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小さいゴリラみたいな先生が、黒板に『後藤茂』と名前を書いてくれている。
その横に茂は立って、今朝、整えたばかりのあごヒゲをさする。
三年二組の生徒は、茂の知り合いが大半を占めている。中学二年まで、この九登地方に住んでいたので、なんだか懐かしい気分だ。
体つきが見るからに変化していて、誰もが思春期特有の成長を果たしている。
女子はブレザーの制服が似合っているし、男子は詰襟の学生服がさまになっている。
「ほら、やっぱり後藤じゃんか」
一番後ろの席に座る男子が、黒板を指さしながらいった。
馴れ馴れしく呼び捨てにされたのだが、こいつの名前を思い出せない。金髪のチャラ男に知り合いなどいなかった。
「後藤ってあの後藤か? 名前が同じってだけじゃないのかな」
「単なる偶然だとは思えない。あの顔を忘れるわけないもの。あの後藤だよ」
他の連中も次々に口をひらいていく。
茂のことをおぼえてくれているようだが、素直に喜べなかった。みなの反応が、どこか脅えて見えたせいだ。
もしかしたら茂が九登を去る前に起こした事件を、みんな忘れていないのかもしれない。
先生は生徒たちに向き直ると、教卓に毛深い手をつく。
「うるさいぞ、私語は慎め。ちゃんと静かにして、後藤の自己紹介を聞け。いいな」
注意を受けただけで、みんなが黙って茂をみつめてきた。少なくとも教師の前では、素直な生徒が多いらしい。
なんにせよ、変な茶々を入れられないのはありがたい。
「どうも、後藤茂です。初めまして――いや、そうでない人も中にはいるっぽいですけど」
言葉が途切れてしまう。
緊張している訳ではない。単に、自己紹介でなにを喋るか考えていなかっただけだ。
「えーっと、とにかくよろしくです」
全く内容のない挨拶だった。
それでもひと仕事を終えた気分だ。
茂が悠々とあごヒゲをさすっていると、担任が気を利かせてくれる。
「だれか質問ある人はいないか?」
挙手する生徒はいなかった。それどころか、茂が視線をむけると、すぐに顔を逸らす奴ばかりだ。中には、机に顔を伏せて寝たふりを始める奴もいた。
昔なじみの土地に戻ってきたのに、歓迎されていない。痛々しい空気の中で、茂は苦笑いを浮かべる。
「なんだなんだおまえたち。クラス替えをしたばかりだから、目立つのをおそれてるのか? なら仕方がないな。俺が勝手に指名するから、そいつが代表して質問しろよ」
先生の発言を受け、生徒たちは露骨にいやな顔をする。
先生が座席表に目を落とす。生徒たちは憎しみのこもった目で先生をにらみつける。
どうせにらむのならば、気づかれるようにやらないと意味がないだろうと、茂は思った。
そんな中で、女子のひとりがスッと手を上げた。
他の生徒たちが、救世主を崇めるような顔で彼女を眺めている。
運動場側から数えて二番目の列、そこの一番後ろの席。赤みがかった髪をポニーテールにまとめている女の子。
元気そうな姿を見ただけで、なんだか茂は嬉しくなった。あごヒゲを触りながら、にやけていく自分の口元を隠す。
何年ぶりだろうか。中学二年の三学期まで九登にいたから、丸三年になるのか。
久しぶりにも関わらず、ひと目で彼女が前嶋沙耶だとわかった。
他の生徒とちがって、沙耶は茂から視線をそらさずに、真っ直ぐみつめてくる。
拳をかすかに引いて、茂は小さくガッツポーズをする。
このクラスに転校できて良かった。
最初の質問者が沙耶ならば、喋りやすいのでありがたい。だから、早く指名しろミニゴリラ先生。
座席表から顔を上げた先生が口をひらく。
「よし、じゃあ梶原が代表して質問をしてくれるか」
誰だよ、そいつ。なんで沙耶の名前を呼ばないんだ。
茂と同じように、他の生徒も文句がありそうな顔をしている。
そんな中で、いまにも泣きそうな女子がいる。おそらく、この気弱そうな生徒が、指名された梶原なのだろう。
彼女の反応を見て、先生は嬉しそうに笑う。
「あの、私さっきから手を挙げてたんですけど」
不機嫌そうに、沙耶が口を開いた。
「おお。すまん、すまん。きづかなかったよ。前嶋は、梶原のあとに質問してくれ」
納得のいかない表情で、沙耶は立ち上がった。
「梶原さん。質問ないなら、質問ないってさっさといっていいよ。その教師は、大人しい女子が困る姿を見て興奮する変態だからね」
「おいおい、前嶋。ふざけたことを」
「私、間違ったこといってますか?」
「間違ってるも、なにもないだろう。おまえは俺の担当するクラスになったのは今年がはじめてだろ。それに、俺の授業に出たことも一度もなかっただろ。そんなんで、どうして俺のことをしたり顔で話せるんだ?」
「私の大事な友達や後輩が、みんな愚痴ってましたから。私、そういうことどんどんいっていきますから、今年からセクハラは辞めてくださいね」
ゴリラ先生は、口をパクパクさせて落ち込む。口の動かし方が、目に見えないバナナを食べているようにしか見えなかった。
視界の端で、沙耶がすました表情のまま着席する。
彼女は女子から羨望の目をむけられている。男子も感心しているようだ。ゴリラ先生への不満を生徒は誰しもが持っていたのだろう。
そういえば、神楽木鞘香も『学校でセクハラされたことがある』といっていた。
ここは沙耶だけに任せておくわけにはいかない。断固としてセクハラ教師とは戦わねばならない。
「へぇ、先生ってセクハラ教師なんですか――」
ゴリラ先生の表情が固まる。さらに挑発してやろうと茂は思った。
そんな矢先、教室のいたるところから悲鳴にも似た声があがる。
「やっぱり、後藤だ。容赦ねぇ。いきなり担任を社会的に抹殺しようとしてるぞ」
「そうやって、うちのクラスを乗っ取るつもりだ」
沙耶と同じことをしただけなのに、反応がちがいすぎる。
最初に教室を見渡したときに思ったことが、徐々に確信に変わっていく。
やはり、茂が九登を離れる際に、余計なことをしたのを誰もがおぼえていてるのだ。
「畜生~! なんでよりにもよって九登の都市伝説が三年二組に転校してきたんだよ」
「でも希望はあるわ。わたしたちは、沙耶ちゃんに守ってもらいましょ」
クラスメートの反応で、腑に落ちない点はもうひとつある。
茂の知る限り、沙耶は周りの連中に頼りにされるような女ではなかった。ちょっとおせっかいなところもあるが、基本的にはわがままな性格だったはずだ。
「ちょっとみんな、ざわざわせずに、黙れっての。茂に質問できないでしょ」
苛立ち混じりに、沙耶が周りに注意をする。
不機嫌さを隠さない彼女の表情を見て、茂は密かに安堵した。どうやら沙耶の本質的な部分は変化していないようだ。
下の名前を呼び捨ててくるところも、昔と変わっていない。些細なことを嬉しく感じた。
茂がほほえんでいると、目ざとく沙耶がそれにきづく。
「なに笑ってんのよ、アンタは。私が注意しても、誰も静かにしないからって、バカにしてるの?」
久しぶりとかの、再会の挨拶を抜きにして、いきなり喧嘩腰でこられた。その流れに、茂ものりかかる。
「被害妄想もいい加減にしろっての。それよか、質問あるんなら、さっさとしろよ。ちゃんと答えてやるから」
まるで、昨日ぶりに会った友達と喋るように、気軽に口をひらけた。
徐々に静かになってきた教室の中で、沙耶が茂にたずねてくる。
「それじゃあ、この疑問に答えて――高校三年の春に、九登に戻ってくるって、頭がおかしいとしか思えないんだけど。なんか考えがあっての行動なの?」
「そりゃ、俺だっていろいろと考えてるっての。今年中にこの町で結婚する人間にとっちゃ、引越してるほうが、なにかと都合いいだろうが」
沙耶を相手に喋っているから、ついつい気楽に話せてしまう。
たとえ、それがどんな重要な内容だったとしても。
「結婚?」
つぶやいた沙耶は、目を丸くした。予想外の解答だったのだろう。声を失っている。
沙耶とはちがい、他の連中は騒ぎ始める。
「いったい後藤に捧げられる生け贄は誰なんだ?」と実に失礼なことをいう男子がいる。そのいっぽうで、悲鳴をあげることしかできない女子がいる。
さすがにうるさくなってきて、落ち込んでいた先生もよみがえる。
「やかましいぞ、おまえたち。これはホームルームの時間だからな。さっさと黙れ」
生徒を怒鳴ることで、ゴリラ先生は威厳を取り戻したようだ。さきほどまで沈んでいたとは思えない表情で、にらみをきかせる。
ゴリラ先生は、どうやらこの高校でおそれられている人物らしい。不満げな表情を誰しもがしているが、すぐに生徒たちは静かになった。
とはいえ、例外は存在する。言い方を変えれば、空気が読めない奴だ。
「ちょっといいですか先生、僕も後藤に質問があるんですけど?」
肘の曲がった腕を挙げながら、チャラ男が先生にたずねる。
「だめだ。思ったよりも時間が経ったからな。あきらめてくれ」
チャラ男に対して同情の声があがることはなかった。
どこのクラスにも一人はいる、可哀想な立ち位置の男なのだろう。茂は密かに同情した。
もっとも、こいつが誰なのか、相変わらず茂には心当たりがない。
「あ――」
別に思い出した訳ではない。沙耶の反応に気づいたのだ。
チャラ男のことを、沙耶すらも無視している。金髪でチャラチャラしていても、ろくなことがないようだ。