田舎者、加藤佳吾
巨大な都市の学園であった。
手元に目を落として少年は、今一度地図を確認する。祖国とは違い、こちらは全てが複雑で、狭いところにこれでもかと詰め込んでいながらにして、大きい。ともすれば、生まれて初めて、赤子による一人での道行とでも表現できる苛烈な道程であったが、少年はつかんだ地図一枚を道連れになんとかここまでやってきた。
集合場所には本日中にたどり着けばいい。太陽は高い位置で照らしている。少年は、より道で時間をつぶそうと考えた。腹が減ったので飯処や茶店に入って何かつまんでもいい。いや、草地など探して昼寝としゃれこんでもいいかもしれない。などといろいと考えて、結局は有意義に時間を使おうと、入学後に頻繁に通うことになるであろう武道館を見ておこうと決めた。
いくらか歩いて、行き交う人々がにわかに多くなってきた。道中すれ違う人々は、皆でおそろいの学生服に気の抜けた様子でカバンを下げた者が大半といった様子であったが、競技関連施設が密集する区画に入ったためか、鍛えられた体躯の者が多く見受けられた。今まさに特訓が終わったか、はたまたその最中であるのか、汗を流し服をだらしなく着崩しているのや肌着でいるのもいる。少年は、そのようないかにも暑そうな様子を見て、体感温度が上がったように感じ、そのような思いを追い出そうと努めた。
ふと地図から目線を上げた一瞬に、不意に現れたそれが、少年の体へと衝突してきた。それは、触れた感じも不快感も生じさせることはなく、ただ心の奥底でくすぶる熱、今にも走り出したくなるような情動だけを生じさせて、少年は無意識のうちに、呼吸を思考を競技前のように張りつめさせた。少年を高ぶらせたあれは何なのだろうか、今も収まることなく響くそれは。音なのかもしれないし、空気の流れなのかもしれない、結局考えども正体は見えぬまま。その正体不明の何か、その発生源へと少年の視線は吸い寄せられて、野外競技場の一角、円周の走路に縫い止められられた。
その光景は、なんと表現すればよいのだろうか。その脚は力強く跳ね、地面に食らいつくかのように激しい。その一方で、木々を渡る飛び鼠のように、水面をなめる飛び魚のように、どこまでも滑らかで速い。世界が、たった二つに分けられたかのようだ。走る姿は世界の中で浮かび上がり、動かないものや遅いものすべてを置き去りにした。細かい理屈はない。たったの一瞬、視界に移った刹那で充分であった。少年は、走る姿に心奪われた。そして、見るほどに、感じるほどに、より強く、耐えがたいほどに憧れた。焦がれた。今まで一番焦がれた風景、宝物の記憶、故郷の雄大な夕日や森林、滝を思い起こしても、それよりもずっと、間違いなく一番輝いていた。
立ち並ぶ学生宿舎のうちの一つ、その中の一角、小さな談話室で男二人が向かい合って座っていた。一人は少年、短くかり上げられた頭、ジャージの上下、申し訳なさそうに上目遣いでもう一人の様子をうかがっている。もう一人は青年、長めの黒髪をオールバックにしており、白衣を着こんでいる。青年は、少し考え込んで、口を開いた。
「君がレスリングから、他の競技に移りたいというのなら、私は協力するし、問題はないだろう。……限りある時間だ、自分で選んだことをするといい。私はそう考えている」
しかし、と続けて青年は少年の瞳をまっすぐに見つめる。
「君は、血涙の…………加藤佳吾として、ふさわしい行いが求められる。そのことは覚えておいてほしい」
佳吾と呼ばれた少年は、緊張から少し身をこわばらせて、
「はい。先生。全力を尽くします」
その言葉に、青年は一つ頷いて、
「私は、君の成功を祈っているよ。
あと……、競技のチームには私から話を通しておく、明朝には連絡する。 ……話が以上なら、もう自室に戻りなさい。体を休めるなり、鍛えるなり、何かしらやることがあるのだろう」
佳吾は緊張を解いて、印象的な、年相応の幼さを残した笑顔を見せて、退室していった。
一人残された青年は、椅子の背もたれに身を預け、疲れた表情で天井を見上げた。
「しかし、監視はつけないとまずいか……、それに話を聞くと……」
呟きは小さく、部屋内の大気にかき消された。青年は静かに息を吐いた。
運動系の施設が集まる学園の一角、その隅にある芝地で佳吾は念入りに体を伸ばしていた。その傍らで、年配のコーチが指導に当たっている。午前中、大半の学生は座学にいそしんでいるのだが、そこに興味がない佳吾は参加していない。そんな状況が許されているのも、特殊な留学生という立場と彼の先生の尽力のおかげなのである。まあ、学問にも打ち込もうとしても、国にまともな高等教育機関がなかった佳吾の素養では、はじめに中等教育あたりから始めなければいけないのだが。
コーチの指示を受けて佳吾が、ランニングを始める。
もともとレスリングをするために足腰を鍛えこんでいた佳吾ではあるが、コーチの見立てでは、それでもまだまだ不十分であるらしく、この一週間は、ずっと走りこんでばかりであった。学園の周囲を把握するにもちょうどいいと、佳吾は都市の様々な場所を回った。空衝く摩天楼や水が噴き上がる池など驚きの連続であったし、わずかながら残る自然、昔を思い起こさせる小川や石段を見つけ出しては癒された。そんな、童心に帰った冒険を続ける中で佳吾は走り込みにうってつけの場所を見つけていた。
それは、鉄と石に覆われた都市において、いまだ長距離にわたって土と草地を残している河川敷である。まあ、同じことを考える者はいるもので、授業前の早朝や夕方以降などはちらほらと学園のジャージを着た者などが走っているが、日中はその姿もほとんど見えない。
そんなわけで、佳吾は、早朝はコーチの指導を受け、日中に河川敷を使い、その後は体を休めたり部屋でトレーニングをしようと計画を立てた。しかし、実行してから思い知ったのだが日中の日差しと気温が非常に大きな壁として佳吾の前に立ちはだかった。国では、日がな一日屋外で力仕事など日常茶飯事であった佳吾であったが、空は厚く木々に遮られ、太陽にさらされるつらさなど味わってこなかった。
そのため、馴染みのない暑さに打ちのめされ、佳吾は設定した目標を達成できぬまま、休息をとらざるを得なくなった。木陰に入り、持ってきた水筒の中身でのどを潤す。飲んでいるのは、水とは異なり甘みを感じる薄桃色の液体で、これは佳吾の先生が……、いや彼の助手だったか……、ともかくも先生の厚意で用意されたものである。
荒んでいた動悸も落ち着き、佳吾は何の気なしに河に目をやる。この国の河はといえば、幅は何十メートルもある。にもかかわらず、畏怖を呼び起こすような厳かさは全く感じられない。両岸は石の塊で固められ、冗談に思えるほど平たい。祖国の川はこんなものではなかったと佳吾は思った。岩は荒々しく突き出し、水は暴れ、しぶきが上がる。水は上から下に流れる。落ちることを想像させる滝は、恐ろしくも美しかった。まるで、この国は、縛り吊るされた死にかけのようだと、命の荒々しさ心を震わせる脈動は存在しないのだと、佳吾は考えて、それを否定する至高の光景を思い出した。
あの日、学園にたどり着いた時に見た姿は、力強く、気高く、どこまでも純真に輝いていなかったか。あの高みに自分も至りたいと、湧き上がってきた気持ちに支配された佳吾は、居ても立っても居られないと、衝動の導くまま、寮に帰るべく走り出した。周り全てが価値を、鮮やかさを失う中で、どこまでも染め上げて躍動していた、あの姿に少しは近づけるのではないかと期待して。
寮に帰ってきた佳吾が自分の部屋でシャワーでも浴びようと考え、一階から階段を登ろうとしていたときである。地下から誰かが階段を上ってきて、佳吾は何となくそちらに目を向けた。そこにいた作業着の少女を見て
「こんにちは、暑くはないんですか?」
少女は、片手をあげて笑いかける佳吾を不機嫌そうに一瞥して、こわばらせた表情を少し緩めて
「こんにちは。…暑いわ。本当に。
…でもあなたほどではないでしょうね。佳吾くん」
「ああ、走ってたらもうまいっちゃって。
こっちは本当に暑いよ。はやくも国が恋しいです」
佳吾は少しうつむいて、頭をかいた。
「確かに慣れていないうちは、ここの暑さは厳しいね。
それなら、屋内で練習したらどう?」
「そうだなぁ」
「おっと、それじゃあね」
少女は、階段をのぼりきると、そのまま一階の奥に向かっていった。
「じゃあまた」
佳吾は、少女の後ろ姿に声をかけ、思い出したかのように階段をのぼっていった。
三階の自室に戻った佳吾は、シャワーを浴びて、惰眠をむさぼることにした。身を預けたベットはふかふかで、枝や蔦とは比べ物にならないほど柔らかい、風は穏やかに窓と扉を行き交い、佳吾の身体を撫でては軽やかに舞っている。母に抱かれる赤子のように、一切の不安、緊張、怖れといった感情から解き放たれた佳吾は、故郷の夢へとおちていった。
大樹の腕の上に寝転がり、見上げると、空を覆う葉は広がり重なり、その隙間から差す陽光は、精妙で儚い陰陽を書き出している。風は涼やかで、とても心地よい。それでも寝るわけにはいかなかった。夢の中、その中にあっても、佳吾は神経を張り詰めていた。普段よりも気を抜いていたのは、事実ではあっても。それほどに、佳吾の国での暮らしは、穏やかではなかった。牙が、鋏が、爪が、いつでも血を求めて猛っていた。安全な時間や場所などはなく、いつ死んでもおかしくはない。人はそのような弱い存在、いまだ自然の一部であったのだ。しかし、この国、学園はどうだろう。どこまでも中心は、主役は人である。突然の死などほとんどない。土や草木は猥りに石で覆い隠され、水は捏ね上げた不格好な路を流れる。空を覆うすべては堕とされ、食い残しの立ち上がる肋骨のようにおぞましい石の塔が乱立する。ここに来る前の佳吾が考えていた地獄よりも、この国の現状は死んでいるかのようであった。
そのような、この国に対する佳吾の恐れや怒り、嘆きを反映したのか、佳吾が現在見ている夢に変化が現れた。突然降り出した雨は、天上の葉に当たると、途端にその身を、まるで蝋のように変じ、固まって纏わり、降るほどに堆積していく。やがて、重さに耐えられなくなった枝は折れ、降りやまぬ雨に全てがさらされた。佳吾は、身の危険を感じ、しかし、一瞬の後には、一面石で覆われた景色に立ち尽くしていた。いったい何が起きているのか?
不思議はこれでは終わらない。
一面の石景色、その地平線の先から押し寄せてきたのは、視界に収まらぬほどに広がった濁流であった。濁流は、呆然と立ち尽くす佳吾を飲み込もうと、その段になって、足元が不自然に隆起し、石の壁、いや石の波であるかのように濁流に向かっていき、押し返してしまった。
再び、一面の石の床、何もない景色に戻り、佳吾はいまだ動けない。そして、どれほどたっただろうか。石の床が今度は半球状に盛り上がった。佳吾のすぐそばにできたそれは、直径三、四メートルはあるように見える。半球の中からは、カチカチと音が響く。それを聞いて佳吾は目を向ける。はじめははっきり聞こえていた音は、次第に弱くなり、やがて止んだ。そして、半球は、石の海に沈むように消えた。
佳吾は、白い空と灰の大地、そして二つを分かつ地平線だけの世界に一人取り残された。佳吾は力なく尻餅をついて、景色が再度変わった。世界は、佳吾の困惑をあざ笑うかのように、再びある日の森の中に戻った。足と背中に大樹の、大きな鱗を持つ肌を感じて、何となく見上げた。複雑に切り取られた陽光が、葉を揺らす風により形を変えていく。その景色も、もう佳吾の心に響くことはない。いつかまでは輝いて居た景色も、一瞬で鮮を失い、くだらないものへとなった。悩むように頭を抱えて、佳吾は自分が目から血を流していることに気が付いた。
佳吾の身体は、力を失い、バランスを崩して、そのまま大枝から落ちていった。近づいてくる地面を、至極つまらなそうに見つめながら、衝突することを受け入れて、まさにぶつかるといった瞬間に、佳吾は目を覚ました。
佳吾の心の中は、夢見が悪かったということのみが占領して、はて、どんな夢であったのだろうと、思い起こそうとして、何も得られぬことに消沈した。万人の例に漏れず、彼も意識して夢を思い出すということができなかった。そも記憶とは、感情や匂いといった、とっかかりを縄として、手繰り寄せて、先に結んだ出来事を順繰りに辿っていくもの。佳吾も言い知れぬ不快感をはじまりとして、さてどれほど広い夢だったかと自問しても、縄の先に結んだものがぼんやりと霞み、霧と化すのではなく、手に取った縄自体が跡も残さず消えてしまったようで、佳吾はもどかしさのみ手に入れて、いや、それも数分後には消えて行って、夢の中への関心など失ってしまった。
はじめての記録会まであと少しといったころ、順調に記録を伸ばしていた佳吾は、機嫌よさげに歩いていた。先生に呼び出されたために、食堂に向かっているところである。佳吾が食堂に入ると、二人の先生と佳吾含めた六人の生徒全員が集まっていた。佳吾は、隣に座る青年に手を挙げてあいさつしつつ、空いた席に座った。佳吾を認めた先生方は立ち上がり、そのうちの一人、作業着姿の青年が口を開いた。
「本日は、集まってくれてありがとう。早速本題に入ろう。
もうすぐ、三日後には渡部先生がこちらに来ると連絡があった。この場には、彼の指導を熱望していたものが多い。先生の方で準備もあると思うので、指導を希望する者は、指導時間と内容について申告しておいてほしい。紙に書いて、私の郵便箱に入れておいてくれ」
渡部先生が来る。その言葉に、目に見えて様子が変わるものがいる。ある者は満面の笑みを浮かべ、ある者は目をぎらつかせている。
一方の佳吾はと言うと興味がないのだが、話を聞かないわけにはいかず、隣の青年に目を向けて、そのうれしそうな顔を見て、つられて笑顔になった。
「それ以外にも、要望があれが私に言ってほしい。可能な限り力を尽くそう。話は」
先生がこれで終わりとばかりに話を切り上げようとして、今までだまっていた先生のもう一人、老婆が口を開いて
「まあ、そんなに硬く構えなくてもいいよ。私の部屋にも遊びに来てね。焼き菓子でも用意して待っているからねえ」
そうにっこりと笑った。話はそれで終わって、先生方が部屋を出ていき、生徒も次々に出ていく。
佳吾は部屋に戻る途中で、隣の席に座っていた青年に話しかけた。
「トモさんは、渡部先生に教えてもらいますか?」
「うん。楽しみだなぁ。正しい記録って、彼のもとにしかないからね。貴重な体験になりそうだよ」
佳吾は少し考え込んで
「貴重………。どうしたら速く走れるかについて、教えてもらえるかな」
首を傾げた佳吾に、トモさんと呼ばれた青年、友也は拳を握って力強く語る。
「聞いてみた方がいいよ。彼は何でも知っているから、君の助けになると思うな」
この言葉に背中を押され、佳吾は教えを受けようと決めた。
「そうですね。教えてもらおうかな。……じゃあまた」
佳吾は三階の奥へ、友也はさらにのぼって行った。
はじめての記録会を終え、短距離・中距離の基準タイムよりはやかったことで、佳吾の機嫌はどこまでも良くなっていた。普段は燃えカスのようにしか見えない景色も、今日ばかりは心なしか輝いているような気さえする。いつもより帰りは遅く、周りがすっかり暗くなった頃に帰ってきた佳吾は、入り口わきに設けられた休憩スペースに珍しく人がいることに気が付き、満開の笑みで話しかけた。
「こんばんは。優弥。休憩の場所でも勉強しているの?」
優弥と呼ばれた少年は、読んでいた本を閉じて、佳吾に目を向けた。
「こんばんわ。ケイ。聞いてくれ、ついに渡部先生の指導を賜ることになってね。今は待っているところなんだ。
心臓はあり得ないぐらいに鳴っていて、もう明日には死んでしまうかもしれないよ」
不機嫌で、会話は早く切り上げようというのが優弥少年の常であるが、今は機嫌がよく興奮で頬を上気させ、口数が多い。佳吾は友人の新たな面を知ったことを喜んでいる。
「楽しそう……。渡部先生には何を教えてもらうんですか?」
「そうなんだ。何から聞こうかと三日三晩は考えて、何とかリストにまとめたよ」
優弥は、傍らのカバンから紙の束を取り出した。それを佳吾によく見えるように掲げた。
「ああ。この疑問すべてへの糸口となるかと思うと、待ちきれないな」
佳吾は、紙の表面に視線を滑らせて、内容の理解をあきらめた。
「う~ん。俺にはわからないなぁ」
「それなら、僕が説明するよ」
そういうと、優弥は紙の上、一文一文を指さしながら佳吾に説明する。…佳吾は理解できない。
その不毛な時間は、先生が優弥を呼びに来るまで続いた。
渡部の指導を受けた佳吾は、二回目の記録会で長距離の基準タイムを突破し、競技会で上位進出が見えるほどの成長を遂げた。
タイムが伸びるほどに練習は激しさを増し、目標の背中以外の全てが輝きを失っていく。最近の佳吾は、食べるか、寝るか、練習するかという日々を繰り返していた。人とかかわるのはコーチや先生陣、同じ寮の面々ばかりで、広く人々と交流を持てるという学園のメリットについて佳吾はついぞ思い至ることはなかった。
つまらないほどの反復を繰り返しながら、佳吾の意識は三回目の記録会だけに向けられていた。すでに、基準タイムは上回っており大会への出場は決まっているので、タイムを気にする必要はない。しかし、あの人、高すぎる目標と同じ組で走ることができる可能性が高い。そのことが佳吾のやる気をいやがおうにも高めていた。
今日も倒れこみそうなほど疲れ果てた佳吾は、寮の入り口をくぐった。荒らんだ息はまだ落ち着いてはくれず、汗が額から、眉、目の横、頬を通り、顎を撫でている。佳吾は手の甲で汗をぬぐった。
「佳吾くん。お疲れさま。今日も大変ね」
入り口わきのスペースに座っている少女が佳吾に話しかけた。それを見た佳吾は立ち止まって、
「こんばんは、麻目ちゃん。
汗をかきすぎちゃったよ。臭くないかな?
はやくシャワーを浴びないと」
「風邪をひかないように気を付けてね。これから執念場なんでしょ?」
「うん。ここからが本番。かんばります」
麻目は微笑んだ。
今年三回目の記録会、佳吾は中距離走に出場していた。予選は軽く突破し、八名のみが走る決勝。大気が固まったかのように緊張感が張りつめ、あまりの興奮に佳吾の頭の中は真っ白になって、どのように位置について、いつ号砲がなったのかも定かではないまま佳吾は走り出していた。
必死に地面をける中、佳吾の意識は境界を失ったかのように世界に沈みこんで、感覚はあまりに実感に乏しく、また引き延ばされる。一秒が呼吸五つを挟めるほどに長大に感じられる。追う背中との距離は次第に離されて、力を込めても追いつかない。焦りは募り、自分が本当に足を使って走っていることすら確かではなくなってくる。何秒も何秒もそれが変わらないで、離れている、追いつけないといった実感を残したままゴールすることになった。
記録会の後、走った後は茫然自失で記憶もあいまいに、なんとか寮まで帰ってきた佳吾はベッドに腰かけてうつむいていた。後悔や悲しみが思考を突いて、考えはまとまらず、いや何を考えているのかすらわからないほどで、ただ時間だけが過ぎていく。
「負けたくない。負けたくないんだ」
ふと漏らしたつぶやきは、佳吾自身にも気づかれないまま空気に霧散していった。
よくない兆候はあった。増えていく練習時間、明らかなオーバーワーク。丁寧に積み上げていった負担がついに限界のラインを越えただけ。それだけ。至極当然の帰結として、佳吾の足は砕けた。
剥離骨折でこの一年の集大成たる大会は絶望的。骨とともに佳吾の精神も砕けてしまった。
ただ一つであった支えも失った。なぜこんなにも遅いのかと、なぜ自分にまけてしまうのだと、自分が憧れた姿は熱に浮かされてみた幻に過ぎなかったのかと、思いは激しく燃えて、やり場のない怒りを生み出して、それも消えることなく心にへばりついて、希望を失った。
練習中に倒れた佳吾で病院に運び込まれて、一日中何をするでもなく、ふさぎこんでいる佳吾のもとに、友也が訪ねてきた。
「佳吾君。お見舞いに来たよ。
これ、前にバナナが好きだって言ってたから」
友也はバナナが目立つフルーツバスケットを傍らの机に置く。
「うん。……ありがとう」
友也は椅子を引いて佳吾のベッドのそばに座ると、佳吾の様子を観察する。話題を振っても、反応が薄い。友也は努めて明るい声で提案する。
「佳吾君。一日ここにずっといるのは退屈じゃないかい。僕と遊びに行こうか」
「うん。それもいいかもしれません」
友也は看護師に頼んで借りた車いすに佳吾を乗せて、車いすを押して外に出る。丁寧に管理され、多くの花が咲く中庭をまわる。心なしか佳吾の様子が変わったような気もする。特に会話するでもなく歩を進めて、木陰に車いすを止める。蒸し暑い中、涼しい風が草葉を揺らしていく。友也と佳吾は二人とも沈黙に沈み、しかしそれも穏やかな静かさで、しばらく続いたそれを乱暴に壊さないように、佳吾は努めて小さな声で沈黙を破った。
「トモさん。……その」
「うん」
「その……俺、ケガをしちゃって」
「うん」
佳吾は強くこぶしを握る、そして呼吸一つ、思い切って手を開く。何かに耐えるように、何かを諦めるように。手の代わりに力を込めた奥歯が鈍い音を立てた気がした。
「勝ちたい、人がいるんだ。その人は今年で卒業する。でも、次の大会は、最後の勝負はケガで出られないって」
「そうなんだね」
「いまさら何をすればいいかわからないよ」
佳吾君。そう言って友也は佳吾の肩に手を置いた。佳吾は友也の顔に視線を向ける。友也は穏やかに語り掛けた。
「その人と勝負がしたいなら。勝ちたいなら。これから先、まだまだチャンスはあるよ。卒業しても、競争ができないわけじゃない。どこまでも追いかけて、頭を下げて、勝負してもらえばいい。そして勝てばいいじゃないか」
「……簡単に言ってくれるよ」
「困難でも、今まで君は同じぐらいの困難を越えてきたさ。単身故郷を離れて今までやってきた。本当にすごいと思っているんだ。だから、胸を張って。僕も力をかすから、もう一度目指してみてもいいんじゃないかな」
「……ありがとう」
暇を持て余して、天井を見上げるばかりの佳吾のもとを優弥が訪ねてきた。
「やあ、ケイ
「優弥、……何?それは?」
優弥は持っていた大きな紙袋を佳吾に押し付ける。それは想像よりも重く、佳吾はいぶかしげに中を覗いた。……分厚い本が何冊も入っている。
「病院で寝ているだけなんて退屈だと思ってね。この機会に基礎からみっちり勉強して、
僕の助手にふさわしい能力を身に着けてほしいと思ったんだ」
「……ありがとう。少しづつでも読んでみるよ」
佳吾はあいまいにほほ笑んだ。
「それではさらば。わからないところがあったら、いつでも連絡していいからね」
優弥は足早に立ち去って行った。授業ががあるのだろう、それでも来てくれた優弥に佳吾は内心感謝した。見舞いの品は別のものがよかったが。
昼食を終え、佳吾は相変わらず本を読んでいるのだが、まだ一冊目の一割も進まない。本は10冊以上ある。佳吾は栞を挟んで本を閉じた。
ノックの音が響く。
「どうぞ」
「失礼します。佳吾君、ケガをしたって聞いたけど……」
麻目がためらいがちに入ってきた。
「うん。麻目ちゃん、来てくれてありがとう」
気落ちしているに見えない佳吾の様子に麻目は拍子抜けした。
「ええと、あまり深刻ではないのかな?」
「ま、まあ次の大会は出られないけど、治らないわけじゃないみたいです」
麻目は佳吾の言葉に少し違和感を感じた。
「大会に出られない?あんなにかけていたのに……。ケガはどんな感じ?~先生でも治せないの?」
「うん……、~先生には見てもらったけど、早く治すなら足は交換になりそうって」
「交換すれば間に合うの?」
「たぶん」
「それなら大会に出れるじゃない。
何か嫌なことがあるの?」
「うん……」
麻目の強い視線に佳吾は考えてもいなかった悩みに沈んでいった。
大会の場に佳吾は立っていた。その足に違和感が見て取れないが、中身は全くの別物になっている。足の骨を置き換える手術と壮絶なリハビリを越えてきた。その記憶ももはや薄れている。
佳吾は少し懐かしさすら感じた。会場に満ちる緊張感が、体を凍結させるようだ。
スタートラインに着く、何も感じない。号砲が鳴る。一切の思考を失ったかのように世界に埋没する。必死に動かす足も、荒い呼吸も、そこにあることが当たり前のような自然現象に変わる。もはや、何かが影響を与えることもない、当然の帰結としてゴールにたどり着く。
走り抜けた佳吾は、呼吸を整えているうちに我に返った。大型テレビを見上げて、自分の記録が一着であると表示が出ると拳を突き上げた。歓声がとどろく。佳吾の心は達成感で満たされ、いつか憧れた背中を追い抜くという一つの目標が終わりを迎えた。
勝利の歓喜がゆっくりと霧散していくかのように、そして代わりに不安が心に侵入してくるかのように佳吾の心は冷たくなっていった。まだ心に熱が残る、そのうちに自問自答する。ああ、追いかけた背中が在った場所は、何か特別であったのだろうか。たとえ一身先、一身後を走っても何も変わらない、おんなじではないのだろうか。実際走るさなか、負けた記憶も、先ほどの勝利した競争もこんなにも代わり映えがしない。ただ、世界に自分を沈めて、それが浮かび上がってくる頃には終わっている。輝いていた、そして既に輝きを失った背中を追いかけて、そして追いついても自分は何も変わらなかったのだろうか。そうだ、その通りだ。悲願を果たしたはずであるのに、こんなにも空虚な気持ちがそれを痛いほどに肯定している。
さて、懸命に練習を重ねて、手に入れたいものは何であったのだろうか。目指した地点に到着して少しでも満足できたのだろうか。
鬱々とした気持ちを抱えて、選手用のロッカー室を後にした佳吾に後ろから近づき、その肩を叩いた人がいた。そちらを見ると、追いかけ、追い越した人が立っていた。
その憧れの人は、佳吾の目をまっすぐに視線で射抜き力強く宣言した。
「加藤選手、次は私があなたを追う番だから。次は負けないよ」
その言葉に救われた気がした。