初めまして、『おにいちゃん』
ふんわりと揺れる巻き毛は、黄金の一歩手前、カスタードクリームを思わせる、柔らかな黄色。小さな身体を覆う喪服にも見える黒いドレスや帽子はそれでも、凝ったレースがふんだんに使われ、この子供がそこらの街娘ではない事を物語る。深夜に差し掛かったこんな時間に小さな女の子がたった一人、自分より大きいトランクを引きずりながら街にいる事自体が、まともではないのだが。
「おじょうちゃん、どうしたの?」
ああ、またもお節介なご婦人が声をかけてきた。
「お母様は?はぐれてしまったの?」
夜会の帰りであろうか、乗り込もうとした馬車を待たせ、ごてごてと着飾ったいかにも貴族婦人という女が、その幼女に近寄り顔を覗き込んできた。この哀れな迷い子がいかにも高貴な身なりと見たからだろう。そこいらの建物の影に蹲っている痩せこけた浮浪児には、声どころか視線をやるのも汚らわしいと扇子で顔を覆っていたくせに。
無視を決め込もうと思っていた幼女は、こちらの意図を汲みもせず無遠慮に顔を近づけてきた女に、帽子の下で顔をしかめた。
「……」
無言のまま、幼女は顔を上げる。
「……!」
それだけ。ただそれだけだと言うのに――
「お、奥様?」
側に控えていた初老の従者が悲鳴混じりに上げた声は、倒れかかってきた婦人の形相によるものか、はたまた、従者の細腕には余りあるその恰幅の良い体格のせいだったのか。そんな騒ぎを幼女はふんと鼻を鳴らして背を向け――その前を、ふわりと黒い影が横切った。目の前の騒動にも足を止めることなく、目を向ける事すらせず、彼は悠然と幼女の前を通り過ぎていく。
きれい――
子供ながら、今の自分の容姿に幼女は絶対の自信を持っていた。ミルク色の肌にクリーム色の巻き毛、くりっとした愛くるしい瞳。子供だって大人だって誰だって、それこそ人も魔物すらも魅了して見せる。そんな自信も一瞬で吹き払われるほど、それなのに悔しいと思う余地さえないほどに、幼女は彼から目が離せなかった。そして分かった。
この人は、わたしが捜している人を知っているわ。
暗く深い黒の森。ここには魔物が棲んでいるから決して入り込んではいけないよと近隣の村では必ず子供に教え込んでいる言い伝え。一度踏み入れば人を惑わす化け物にたちまちの内に攫われてしまうから――
そんな森の奥に館を構えてひとり棲む魔物、吸血鬼カイルは一夜にして天国と地獄の気分を味わった。
ここ数日ばかり、またしても予告無しにふらりと現れた兄に居座られて胃に穴が空きそうな心労を抱えていたが、それも今夜そのラルクが出立したのを玄関先で見送って終わり、自分のリビングで久方ぶりにのびのび寛げた事。
さあ秘蔵のワインでも開けて自由の祝杯を挙げようと思っていた矢先、去ったはずの兄が再び戻って来た事。侵入者防止用に張っている結界もなんのその、黄金の吸血鬼は正面から堂々と舞い戻ってきた。しかも、
「初めまして♪お兄ちゃん」
漆黒のコートの影からぴょこりと顔を出した同族の幼女のおまけつきで。
ラルクのお相手にしてはあまりに幼すぎるし、そんな事を口に出したが最後、容赦なく心臓を掴み出される未来を垣間見た気がして、カイルは頭をぶんぶん振って怖い想像を追い出した。
その幼女はラルクから離れ、とたとたと小走りでカイルの前へと走り寄ってきた。
「初めまして、カイル様!」
弾ける様な満面の笑顔は、強面の男すら蕩けてしまいそうなほどの魅力。けれど今のカイルには効果が無かった。困惑の極みにある黒髪の吸血鬼はとりあえず、質問を投げかけてみる。
「……きみ、誰?」
「妹よ♪」
「……誰の?」
「カイルお兄ちゃんの♪」
「兄貴ぃぃぃぃいいい!!」
黒髪が白髪になりそうなほどの驚愕に、カイルは既にコートも上着も脱いだラルクが寛ぐリビングへ突進した。
「ノックくらいしろ、不躾な」
革張りの椅子に背を預けてクリスタルのワイングラスを傾けながらラルクが咎めた。これではどちらが家の主が分からない。
「待ってよぅ、おにいちゃん」
続いて問題の幼女が小走りで追いかけてきて、カイルの背へとしがみついた。そんな彼らの前へ、召使いがカップとティーポット、そして幼女の前へはミルクティーの用意を調える。
「私は『カイルお兄ちゃん』の元へ連れていってと頼まれただけだ。それ以外は私の知るところでは無く、お前達の話だ」
「んな無責任なっ!ってゆーか、俺の妹だってんなら兄貴の妹でもあるわけだろ?!」
「忘れるな。私とお前は異母兄弟だ」
紅茶のカップをゆっくりと受け皿へと戻して意味ありげにそこで言葉を切り、
「そして我らが父がお前以降に子を成していたとは私は聞いていない」
と言う事は――
「母上ぇぇぇえええ?!どー言う事だよ!!」
絶叫するカイルを、
「面白い男だろう?」
「うん♪」
黄金の吸血鬼と幼女は温かい(?)目で見守った。
「こうしてられるか!実家行って来る!!」
乱れた髪を整えもせず、上着とコートを乱暴に羽織って飛び出そうとした背に、
「おにいちゃん…わたしをキライなの……?」
か細い涙声がかつんと当たり、カイルは動けなくなってしまった。そうっと振り向けば、そこにはサファイアの様な両眼をきらきらと潤ませてこちらを一心に見つめる幼女の姿。涙が溢れぬよう引き結んだ唇や頬は薔薇色に染まっている。これを無視して押し切れる性格ならば、カイルの人生は大分変わっていただろう。
「と、とりあえず……きみの名前を教えてくれるかい?」
暫くの間の後、観念し、とりあえず現状を整理しようとカイルは椅子へ腰を下ろした。目覚めたばかりの筈なのに既に体が重く思えるほどの疲労を感じ、今すぐ地下の棺桶の中に舞い戻って眠りを貪りたい気分だ。何も知らなかったつい先刻までの様に。
カイルの引き止めに成功した幼女の表情は、涙目から一転お澄まし顔へと入れ替わった。
「シャルロット・ド・レルヴァーンです。どうぞお見知りおきを」
黒いスカートの裾をちょんとつまんで膝を折る仕草のひとつひとつがどんな大人の心も掴んでしまうほどに愛らしい。だが今夜披露した相手は、全てを魅了すると讃えられる美貌を誇る黄金の吸血鬼と、いつもその美貌を目の当たりにしている弟だ。普段通りの成果を出すには分が悪過ぎた。
(むー。このあたしに夢中になれないなんてっ…!)
皆がわたしを見てくれる。褒めてくれる。以前連れて行って貰った社交界の華やかなパーティーだって大人達を差し置いて彼女が主役だった。それなのに――!
「レルヴァーン…?」
肝心のカイルは記憶を掘り起こそうと頭を抱えているし、ラルクはもう彼女への興味を失ったかの様に窓から覗ける月へと視線は向いている。そんな男達の態度に、名乗ったシャルロットは少なからずご不満だ。
「決めた」
強い声に、カイルは頭を上げた。期待を込めて。ああ、ようやく帰ってくれるのか――
「おにいちゃんがわたしのことをきちんと妹として見てくれるまで、ここにいる」
続いたシャルロットの言葉に、カイルは仰け反った。勢い余って背もたれの固い木枠に後頭部をしたたかにぶつけたが痛みに悶絶する余裕も無い。
「ちょっ……」
「あ、お気遣い無く。ほらちゃんと身の回りのものは持って来てるから、お兄ちゃんは何も心配しないでいいの」
持参したトランクを傍らに引き寄せ、少女は無邪気な笑顔を見せた。
「そうじゃなくって…えっと、兄もいるし客間は塞がって……」
「さて、そろそろ動かないと夜が明けてしまうな。では失礼」
カイルの言葉が終わらぬ内に、ラルクはさっさと身支度を始めていた。
「待って、兄さん!この子置いて行かれてどーすりゃいいんだよ!!」
コートの裾を掴む弟を兄が煩わしげに振り返った。
「何だ、こんな子供を相手に間違いでも犯すつもりなのか」
先程自分が口に出さなかった事を出されてカイルの心中は荒れまくったものの、ここで手を離す訳にもいかなかった。
「そうじゃなくって…」
口籠もる主へ、召使いが助け船を出した。
「ラルク様のお部屋の用意は調っておりますし、お嬢様用の客間のお掃除もただいま済ませてございます」
助けと見せかけた、とどめの一撃。
「わぁっ、流石おにいちゃんの使い魔!話に聞いていた通りだわ!!」
シャルロットのトランクを運び案内する召使いと『妹』を呆然と見送るカイルへ、
「愛する弟に引き留められてしまったのでは仕方ない。ではもう暫く羽を休めるとしよう」
そう宣告したラルクもさっさとリビングを出て行ってしまった。取り残されたカイルは椅子に沈み込んだまま立ち上がれず、
「……家出してぇ」
一人暮らしの館の主とも思えぬ呟きをこぼして、大きな溜息を吐いた。
傲岸不遜、唯我独尊を地で行くラルクだが、嘘はつかない。言わないだけ。だから、カイルは彼にこう尋ねるべきだったのだ。「レルヴァーン家を、シャルロットの事を知っているか」と。そうすれば彼はこう答えたろう。
「知っているとも。だからどうした?」
と。