そしてヒトは愛し合う
真っ赤な血の中で
何が起こったのか、どうしてもわからなかった
真っ黒の闇の中で
恐怖に襲われながらも、どうしても泣けなかった
泣けず、ただ手を伸ばした
その先にある刃の光だけが、唯一の希望であるかのように
真っ黒の暗闇の中、手を伸ばして掴んだ
そして胸に赤を刻まれたあの人は、痛みに叫んだ
なんと言えばいいのだろう
痛み苦悶苦痛怒り………でもそこに
なぜ悲しみがあるのか
なぜ涙があるのか
なぜそんな辛そうな顔で泣いているのか
どうしてもわからなかった
そしてあの人は逃げ去っていった
――――― ごめんね ――――――
どうして謝るの?騎士。
――――― ごめんね ――――――
ねえ騎士、今騎士はどんな顔をしているの?
あの時の犯人は、とても哀しそうな顔をしてたよ。
僕が大好きだったあなたは、赤だらけになって、泣いていた。
なぜ?なぜそんなに哀しかったの?
――――― ごめんね ――――――
大丈夫だよ、僕は全部知ってるよ?
あなたがお父さんとお母さんを殺したのは、虐待されてた僕たちを守る為だったってことも、
あなたがどれだけ二人のことを愛していたのかも、
あなたが騎士になって僕のもとへ戻ってきてくれたことも。
二人を殺してしまった罪を償う為に、顔を隠して僕を守ってくれてるんだよね。僕が悲しみすぎて、ほとんどの記憶をなくしてしまったんだと、勘違いしてるんだよね。
でも僕はちゃんと覚えてたよ。あなたが僕の前に戻って来てくれた時に、鋼の中の顔なんか見えなかったけど、それでもあなたにまとわりつく空気が、とても懐かしかったから。
ちゃんとわかってるよ。あの日のことも、あなたのことも。
ちゃんとわかってたよ。この男が殺人鬼だということも。
「高等……魔術」
僕が使った魔術を見て、その男は目を見開いた。
「水を自在に操る……だと?」
城の回りにあった「池」は、今や水の塔と姿を変えていた。
何本もの水柱が、捻れてひっついて混ざりあい、巨大な芸術作品を形作る。
落ちていく二人をその水の塊の中に受け止めたあと、浮上させ、水の床に寝転ばせた。その横に、遥か上から落ちてきて空中で停止した僕が、静かに着地する。
気絶した僕の従者を宙に浮かばせ、抱き上げた。魔術で軽く浮かせているので、まったく重くない。
「……自分も人も……こんなに大量の水まで同時に……浮かせられるのか……!」
水浸しの顔を驚愕に歪める筋肉男に、安心できないような微笑みを向けてやった。
「玉当ての時、ちょっとやってみたら、意外と忠実に飛んでくれてさ。ならば対象が、水でも人でも自分でも一緒かなって」
「いや、ただの物体を飛ばすのと四元素の一つを操るのとは、全然違うぞ」
「あはは、これぞ愛の力だよねぇー」
惚気ていると、男がやけに神妙な顔付きになった。
「……まさかとは思っていたが……お前、オレが殺人鬼だと知っていたのか?」
「えー……なんで?」
とぼけてみると、相手は目を細めながら語り出した。
「戴冠式の日……騎士を見舞いにいったオレに、お前はこう言ったな」
――――総長様はもっと残酷で残忍な顔がお似合いだよぉ―――――
―――――本性現しちゃいなよぉ、羊の皮を被った狼がー――――――
「適当に言っただけだろうと気にしないようにしていたが……それだけの魔力があれば、オレの中の記憶を盗み見ることなど容易だろう。オレも少しは魔術が使えるとはいえ、防護魔法などは全くだからな」
なんだ、意外と賢いんじゃないか。
「別に記憶を見ようなんてしてないよ。ただ、街道で襲撃してきた暗殺者たちの最後の言葉……僕には聴こえたんだよね。耳だけは凄く良いから」
――――こんなの約束と違う―――――
――――犬の振りが上手い奴め――――――
「その言葉と、足音や走り方、息使い……それだけで、仮面男とあなたが同一人物だって判断できたよ」
自慢げに言ってやると、相手はまだ納得できない顔で問いかけてきた。
「ならばなぜ……知らないふりをしてた?」
ふり、というか……。
「演じてた……演じたかっただけだよ」
「……演じる?」
聞き返す男の顔には、純粋な混乱が浮かんでいた。
ふぅ、仕方ないなぁ。
「騎士と僕の旅の目的は、胸にバツ印の傷がある人間を探すこと。だから、その人間を捕らえてしまったら、旅は終わってしまうんだよ」
「……え?」
腕の中で気を失っている少女。魔力を使い果たしてしまったんだろう、もともとそんなに強くないくせに無茶をするからだ。まぁ、それでこそ騎士なんだけど。
その胸にある十字の傷を見せながら、「ほら」と説明を続ける。
「旅の目的はすでにここにいる。騎士自身こそが、僕と騎士が探し求めてる……胸に十字のバツ印がある人間、だからね。だから本当は、僕は仮面男……あなたが僕らの復讐相手じゃないということはわかっていた。だけど僕は、騎士が両親を殺したことは忘れてるってことになってるから、あなたが犯人じゃないことを言いだすことはできなかった。だって、なんでわかるんだ?って言われたら答えられないじゃない?」
「……つ、つまり、お前は……」
「そう、何から何まで演じてたんだよ」
復讐の為に犯人を追う少年、という役を。
「そして騎士も名役者だよ。もちろん殺した本人なんだから、仮面男が両親を殺した犯人でないということはわかってた。でもこの子も僕と同じく言いだせなかった。なぜわかるの?って聞かれたら答えられないからね。だから騎士は、僕と同じく演技をすることにしたんだ。―――――少年の両親を殺した犯人を殺す騎士、という役を」
つまり僕らがやってることは、ただの虚偽なのだ。
「愚かでしょう?でもね、どんな演技も本気でやれば、真実のように感じてしまえるものだよ。ああだけど……本当に、胸にバツ印の傷がある人間が現れちゃうとは思ってなかったなぁ……しかも、殺人鬼として」
本当に、こんなに綺麗な偶然が起こるなんて。
まだよくわかっていなさそうに目をしばたたかせる総長に、僕は安心させるように微笑んでやった。
「とにかく、僕らは僕らで色々事情があるから、大変なんだよねって話」
すると総長は、聞き分けのいい子供のように「そうか」と表情を明るくさせた。やけにあっさりしてるな。
「じゃあ、そんな大変なところ悪いんだが……オレを―――――――弟子にしてほしい」
前心撤回。あー、うざっ。
「嫌だよ、面倒臭い」
即答すると、半泣きになられてしまった。
「頼む、オレは強くなって―――いつか――――」
男の顔が、殺人狂の笑顔になった。
「異世界の人間も皆殺しにしたいんだっっ!!」
………こういう時、騎士なら「胸糞悪い」って言うんだろうな。
「そして俺は伝説になるっっっ!!!!!」
異世界に行く道を間違えて、あの世にたどり着いちゃえばいいのに。
「ねぇ、それ、あなたが生き続けることを前提にしてるの?」
尋ねると、空に向かって両腕を広げていた狂人は、顔を「?」一色にした。
「僕があなたをこのまま助けることを前提に話してるの?」
こちらも、相手に負けず劣らず「?」を顔に張り付けた。
だがそれよりも一瞬早く、相手の顔がぐしゃりと歪む。
「い、ぃぃいぃ嫌だっ!!」
叫んで、土下座しだす。
「頼む、助けてくれっ!死にたくない死にたくない死にたくない死にたくないんだ!」
こんな時、騎士なら「愚かな」って言うんだろうな。
そこで慈悲をかけるかかけないかが、騎士と僕の決定的な違いだ。
「大丈夫、殺しはしないよ」
男が動作を停止させた。
「だいたい、殺すのは騎士の役目だし。でもその騎士は只今絶賛気絶中だ」
「じゃ、じゃあっ……」
「だけど」
顔をあげた男に、掌を向けた。自然と口の端が上昇してくる。
「君は僕の騎士を傷つけた。だから」
なんだろう、いつか誰かにも似たような――――――
「あなたを呪うことにするよ」
そうだ、あの日も僕は、呪ったんだ。
「誰もあなたの名前を呼ばない」
でも誰を?
「誰もあなたの名前を思い出さない」
んー……思い出せないなぁ。
「名前のないあなたは、これからずっと一人ぼっち」
まぁいいか。
「永遠に」
「ひっぎゃあああああああああ」
魔力の切れた大量の水とともに、男は落下していった。魔術で浮いている僕と騎士を残して。
「感謝してよね」
掌を下に向け、もうすでに黒い点と化している男の体一面に、水を巻き付ける。これで、落ちても痛くないはずだ。
そのあと彼が自ら死のうが生きながらえようが、どうでもいい。どうせ名前を奪われたあの人は、もう誰かの視界に入ることもない。誰とも接せれず、また彼も人間と接せれない。永遠の一人ぼっち。彼のような皆に注目されたいと願っている人間にとっては、とんでもなく辛いことだろう。
「騎士ならこんな時、哀れと言うのかなぁ」
「……しょ…ねん……」
腕の中から、微かな声が鳴った。
「騎士?」
「…しょうね…ん……」
意識は目覚めていない。譫言のようだ。
青白い、まだ大人になりきっていない顔を見つめる。
そう、あの日赤色に染まっていた顔。悲しそうな涙を流して、二体の屍の傍に立っていた少女。
僕の、姉。
「大丈夫だよ」
そっと囁いた。
「僕はずっと、あなたの傍にいるよ」
一緒に、終わることのない人探しの旅をしよう。
架空の犯人を求めて、二人で歩こうよ。
あなたが傍にいられるように、ずっと忘れたふりをし続けるから。ずっと一緒にいよう。そして、今回のような偽りの復讐劇を繰り返そう。
胸に十字のバツ印の傷がある人間を『守る』こと。
それが僕の生きる目的。
何があっても、騎士は絶対に死なない。死なずに僕を守ってくれる。
なぜなら、僕が『守る』から。
「さぁ、騎士が目覚める前に、皆に僕の魔術について口止めしとかないと。忘却魔術あたりが使えるかなぁ」
主は従者より弱くていい。
戴冠式をあとわずかに控えた姫は、自室で非常に真剣な面持ちをしていた。それに対し、黒い執事はおずおずと口を開く。
「ああの、姫様、これは……」
「しっ!今、髪の毛整えてるから。もうちょっと待って」
嫌がる黒髪を押さえつけ、白い指は素早くそれにリボンをくくりつけた。そして出来あがった〝それ〟を下から上まで眺めまわし、満足気に頷く。
「出来たわ。我ながら完璧ね」
「……いえ、ですからその……」
もごもごと呟きながら、黒髪の少年は鏡にうつる自分の姿に赤面した。
黒髪と同じ真っ黒なドレス。王室御用達の服職人が急きょ用意してくれたもので、銀糸の刺繍が職人技としか言い表せない丁寧さで縫い込まれている。黒ということで多少なりとも重圧感があるが、冷たい表情の彼にはまさしくぴったりな仕上がりになっていた。
「これは……女装…というものでは……」
「そうね」
きっぱりと断定する姫に、執事は顔の赤をより濃くさせた。
「な、なぜ男の私がっ」
「一人称〝私〟だし、ちょうどいいんじゃない?」
「ひ、姫様っ!」
突然呼び出され、訳もわからないうちにこのような状況においこまれた執事は、悲劇的な表情で主を見つめた。すると少女はさもおかしそうにクスクスと笑いながら、顔を真っ赤にさせる従者に説明しだした。
「ほら、今日の戴冠式って前座として踊らなくちゃいけないじゃない?でも私、むさい貴族の男なんかと踊りたくないのよね。そこであなたと踊りたいって思ったんだけど、一応は姫様だからね。執事と楽しそうに踊ってたら、何かと変な噂がたちそうじゃない?ならば……」
両腕を広げ、これみよがしに身につけている男用の正装を見せ付ける少女。
「私が男であなたが女になれば、堂々と一緒に踊ることができるわ」
名案でしょう?と目を輝かせる少女。赤い長髪をくくり、髪とおそろいの真っ赤な男服を着ているが、どうしても男らしくは見えない。
「……いや、普通に変装だけすればいい話では……第一、パーティーでは皆仮面をつけるようになっておりますから……」
小さな反論を見せる少年だったが、もちろん少女がそれを聴くはずもなく。
「あ、胸のリボンが曲がってるわ」
少年の言葉など軽く流し、黒い胸のリボンに手を伸ばす少女。
その白い指がリボンの端を引っ張り、黒はスルリと解放された。
「………胸の、ね……」
最近やけによく聞いた単語だ。姫と執事はふっ、と心中に沸き起こる苦いものに沈黙した。
突然爆発した少年の魔力――――入口を塞いでいた瓦礫が吹っ飛び、止める間もなくそこにつっこんでいく少年――――少年にかけられた眠りの術が解けた執事が助けに来て―――二人で突如現れた水の塔に驚愕し――――しばらくして金髪の少女を抱きかかえた少年が空を飛んで戻ってきた――――そのあとで、少年は私に掌を向けてきた。
「何をする気だ!」
執事が私の前に立ち、珍しく声をあらげた。
だが小さな少年は、床に寝かせた騎士を気遣ってか「しー」と唇の前で人差し指をたて、微笑んだ。
「僕の本気の魔術を見てしまったでしょ?だから、それに関する記憶をちょっと……忘れてもらいたくて」
「……忘却魔法まで……使えるのね」
驚きと恐怖を込めた声で呟くと、少年は「うん」とこともなげに頷いた。
「お父さんの書斎に、各国から集められた魔法書がいっぱいあったから。姉さんと一緒にいっつも読んでたんだよ」
「……あなたのお父様は……」
脳裏に、騎士がこの部屋に突然現れた時の姿が蘇る。あの時溢れだしていた魔力と、それと非常に酷似した力を持つ少年。
――――やはり、初めて会った時に感じた違和感は正しかった。
「今あなたの本気の力を前にして……やっとわかったわ。あなたのお父様は、なくなった、北の国の最後の皇帝……そして、騎士様にもその血と王族の魔力が流れている」
「………」
沈黙で肯定する少年の顔に、私はなぜか悲しみが混ざっているような気がした。
「……そうだよ、僕と騎士は姉弟で、北の国の王族の末裔だ。だから騎士は、丘からこの部屋の扉をあけて、助けに来れたんだよ。この子は北の王族の血をひく子だから。……って、初めて会った時から君は、気づいてたんでしょ。僕たちに流れる魔力が、普通とは違うって」
きらりと目を光らせ、少年は首を振った。
「出会ったとたん、大事な騎士をたぶらかしてくれたもんねぇ、君は」
「……なんのこと?」
とぼけてみたが、もちろん無駄だった。
少年は余裕の笑みで語り続ける。
「街道で初めて会った時、君は僕と騎士が普通の人間ではないと直感した。まさか王族だとは思ってなかっただろうけど、興味が湧いたんでしょう?無理やり城に連れていったのも警護を頼んできたのも、それを見極めるために傍においておきたかったからだ」
……やっぱり、この子は賢いな。
「……でも、それがなぜ騎士をたぶらかすことにつながるのかしら?」
「否定はしないんだ」
「事実だもの」
認めるしか、ないだろう。
すると少年はふふっと笑い、続きを話しだした。
「君はまず、僕の奥底に隠してある異質な魔術に気づき、それを魔術で覗こうとした。記憶でも見るつもりだったのかな?」
「思い出を見ようと思っただけよ」
そう言う私に「一緒でしょー」とつっこみながら、少年は首を振った。
「だけど僕は、そんな極悪趣味には付きあわない主義なんで」
「防護魔法で跳ねのけてくれたものね。ああ、この人の魔力は本物だ、と思ったわ。だからこそ、余計に傍に置いておきたいと思ったのよ。いざという時の戦力が欲しいときだったから」
そう、そのためにもこの少年のことについて、もっと探ってみようと思ったのだ。
目を閉じたまま死んでしまったかもようにピクリともしない騎士を見つめると、少年はクスリと笑った。
「僕の心に入りこめないとわかった君は、次に僕の傍にいる騎士が何か知っていないか、今度は騎士の心に入りこもうとした。あの子は強いけど、そこまでの防護魔法はそなえていないからねぇ。もう少しで君の精神世界に引き込まれてしまうところだった」
「……あなたが一言でひき戻したけどね」
――― 血のようだねぇ ―――
たった一言で騎士を我に返らせた少年。あの時のことを思い出し苦笑いしていると、少年は「当たり前でしょー」と照れ出した。だが次の瞬間には、表情をころりと変えて頬を膨らませた。
「そういえば、まだあったよ。執事さんを仮面男にして僕らを襲わせた時、僕を殺そうとするように命じたでしょう」
その言葉に執事が何か言い返そうと口を開いたが、片手をあげてそれを制す。
「ええ、あなたの本気がどの程度のものなのか……凄く気になってたから」
「おかげで、騎士の前で本気を出しちゃうところだったよ。か弱い少年のままでいたいっていうのにさっ」
ぷんっと顔をそむける少年に、思わず微笑んでしまった。
「ふふ、騎士様を愛していて……そして、騎士様に愛されたいのね」
言うと、少年は肯定も否定もせず、ただいつも通りの微笑みを浮かべた。白い髪がさらりと揺れる。
私はその揺れを眺めながら、ずっと気になっていたことを口にした。
「その、髪の色」
北の国の人間の髪は、皆金色のはずだ。だが、少年の髪は氷雪のような白。
「……聞いたことがある。北の国に伝わる言い伝え………〝白い髪をもって生まれた子は、絶大な魔力をその身に宿している。だが、それは呪い……神から与えられた呪い〟。でもまさか、本当に存在するなんて「神様なんていないよ」
少年の声に、少しの魔力がこもった。
空気がパリッと音をたて、傍の大理石の瓦礫たちがカタカタと音を鳴らしはじめる。
「だって助けてくれなかったもの。騎士を……僕の姉さんを助けてくれなかった」
その顔にはもう、微笑みはない。
「だから、僕が守ろうと決めたんだ。白髪と共に授かった絶大な魔力をつかって、この子を守る。金髪の人間たち皆が、僕を畏怖と恐怖と蔑みの目で見てきても、彼女だけは微笑んでくれたから。僕をいじめて、果ては殺そうとしてきた母さんと父さんを殺してくれたから」
…………………そうか。
「それが、あなたの愛なのね」
私の呟きに、かすかに滲み出ていた魔力は少年のもとに戻ってゆき、大気に張り詰めていた緊張はじょじょにもとの静けさに戻っていった。
そしてとても穏やかな声で、少年はこう言った。
「……さて、そろそろ終わりだよ」
硝子の向こうの朝もやの中に、ぼんやりとした光がさし、夜明けを告げている。その柔らかな光に目を細め、少年は微笑んだ。
「君達のことは嫌いじゃない。だから、選ばせてあげる」
僕の本当の力についてを、忘却の魔術で無理矢理忘れさせられるか、それとも決してそのことを口にしないと誓うか。
「騎士にバレなければそれでいい」
そういって、我が子を見つめるように騎士を見下ろし、少年は手を、その傷だらけの頬に伸ばした。だがそれは結局、傷に触れることもなく空中でとめられる。
「哀れな子だよ。全ては僕を守る為に犯した大罪なのに、こんなにも傷つき、僕を守ろうとする。きっとこの子は……歌いつづけるのだろうね、永遠に。それこそが罪の意識を和らげてくれる償いとなるから。そして」
騎士の顔から目をそらした少年は、自らの胸を押さえた。
「それをただ聴き続けるだけでいることが――――僕の罪なんだろうね」
「さぁ、もういいわ」
いつの間にか結べていたリボンに気づき、慌てて回想を中断する。黒いリボンは、まるで彼女の胸にあった十字の傷を思い出させようとするかのように、少年の胸元を飾っていた。
「行きましょう。今日は思いっきり躍るわよ」
脳内に浮かぶ剣痕を振り払うように明るい声をだし、まだもごもごと恥ずかしがっている少年の手をとり、無理やり走り出した。
あの少年や騎士の言う罪の、全てを知った訳じゃない。けれど、わかったことがある。
あの二人は、自分の罪から決して逃げようとしない。
償う為に、大切な人を守っている――――いや、守ることこそが、彼らの救いなのかもしれない。
「ちょっ、姫様!す、裾を踏んでしまいます…っ」
「もう、ドレスくらい着こなせないで私の執事が勤まるとでも思ってるの?」
わたわたと覚束ない足取りで、必死に前へ進む黒い少年。私の執事。
そして、私の兄。
きっと、この秘密こそが私の罪なのだろう。そして、真実を話すことこそが、償いの始まりになるのだろう。
だけど、もう少しだけ。
「私は姫!あなたは執事よ!」
「は…はぁっ?」
せめて、この赤い髪に王の冠がのせられるその瞬間まで、私はこの少年の姫でありたい。 そして、彼を執事と呼びたい。
償いは、それからするから。
だから、ねぇ、騎士様。あなたも、望んでもいいのじゃないかしら。
こんな私でも望んでしまう。そして、その願いが叶ってしまうというのなら、
騎士様、あなたも望んでいいと思うわ。
それがきっと、あなたを救うから。
「ねぇ、これってタダでご飯が食べれるパーティーってやつ?」
「そうじゃなかったら、わざわざこんな見苦しい物を来てまで参加するか」
ああ、胸糞悪い。なんで世の女たちは、こんなひらっひらな布を腰に巻き付けているだけで満足できるんだ?
「騎士」
「ん?」
「とーっても綺麗だよ」
「………」
黙って睨みつけると、小さな少年はニヒヒッと笑った。物凄く楽しそうなのが余計にいらつく。
「姫様が騎士の髪色に合うようにって、わざわざ金色のドレスを発注してくれたんだよ?腕とかの傷が見えないように、ちゃんと長袖にしてくれてるしさぁ」
金色の布に金色のフリル、金色の刺繍に金色のレース。花を象った髪飾りや靴までもが金色で、唯一外にでている顔の半分は傷だらけ。はたから見れば、さぞかしいかれた女に見えていることだろう。
「まぁ……仮面が、せめてもの救いか」
目元を覆う、これまた金色の仮面に触れながら安堵していると、白い服装に白い仮面をつけた白髪の少年の、やれやれというため息が聴こえてきた。
「もー騎士はぁー。ほんっとに顔を隠したがるよね。恥ずかしがりやさんなんだからぁ」
「………やっぱり、部屋に戻る」
振り向き歩き出した俺に、少年が慌てて裾を引っ張ってきた。
「嫌だ嫌だ嫌だよ!せっかく傷もほとんど治って動けるようになったっていうのに、また部屋に閉じこもっちゃうの?」
「ああ、甲冑に閉じこもってるのが好きなんだよ俺は」
低く呟くと、少年はより強く裾を引っ張ってきた。
「どうせもう色んな人に素顔も性別も知られてるんだから、今日くらいは素直にパーティーを楽しもうよ!」
素直な気持ち、帰りたい。
そう思いながらも、どうしてもと懇願する少年の上目づかいに勝てる訳はなく。
結局、人だらけの大広間に残ることになった。
俺が目を覚ましたのは、あの日から丸二日後のことだった。
目を覚ましたとき、まず体が重いと感じた。
あの世とやらが噂通りのふわふわと浮ついた場所なのだとしたら、ここはまだ現だな。
そう判断し目を開けると、眠りこける童顔少年の寝顔があった。俺の胸に上半身を預け、すやすやと寝息をたてている。
………きっと、その下は包帯だらけだと思うんだけどな。だって、ズキズキというよりジュグジュグとした不気味な感覚が、全身のとくに両腕と胸を覆い尽くしている。この感じは、おそらく火傷だ。しかも、重度の。
だがこれで、胸のバツ印はぐちゃぐちゃになってくれたかもしれない。そうじゃなくてもこのグルグルの包帯だ、少年の目に十字が見えたことはない―――――はずだが。
「だが顔は……ただの切り傷だけか」
いくつか、布が貼られているらしい顔面。薬草の刺激臭が鼻に突き刺さって、くしゃみがでそうだ。
だが、それだけ。火に炙られて皮膚が消滅したわけでも、地面にぶちあたって骨格が破滅したわけでもなさそうだ。
ということは、少年に顔を見られてしまったのか。真正面から、しっかりと。
………両親を殺した犯人の顔とともに、姉の顔も忘れているといいのだが………。
「お気づきになられましたか」
静けさを含んだ声に目をあげると、無表情の黒い少年が部屋の入口に立っていた。首が何かで固定されている為動かせないので、目玉だけをぎょろつかせて、相手を視界に入れる。
「執事よ。爆睡中の我が主に代わって、状況を説明してほしいのだが」
「ここは城の看護室です」
そっけなく答える少年に、しばらく考えた後もう一度聞き返す。
「霊安室ではなく?」
「遺体置場でも墓場でもなく。まだかろうじて生きている者を運んできて、全快にさせる場です」
じゃあ………
「じゃあ、俺はかろうじて生き残ったんだな」
すると少年は、すやすやと寝息をたてている少年に視線を移した。
「姫もあなたも。どちらも……その少年のおかげで生き残れた、となるのかもしれませんね……不本意ですが」
「…………は?」
聞き返すと、無表情の中にかすかに微笑が含まれた。
「その少年の愛が、あなたを救ったんでしょう」
「…………はあ?」
顔をしかめることもままならない以上、声質で表現するしかない。こういう時、主なら持ち前の毒舌を発揮するのだろうが、生憎俺の口は純粋な言葉しか吐き出さない。
「気持ちの悪いことを言うな、お伽話じゃあるまいし。それより現実話を教えてくれ」
これこそ、俺の純粋な気持ちだ。
すると今度は、もっと意味不明なことを言われた。
「まぁいいじゃないですか。あなたは助かったんですから」
「何がいいんだ?おい、はぐらかさずに教えろ」
訳がわからずいら立つ俺に、それでも少年はただ首を振るだけだった。
「私の口からは言えません」
「じゃあ誰の口から聞けばいい?」
「誰も」
なぜだろう。少年の顔が少し、笑っているように見える。
「きっと誰も教えてくれませんよ」
「な、なぁっ?」
思わず起き上がろうとして背中をミチリと喚かせてしまった。思わず「うっ」と唸ってから、大人しく布団に身を押しつける。
そんな俺の姿を眺めながら、少年は「ああ」と思い出したように言った。
「姫様がごめんねありがとうと伝えろと」
「なんで棒読み?それに本人が来て言えよ、そのありきたり過ぎて胸糞悪くなる台詞」
ケッと吐き捨てると、少年は無機質な声のまま説明しだした。
「姫様は只今横になりながら、大臣数十人と、虐待が存在する家庭への救済策を議論中です。ベッドから起き上がれるようになれば、本人もこちらへ伺うかと。それと拙い台詞は、姫様の文章形勢能力の責任ですので悪しからず。私も伝える気をなくしそうになりました」
真顔のままペラペラと語る少年に、思わず笑ってしまった。
「あははは。そんな優しい馬鹿がこの国の王になるなのか。手放しには喜べないな」
すると黒い少年も、フッと表情を和らげた。初めて見る顔だ。
「もっと愚かで弱気な方だったんですよ?でも、その少年が何かを諭してくれたようです」
「こいつ……が?」
まだぐっすり眠り込んでいる童顔に目を向ける。
こんな毒舌少年が諭した?信じられん。
「あと姫様が、戴冠式をかねたパーティーには必ず参加してくださいますように、と」
はっ?
一瞬にして穏やかな気分が消し飛んだ。
「な、そ、そんなの参加するはずないだろ「着る物はこちらで用意しますので、それでは」
それだけ言うと、「では失礼」と残して部屋から出ていってしまった。
………今度姫に会ったら、あいつに接客業をやらせるべきではない、と忠告しようと誓った。
「騎士ぃ、待ってる間の飲み物だって」
少年の間延びした声に、ハッと我に返る。見ると、使用人から二つの硝子コップを受けとった少年が、こちらを不思議そうに見つめていた。
「何ボーッとしてるの?」
「いや、なんでもない……それより、姫様は何をしてるんだ?人を無理やり連れて来させといたくせに遅刻とは……」
文句を言ったあと、とくにすることもない俺はぼんやりとあたりを見渡した。
白を基調とした、清潔感あふれる大広間。滑って転んでしまいそうなほどトゥルトゥルの床から、まるで巨大な花が咲いているように見える丸机、どこかから漂ってくる香ばしい匂いは、そのうちこの部屋にぞくぞくと運ばれてくるのだろう。
「たかだか〝姫〟って肩書が〝王〟になるってだけで……なんて贅沢なことだ」
それでも王族は、それを「当たり前」だと思うのだろう。
昔の俺がそうだった。
「………胸糞悪い」
豪華絢爛な家。白い絨毯。お父様とお母様。
夜になると持ち出される、数々の虐待用具。
最後に見たのは、十字型の焼鏝。
「あっ」
少年の小さな叫び声に、俺は思わずため息をついてしまった。
「ほんとにお前は、子供だな」
「飲み物がぁ……」
橙色の液体が少年の胸元に広がっていく。どうやら、ボーッとしている俺の口に無理やりコップを押しつけようと思ったらしい。だが背を伸ばしたところで体勢を崩し、なんとかたてなおしたもののその際の衝撃で液体が容器の外にとびだし、少年のまっ白な服に飛んでしまったというわけだ。
「ほら、ボタンを外せ。拭いてやるから」
そう言ってスカートの裾を持ち上げると、少年に思い切り顔をしかめられてしまった。
「騎士。騎士はもうちょっと女の子らしくした方がいいよ」
「お前に言われたくはないがな」
偉そうなことを言いだした少年の胸元のボタンを外してやり、橙色に染まっている部分に裾をあてがった。色は落ちないだろうが、水滴はいくらか拭きとれるだろう。
「騎士、起きたぁ」
黒い少年が部屋を出ていってからしばらくして、小さな少年の嬉しそうな声が聴こえてきた。続いて、思い出したように大きな欠伸。
「ふぁぁああぁあぁ………良かった、騎士ずっと寝てるんだもん。暇で暇で仕方なかったよぉ」
そして、いつも通りの笑顔を向けてきた。
「えへへへ。やっぱり騎士は、絶対に死なないねぇ」
へらりと笑ってそう言う少年の顔を、じっくりと見る。
今までと変わったところはない。あれだけの出来事の中、かすり傷一つ負わないとは。
「さすがは我が主」
「にゃはははははっ」
俺の言葉の意味など考えず、機嫌の良さそうに笑う幼い主。
その時ふと、何かがおかしいことに気がついた。
「なぁ、少年……」
「ん?」
あれ?
「俺は、誰と闘って、こんな怪我を負ったんだっけ?」
そうだ、俺は誰かと闘った。そして―――――――
そして?
そうだ、俺はなぜ生きている?
俺は――――落ちたはずだ。誰かと、落ちたはず。
なのに、なぜ―――――――――「まぁいいじゃん」
目をやると、にっこり笑う少年。
「全ては僕の愛の力で解決した、ってことでいいじゃんっ」
「……お前までそんなことを………」
「お前まで?」
「……いや、なんでもない」
………まぁいい、これに関してはまた今度、じっくりと問いただすことにしよう。
とりあえず今は、それよりも確かめなければならないことがある。
「……なぁ、少年」
「ん?」
珍しく真面目な声だと思ったのか、少年は素直に静かになった。
なんと切り出すか少し悩んでから、慎重に口を開く。
「お前の父と母を殺したのは、胸にバツ印の傷がある人間だよな?」
「え?うん、そうだよ?」
「他には、顔も性別もわからないんだよな?」
「うん」
「まだ思い出せないか?」
「うん」
「全然?」
「うん……どうしたの?騎士がそんなわかりきったこと聞くなんて」
俺の顔を見ても、思い出せなかったのか。
「……いや、それならいいんだ」
そう……それでいい。
「それより、お前はどこか怪我してないのか?」
尋ねると、少年は「うーん」と考え込みだした。
「怪我ねぇ………騎士の生々しい傷を見て、胸が痛んだぐらいかなぁ」
「ほぉ、それは良かったな、どす黒い心臓にも痛覚があって」
俺の言葉に、自分の胸を押さえながら笑う少年。
その指の間からは、十字のバツ印が見えていた。
ボタンを開けたとたん露わになった十字のバツ印。
それを極力視界に入れないようにしながら、ただひたすら裾で橙色をこする。
少年の父母を殺したのは、胸に十字の傷がある人間。
十字の、火傷の跡がある人間。
――――見た目ではなんともないけどねぇー。中身はズタズタだよぉ?――――
幼いあの日に両親によってつけられた焼鏝の跡を撫でながら、少年はただ微笑んでいた。その目に、十字は映っていない。
また耳に、あの胸糞悪い記憶が蘇ってきた。
母の囁き。
父の狂った笑い声と連呼する「呪いの子には、悪い子にはバツ印」。
あの子の胸に押し付けられた、真っ赤に燃える音。
肉が焼ける香ばしい音。
あの子の叫び声。
その叫び声に、魔力がこもった瞬間の気流の流動音。
窓ガラスが砕け散る音。
頭が飛び散る音と内蔵のいくつかが潰れる音。
母の言葉。
『もうしんどかったから。終わりたかったから』
泣いていた。
『解放してくれてありがとう』
二人で見た魔術書に載っていた呪文を囁く声。
上級魔法の一つ。誰かに幻覚を見せる魔法。
その綺麗な歌のような呪文を、幼い弟は自分自身に向けて唱えていた。
それら全てが静かになった時、ただ座り込んでいた私の目の前には、窓ガラスの破片を持った弟が立っていた。
「悪い子は、バツ印」
私の胸に差し込まれたガラスの刃。恐怖から払いのけることもできず、ただその赤色を見つめるしかできなかった。
「悪いのは、胸にバツ印の傷がある人間」
そう唱えながら、私の胸に十字を刻み終えた幼子は、正気の戻った目で首を傾げた。
「どうしてそんな辛そうな顔で泣いてるの?」
彼の中で、記憶の改竄が済んだのだと理解できた。
そして、姉ではなく、彼の父と母と〝姉〟を殺した殺人者となった私は、その場から逃げ出した。
「もう逃げない」
「え、何?」
「……いや、こっちの話だ」
もう一度強くごしっとこすってから、やはりとれない橙色に舌をうつ。
「石鹸で洗うしかないな……」
「あら、もう汚しちゃったの?」
突然の聞きなれた声に、俺はなんと挨拶しようかと振り返り……そして、口を閉じた。
赤い………と、黒い…………………。
思わず、目をそらす。
「……あえて、深くは聞かないでおこう」
「別に趣味じゃないわよ?しばらく姫様姫様って騒がれたくなくて変装してるだけだから」
断じて違うから、と否定する姫だが、黒い少年の似合い過ぎる女装がその言葉の威力を半減させている。
それに気づいているのかいないのか、黒い少年……否、少女は、顔を赤面させながら深く俯いた。なるほど、こちらは嫌々やらされているという訳か。……哀れな。
心のそこから同情していると、ふとあることを思い出した。
そうだ、この際だからはっきりさせておこう。
「姫、実はずっと聞きたいことがあったんだが………」
「ごめんなさいね、私、男の人としかお付き合いはしないつもりなの」
「戴冠式の時に話していた伝説のことだ」
相手の言葉を無視して言うと、男装しているようなできていないような少女は「?」という顔をした。
「あんたが言ってた伝説……あれはどういうことだ?」
「どういうこと?」
逆に聴き返されてしまった。
とぼけているのかと少女の顔を見つめてみたが、仮面の隙間から見える目は本当に訳がわかっていないらしい。
だが、あれはどう考えても違うだろう。
――――そして騎士は、剣をもって邪悪な魔物を倒した。その戦いで一生癒えぬ傷を負ってしまったけど、やっと苦しんでいた人々を解放できた。そして騎士は、自由になった民たちを従え、王となり国をつくった………その子孫が、我、王族とされている―――
「騎士が剣をもって邪悪な魔物を倒したっていうのはあってるが……その際傷を負ったのは魔物の方だろう?北の国でも有名だったからな、この伝説は。傷があるのは、悪い奴。傷をつけられたくなくば、良い子になさい。北の国の子供はみな、そう親から脅されて育つ」
すると少女はきょとんと首を傾げたあと、「ああ」と顔をほころばせた。
「北の国ではそう思っている人もいるみたいだけど、本当は違うのよ?子供を脅かして良い子にさせる為に、どこぞの大人が考えた編集版ね。もともとは、私が語ったものになるわ」
………いや。
「……いやいやいや………」
「?どうしたの?」
不思議そうな顔をする少女だったが、それを説明しているどころではない。
そうだ。
あの時、母は囁いていた。
『ある意味を込めて、あなたたにこれを刻むわ』
父に命じられるまま、少年の胸にバツ印の焼鏝を押しあてながら……母は、囁き続けていた。
『いつか………きっと、わかってね』
遠い昔のように感じられる……母と弟と過ごした書庫。そこで見つけた、各国の伝説が書かれた書物。それを見た母は、微笑みながら言った。
『これはね、伝説。でも、真実なのよ』
『信じれば、どんなものでも真実になれるの。ねぇ、あなたは信じる?』
『あなたは、何を信じる?何を知り、何を聴き、何を見て、そのどれを理解し、信じるのかしら』
母が信じていた伝説は…………胸にバツ印がある騎士の伝説?
父が語っていた、魔物の胸にはバツ印があるという伝説とは違う―――――
少年の手によって私の胸に十字が刻まれていく横で、息も耐えかけた母は微笑んでいた。
『これは、あなたの為の歌よ。これを歌い続けて?それが、あなたを救うから』
そうか、やっとわかった。
これは、私に向けられた言葉ではなかったのか。
幼い息子へ向けた、母の唯一の罪滅ぼしだったのか。
永久に続く魔法は無い。少年が唱えた幻覚を見せる魔術も、長い年月が経てば薄れ―――いつしか、本当の記憶は目覚めてしまうだろう。
だから、いつでも、何度でも、唱えていろと。
あの綺麗な歌のような呪文をずっと唱えていろと、母は言い残したのだ。
愛する息子に、自分が犯した罪を、人を殺したという記憶を、思い出してほしくなかったから。
だが、その言葉が少年に届くことはなかった。
――――――――それならば。
「私が歌うよ」
そう言うと、少年はきょとんと首を傾げた。
今まで、あの言葉は私に向けられたものだと思っていた。
少年の狂行をとめることもできず、ましてや逃げ出してしまった私が真実を忘れないように、母が残した鎖だと思っていた。哀れな少年の身を守れ、そうすることが、幼いこの子を守れなかった罪を償う唯一の方法だと、教えてくれたのだと思っていた。
だけど、違ったんだな。
母は最後の最後に、我が子の幸せを望んだのだ。
自分がその子の記憶に残ることよりも、その子の幸せの方を。
「騎士……初めて、自分のこと〝私〟って呼んだね」
感動しながら言う少年に、思わずハッと口を押さえてしまった。
「い、今のはなしだ。俺はこれからも〝俺〟だ」
「えー、絶対〝私〟の方がいいって!ねぇ、執事さん!」
「え、ええっ?」
私の弟。私の主。私の少年。
『消す』よ。
堅い金色で顔と傷を隠してお前の元に戻った時、お前はまた呪文を唱えていたな。
誰かを呪う魔法を。
「自分を呪うよ」
道端で、今にも力尽きそうになりながら、
「誰も僕の名前を呼ばない」
自分が知る、最も残酷な罰を、
「誰も僕の名前を思い出さない」
母と父を殺した記憶を取り戻してしまったお前は、唱えていた。
「名前のない僕は、これからずっと「歌を聴いてくれないか」
その歌は、お前から再び記憶を奪い、そして、微笑みを与えた。
力弱く私の固い手を握ったお前は、微笑んで言ったな。
「僕も、名前、ないんだ」と。
お前の復讐したいという〝心〟。それがダメなら、お前にとっての〝敵〟を。
もし本当の記憶が蘇って、〝敵〟がお前になるようなことになったら、またお前の記憶を『消』そう。もし架空の記憶が蘇って、〝敵〟が私になるようなことになったら、この鼓動を『消』そう。
どんなことをしてでも、『消』してやる。
でも叶うなら、旅に出たい。
いつかお前の中から、怒りがなくなるまで。
復讐心がなくなるまで、もっと叶うなら、永遠に、大地に足跡を刻みたい。
誰かを思う輓歌を歌いたい。
逃げ出した人間の後悔の歌を。
哀れで愚かな、騎士の罪滅ぼしの為の輓歌を。
「ねぇ騎士、僕と踊ろうよ!」
「嫌だ」
即答すると、やわらかそうな頬がぷーっと膨らんだ。
「いいじゃん、恥ずかしくなんかないよ?ほら、姫様が行方不明ってことで演奏も始まってないのにあそこで踊り狂ってる赤と黒に比べたら、どんな踊りでも優雅に見えるって!」
確かに、赤と黒は目を白黒させている貴族たちなど目にも入らない様子で(黒の方は無理やり入れないようにしている感じだが)、適当にくるくると踊り回っている。そろそろ、入口で警備にあたっている青年治安保守総長あたりがやってきそうなくらい刺激的な光景だ。
「だから、ね、踊ろっ?」
「いーやーだ」
ああ、さっさと戻って全身甲冑にもぐりこみたい。足元がスースーして気が落ち着かないったらない。
「ドレスなんか作ってくれるくらいなら、新しい全身甲冑を用意してくれればよかったのに……」
思わずぼやくと、少年に「えええっ」と驚かれてしまった。
「えー、また着るのぉ?今度はドレス着て旅すれば「狼一匹殺せない誰かさんを守る為の鋼だぞ」
「じゃあ、せめてもうちょっと露出度の高い、うわっ」
少年の体を引き寄せ、深くため息をついた。
「一回だけ、だぞ」
「やったぁあああ!」
大声で叫ぶ少年に、まわりの客たちが怪訝な顔で見てきた。
あー、もう、なんでもいいや。
少年が楽しそうに笑っているなら、それでいい。
「じゃあ騎士、今日だけは騎士がお嬢様で、僕が従者ね」
「ほぉ、お前ごときに俺の従者が務まるかな?」
「うん、だから、無理そうな時は手伝ってね」
「なんだそりゃ」
微笑みながら、俺たちはとりあえずくるくると回りだした。
そういえば、いつか、誰かにきかれたな。
――――― なぜあいつに従ってる? ―――――
誰だったか忘れたが、その答えはとても簡単だ。
愛しているからだよ。
たった一人の人間を、愛してる。
消えることのない傷痕を、愛してる。
永遠に。
それは来るかもしれない未来のこと。
赤い髪の王が執事に謝るのも、無表情の付き人が微笑むのも、その次の王の胸にバツ印がないことも、穏やかな青年治安保守総長が治安大臣になることも、やけに子供たちの笑い声が町中に響くようになることも、少年が少女を抱きしめるのも、騎士の歌がやむことも、どこかの物語で語られるかもしれない未来の話。
その時まで続く、物語。
雇われ騎士は『殺す』。
家族を殺された少年は『罰す』。
少年を守る為に愛する両親を殺した姉は『騙す』。
彼にとっての真実を知っている少年は『守る』。
少年の愛さえ知らず、本当の記憶を持つ少女は『消す』。
一人の、自分と同じく名前のない人間を。
生かす為に、愛す為に。
ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございます!!次(きっとあるはず)も、どうぞよろしくお願いします。レイノJ