レイニールを追って進んでいく。
レイニールは次々と部屋を覗いて“ははうえ”を捜しているようだ。
……“ははうえ”って……普通にレイニールのお母さんだよね?
ロアンが言う場合の“ははうえ”はリィケの母のレイラだ。
リィケは【魔王マルコシアス】を思い浮かべ、胸の辺りにヒヤリとした感覚が走った気がする。
おそらく、リィケが見ているのは夢でなければ、レイニールだった頃の過去の話だ。五年より前の事になるのなら、レイラの姿をした【マルコシアス】がいる訳はない。
そんな考えを巡らせながら、リィケは静かにレイニールを追って観察する。
彼の動きから、この屋敷が生活している場所であることが解る。
「……レイニールって、王子様だったよね?」
“王子様はお城に住んでいました。沢山の召し使いがお世話をしてくれます。”
リィケが読んでいる絵本で、こんな文が出てくる話をよく見掛ける。
絵本での王子の住まいは城である。
しかし、レイニールがいるのは城ではなく、庶民に毛の生えたような普通より少し広い屋敷。
使用人も多くはなく、見ているとその半分は、主であるレイニールに冷ややかな目線を向けている。
どう見ても、『楽しく穏やかな環境』とは言えなかった。
『ははうえー?』
「………………」
花輪を手に母親を捜すレイニールは、王子というよりは普通の幼子だった。たぶん、今の自分とほぼ変わらないとリィケは思う。
やがて、レイニールは自分がいた庭から少し離れた、屋敷の中庭までやってきた。
そこには幾人かの人影が集まっている。
『あ、ははう…………』
目当ての人物を見付けたようで、笑顔でその場合へ向かおうとして――――
『まぁ! それでよく、陛下とお話ができますこと!』
キンとした女性の高い声に、レイニールの足は止まって近くの木の陰に身を隠した。
リィケが前方を見ると、中庭にテーブルやイスが用意され、そこには茶会用のシンプルだが質の良いドレスで着飾った女性が四人いる。
三人は顔が見えるが、一人だけは完全に後ろを向いており、その姿は分からなかった。
『メリシア様、そんなことも御存じなかったのですか?』
『皆様、仕方ありませんわ。メリシア様は御正室様のように、貴族のご出身ではありませんものねぇ』
『貴族の社交界では当たり前ですのよ。ふふふ、私たちで良ければ教えて差し上げてもよろしくてよ?』
こちらに顔を向けている三人は、品良く微笑みながらも棘を含む言葉をひとりの女性へ投げ掛ける。
『えぇ……申し訳ございません。わたくしの勉強不足です。皆様からは色々とご教示いただいておりますのに…………』
その言葉たちに丁寧に返す声はか細く、とても弱々しく発せられた。
『まぁ、メリシア様はお美しくいらっしゃるから、陛下はそれだけでもお優しくしてくださるのでしょう? お羨ましいですわ』
『ご正室様みたいに、メリシア様も国民の前で上手く立ち回られれば良いのです。あ、でも貴女は公務はありませんでしたわね。これは失礼いたしました。普段はこちらでお隠れになってますものねぇ』
『“寵姫”でいらっしゃるのも大変ですわねぇ。常に美しさを保たないといけませんし……ご正室様のように美しさ以外に特徴を見せる場所もないのがお辛いですわね。ホホホ……』
「……………………」
何かよく解らないけど、あの三人ひどい!!
言葉の意味や立場など、リィケには会話の内容は理解できないが、女性三人がよってたかって一人を傷付けていることはハッキリと解った。
責められている女性の後ろ姿は、益々小さくしゅんとしてしまう。リィケは痛々しい思いでその女性を見ていた。
『…………ははうえ』
「え……」
隠れているレイニールがポツリと言う。
どうやら、あの責められている一人の女性が彼の母親のようだ。
両の大きな深紅の瞳には、涙が溢れそうなくらいに溜まっている。唇を噛みながら、レイニールはその様子をただじっと見つめていた。
握り締めていたのか、小さな花輪はよれよれになってしまっている。
こんな小さなレイニールにも解る、とても毒のある言葉の数々は容赦なくその母親を標的にしている。
「レイニール……」
リィケはしゃがんで彼の頭を撫でようとしたが、その手はすり抜けて何の感触もない。
僕はただ見ているだけなんだ。でも…………
それでも、あの三人の女性たちに腹が立ったリィケは、険しい表情をしながらずんずんと近付いた。
「ちょっと!! おばさんたち、さっきからひどい!! レイニールのお母さんが何したの!?」
これが『過去の世界』であるなら、まったく聞こえないであろう言葉を言う。もし聞こえていたら“おばさん”の単語に、全員反応するだろうか。
「おばさんたち、あっちでレイニールが聞いて泣いてるんだよ!? ひどいこと平気で言う人のこと“無神経”って言うんだって、僕だって知っているんだからー!!」
ぷんぷんと怒ってみたが、周りの反応はない。
『……そう、ですね……わたくしは、ご正室様には到底敵いません。陛下もわたくしに憐れみを持って、接してくださっているだけですので…………』
リィケが聞こえない言葉で精一杯の罵倒をしている隣から、レイニールの母親の少し震えた声が聞こえた。
それはまるで、堪え忍ぶしか方法はないというような声だ。
リィケには理解できなかったが、この場においてそれは正解である。
いくら王の寵愛を受けている身でも、目の前の高位の貴族である婦人たちに逆らえない。逆らえば更に彼女は攻撃を受けることになり、あらぬ噂で子供のレイニールまで傷付けることになるのだ。
レイニールのお母さん、何か可哀想………………――――――ん?
振り向いたリィケは、レイニールの母親の顔に思い出す限りの記憶を巡らせた。
この人…………僕、会ったことある……?
俯きかげんの大人しそうな女性。
長い黒髪をひとまとめに結い上げ、首筋やアゴのラインはとてもほっそりしていて美しい。
そして、憂いに染まる瞳の色はレイニールと同じ『深紅』。
左目の下には小さなホクロも見えた。
一言で“絶世の美女”と呼ばれるのが似合う。
――――会ったことあるけど、何か違う?
あとは記憶の間違い探しだ。
「あ! そうだ、瞳の色! 僕が見たこの人は、紅い色じゃなくて――――――」
そこまで思い出して、リィケは一気に『血が凍りつく』という感覚に襲われる。
『深紅の眼』ではなく『金色の眼』
レイニールの母『メリシア』はリィケが街道で遭った。
【魔王ベルフェゴール】――――その顔である。