春はおぼろに
――お待たせ。さあ行こうか。
不意に背後から声をかけられ肩に手を置かれる。振り返ると見知らぬ男がいて、その手を慣れ慣れしくも腕に絡めてこようとしている。
――どちら様ですか。
――オレ様。なんつって。
ただのナンパだったか。そう気付けば取るべき対応はひとつ。絡みつく腕を乱暴に振りほどいて一度は止めた歩みを進めた。
それがあいつに会った最初のこと。
二度目は電車の中だった。車内に背を向ける格好で窓際に立っていた。すると腰の辺りを撫でまわす感触がある。大して混んでもいない時間帯に堂々と痴漢などいい度胸じゃない。急カーブに車両ごと傾くタイミングを狙って肘で打つ。思い切り睨みながら後ろを向けばあの時のナンパ男が突っ立っていたのだ。
「うわ、そういう顔もそそるかも」
ナニイッテンノコイツ。顔が赤くなるほど頭に血が昇るのを感じてしまう。
この状況下でそんな台詞を繰り出されるとは、まるで宇宙人でも相手にしてしまったような錯覚に陥った。痴漢ですと一言叫ぶだけでこいつを人生という名のレールから引きずり降ろすことくらいたやすいが、そんなことがポッカリ頭から抜け落ちる程度には面を食らってしまった。
そうして三度目が訪れた。立ち寄ったカフェで一休みをしようとしていた時のことだった。座席に着いたところでストローを忘れたことに気づきカウンターまで取りに戻った。その間、わずか三十秒足らずであったが、席に戻るとなぜかグラスにはストローがささっていた。
「はい、どーぞ」
「……何を考えているの?」
「大丈夫だよ、ほら。口つけるところは触ってないし」
男が指さす通り、ストローが帽子を被っているように上部だけ包装紙が外されていない。違う。問題はそこじゃない。
「……殺すよ?」
「あー、うん。大丈夫。そういうの慣れてるから」
父親譲りの切れ味ある私の脅しは、これまでも受けてきたあらゆる嫌がらせの類いを跳ね返すくらいの迫力があると自負していたし、実績も積み上げてきた。そのはずなのに今回はダハハという下品な色味を含む笑い声にかき消されてしまうだけだった。これは完全にストーカーと考えてもよさそうだ。
この男、どうしてやろう。その馬鹿面を脳裏に焼き付けんばかりに凝視する。落っこちそうなくらい大きい目だねと呑気すぎる感想をくらい気が遠くなる。
「警察呼ぶよとか言わないんだね」
「呼ぶ前に自分で始末した方が早いじゃない」
「美人ちゃんかと思ったら超イケメンじゃん。俺、そういうのも好きだよ」
こちらは興味をそらそうと全力で好感度を下げにかかっているというのに、その思惑とは裏腹に目の前の男は瞳をいっそう輝かせている。迷惑千万どころの騒ぎではない。ナンパに痴漢にストーカー。不愉快の三拍子を完備した状態で口説かれたところでどこの女がなびくというのだ。相手にする時間すらも無駄とばかりに座席を移動する。追いかけてこられないよう一人用のテーブル席に陣取って、しかしこちらの視界からは外さない。
ころす。コロス。必ず殺す!
一瞬でもこちらに馬鹿面を向けるならば気圧してやると剥き出しの敵意を注ぎ込む。しかしながらアイスコーヒーを飲み終えるよりも早く、それは無駄な努力だと白旗をあげることになってしまった。ノコノコと近づいてきた男は満面の笑みを浮かべて謎の口説き文句を捧げてきたのだ。
「デートしよう。ちなみに先回りして言っておくけどマジだから。ついでに一発やれたらラッキーとも考えているけど、やり捨てようなんてひどいことまでは考えていないから安心してね?」
「私はねえ……」
あなたみたいなのを相手にしている暇はない。そう言って切り捨てるつもりだったのに、その続きを口にすることは叶わなかった。
「女の子はやっぱり顔だよね。顔は超重要。二重は必須。ちょっとつり目で涙袋があったら最高。でも胸はそれほど重要ではないってのが俺の持論なんだよね。俺、貧乳派だから全然ヘーキ」
考えるよりも先にコーヒーをかけてやろうとグラスを握りしめていた。でもそれはあっさりと阻止されてしまう。
「あ、もしかして気にしてる人? でも男に揉まれるとデカくなるらしいから協力するよ?」
「そうだとしてもあんたに頼むことは一厘の可能性もない!」
思わず出てしまった大声に周りに視線が集まった。怒っちゃダァメと頭を撫でつけられ、気恥ずかしさに顔を伏せた。傍目に見ればただの痴話喧嘩にしかならなさそうだ。
「俺のこと、早急すぎるって思うでしょ? でもさあ、時間をかけて一生懸命口説くのも、最初に言ってしまうのもやらせろという結論に変わりないわけ、男の場合。『長いはなしをつづめていえば 光源氏が生きて死ぬ』なんて昔の人も歌っているじゃない。つまり要するにそういうことなんだよ」
「……それのどこが要されているっていうの」
「言ってみたかっただけだから歌の意味まで知らないよ? なんつーか、ニュアンス?」
さらりとそんな歌が出てくるなんてちょっと良いセンスしているじゃないなどと思ってしまった三秒前の自分を詰りたい。またしてもダハハと笑い声を上げる男は、それこそ茶の一杯でも付き合わない限り追い払える方法が思いつかなかった。
「……今日だけだから」
「ワンナイト派なんだ」
「夜まで付き合うわけないでしょ!」
このグラスが空になるまでよと、グラスをテーブルに打ち付けた。
「まあいいや。それまでにその気にさせりゃあいいんだろ?」
これでも一歩前進だよねと、男は屈託ない笑みを浮かべていた。
テーブルの真向かいに、そいつは中腰のままで決して甘くないカフェデートは始まってしまう。記憶が正しければ自己紹介をした覚えすらないのに、あたかも付き合って三ヶ月目くらいのテンションで会話を繰り出されていた。気分はデートというよりデュエルのようだ。
「ていうか、いつも上も下もモノトーン系だよね。スカートも履かないし。せっかく可愛い顔してるのに、それは素材の無駄使いっていうんだよ?」
「服装なんて放っておいて」
「じゃあ今度、服を買いに行こう。俺が全身選んであげるから。クローゼットの中身は全取っ替えね」
「なんでそんなことまでされなきゃいけないの」
「彼女がダサいとかヤバくない?」
「彼女になった覚えなんかない!」
「今はそういう体でしょ?」
「だったら私たち別れましょう」
「分かった。ところでやり直したいと思ってるんだけど、どうかな? 仲直りエッチしよう」
全てにおいて音速のスピードで展開を巻いてくる。どれだけやりたいというのか。下心しかない性格を知ってしまった今はそんなこと口が裂けても言えないけれど、黙っていれば女に苦労する容姿ではない。街中を探し歩けば三人に一人くらいはあっさり口説かれることだろう。なのになぜ、どうして、私に執着するというのか。
呆れて開いた口も塞がらないでいたら、男はおもむろにスマートフォンをいじり始めた。仮にもデートという体を取っている時にそれはとても失礼な行為だ。もう遊びに付き合うのはお終いにしてしまおう。
「……そろそろ他を当たった方が互いのためだと思うんだけど」
「ええっ、ヤダよ……あ、このお店なんてどう?」
ニカリと笑った歯と画面を見せつけられる。このお店と提示されたのは来週オープン予定の、ファストファッション系の旗艦店だった。
「ベースはこのお店で揃えてさ、この近くに他の良い店を知ってるよ。アウターはそこでいいよね? どうせならバッグとかも探そうか」
「今日限りで会うつもりはないの」
「まあ騙されたと思って俺のコーディネートを披露させてよ」
絶対似合うよ、超保証するよ、俺の言う通りしておけば間違いないんだから。その自信はどこから湧いてくるものなのだ。しかし己が身につけているものは清潔感あふれ、流行に捕らわれているわけもないのにちょっと目を引く雰囲気がある。服が良いのか、或いはマネキン部分がほんのわずかにマシなのか。これだけ自信満々に口説き文句を息するように吐けるのだから、自分をよく見せる方法はある程度心得ているのだろう。
「でもねえ、君は裸が一番綺麗だと思うんだよな」
「……」
これ以上相手にする気にもなれず店を出た。分かってはいたけれど、私の後ろを当然のような顔でついてくる。あんまりにうるさくするものだから嫌味を吹きかけた。
「全く親の顔が見てみたいわ」
「え、マジで? いきなり親の紹介入っちゃう? 君もなかなか急展開じゃん」
「そういう意味じゃなくてね……」
いいや、いっそ父親に会わせてやろうかなんて頭を過る。文字通りミンチにしてくれそうだ。こんな時だけ頼るのも変な話だけど、こんな時だからこそ。
「お父さんに会ったら二度と帰れないでしょうね」
脅しのつもりで告げた言葉は、またしてもあの笑い声に飛ばされる。
「オッケー、オッケー。婿入りとか全然しちゃう」
「もしかして、あんた馬鹿?」
「そんなことないよ? 図書館とかめっちゃ行くし。本とかめっちゃ読むようになったし」
馬鹿なフリをしていただけなのか。ヘラヘラした阿呆ヅラに少しばかりの聡明さがにじんで見えた。
「俺のこと、話通じねえ奴だなって思ってるだろ? 『春はおぼろに月影淡く 恋に台詞のいらぬ宵』っていう歌もあるだろう。言葉はいらねえんだって。つまるところそれを実践してみているわけだ」
だから身体で語り合ってみましょうよ。そう言ってぐいと肩を抱き寄せられた。
「やっぱり俺の目に狂いはなかったね。裸が一番可愛かったよ、チハルちゃん?」
最低なのはどっちなの。圧倒的な押しに負けて流されて、名前を教えてしまったばかりか身体まで許してしまうなど。
強引で紳士的。今もまだ息は上がったままで脈は早い。
こんなことを父親に知られたら私が殺される。行きずりの男と寝てしまうなど、知られることを想像するだけで心臓が止まる。消えてしまいたいほどの絶望からそれを口走ると、アキオミはなんてことないように言った。
「大丈夫。そんなことにはならないよ。娘さんをくださいか、もしかしたら俺をもらってくださいかもだけど。口は上手い方だからばっちりニュアンス伝えちゃうし」
ダハハと笑う声が、今は悲観的な思考を解きほぐす薬のように作用する。
「そりゃあ父ちゃんだったら怒るよね。大事な娘が訳の分からない男と遊んだら、俺でもブチ切れると思うわ」
「自分のこと棚に上げて何言ってるのよ」
「俺は遊びじゃなくて本気だもん」
――だからそろそろ俺にも本気になってよね。
顔は赤くなっているのに、頭に血が昇った感じだけがしなかった。
「本気なんてどうせ口ばっかりでしょう。『あついあついと言われた仲も 三月せぬ間に秋がくる』とも言うんだから」
「それ初耳。俺、あのふたつしか知らんもん。もしかして百人一首とか全部覚えちゃってる人?」
「……百人一首だと思ってたの?」
「え、違うの?」
「こっちが飽きれそう……」
「俺は飽きたりしないしよ。名前もアキだけに」