とある高位聖職者の独り言〜創世記2章18節
静かな、夕時であった。
神の家、すなわち、教会の二階にある司祭執務室。そこを自室代わりにして本を読んでいた部屋の主の所に、弟子がやって来たのも、出て行ったのも、つい先ほどのことであった。
机の上には、皿の上に整然と並ぶさつまいもの色の滲むグラシン紙。巷の噂を聞いた弟子が、自分のために差し入れてくれたスイートポテトのあった跡であった。
それを思い出したかのように一瞥すると、椅子の上の青年は――ローマンカラー姿のこの部屋の主は、眼鏡を人差し指で押し上げる。
スイートポテトの甘い香りが、今でもまだ部屋の中に満ちているかのような錯覚に陥ってしまう。同時に、自分と同じくポテトにご満悦だった弟子との話が思い出された。
青年は、緑のリボンでひとまとめになった髪を、背へとゆるりと流した。
世界は、広すぎる。人はどうして、他の人を求めるのだろう――。
先ほどまでは弟子と二人で、そんな話を、していたのだ。ただし師は、弟子の話を聞くばかりで、ほとんど自分の考えを述べようとはしなかった。
聞くだけなら、いくらでも。ただし、考えるのは自分でなさい。それがこの師の、やり方であるのだから。
師なる青年はふ、と微笑むと、今更ながらに言葉を紡ぐ。
「……実は全て、当たり前のことなんですよ」
この世界が、あまりにも広大過ぎることは。人がどこかに居場所を、他の人を求めるということは。
聖書の言葉を思い出す。
"In principio creavit Deus caelum et terram"――父なる主・永遠の神は、まずはじめに天と地とを造りあげた。人は、その広大すぎる地に満ちることを許された、小さくて非力な土くれにしか過ぎないのだ。神の似姿であるはずの人の、どれほどまでに物足りないことか。もし聖書から人の過ちを取り除くことができたのなら、
やれ、どれほど私達聖職者の仕事が減ることでしょうね。
紅に染まった硝子に視線を流す。苦しいほどの輝きに、青い瞳が静かに細まる。
背もたれに力を任せた時、視界の隅で鋭く瞬く光があった。
右の薬指に、水と同じ色をした、指輪。
枢機卿は左の指先で宝石を覆い隠すと、天井へと意識を逃がした。
甘い、甘い、スイートポテトの季節だ。乾いた音の、風に流れ去る季節。今年、の一掃される季節。吹き抜ける寒さは孤独にも似て、大地を眠りの中へと落とし込んで置き去りにする。甘い、甘いバターの香りの散る季節。鮮やかな落ち葉は、今年の終わりへのはなむけとして、大地に向けて渡されてゆく。
溜息を吐いて、手を、伸ばした。
冷えた紅茶が、息を白く染め上げるかのようであった。ソーサの上にカップを置き、何と無く、皿の上に残っていたスイートポテトの包み紙を拾い上げる。
「温かい紅茶が、ほしいですね」
小さく、小さく折りたたみながら、きゅっとそれをねじりあげる。皿の上に放り投げると、それは包み紙一枚の上に動きを止めた。
その隣には、同じ空の包みがもう一つ。遠慮深気に中身を食べて行った青年は、今頃長い影を引きずって、どこの電車に乗っているというのだろうか。
だから、わかっている。呼んでも彼は、自分の望みには応えてはくれない。
気の利いた青年なのだ。数年前ここに来た頃は、時機になれば代えの紅茶と菓子とを運んできてくれた彼。その心はきっと、今でも変わらない。心は変わらないが、
「ねぇ――、やっぱり神様は、気まぐれなお方でいらっしゃるのでしょうかねえ」
見つけてしまったがゆえに、いつもここには、いられなくなってしまった。彼には今、別の居場所がある。
ねえ、師匠。どうして人は、人を好きになるんでしょうね……。
食べかけのポテトを片手に俯いた弟子の言葉の真意を、師はよく知っていた。弟子もカトリックの聖職者である以上、誰か一人の女性を愛することは許されていないのだ。それでも彼は、今やその禁に触れんばかりのところまで、一人の女性に強い想いを抱いてしまっていた。
しかし師は、弟子を責めようとはしなかった。
私だって、よく、わかっているつもりですよ。
あまりにも広大な世界。創造のはじめが広大すぎたがゆえに、人の背負う孤独も大きくなってしまった。
二つある人の創造物語のうち、一方はこのようにして語っている。神が人の孤独に気がついた時、神はこう憐れみを示したのだ。
"Dixit quoque Dominus Deus non est bonum esse hominem solum faciamus ei adiutorium similem sui"――主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」
そうして神は、造られたもう一人の人のうちに、神を見出せるようにした。人を愛することは、神を愛することに等しい。旧約時代の後に神の子が残した福音は、人は人を愛することを通してでしか神を愛することはできないと教えているのだから。
神は広大な世界の中に、人の居場所を人を造ることによって造り出した。人は神とは違い、地の全てを見回すことはできない。だから、自分の知っている場所に自分の居場所が無い限り、孤独に取り残されることになってしまう。
孤独は、恐ろしい。神が救いの手を差し伸べなくてはならないほど、人の心を、引きずり落としてゆく。神はそれをわかっていた。そんな神の理解があったからこそ、今ここに自分がいて、夜になれば弟子もここへと戻ってくるのだろう。家族、という居場所に。
帰るべき場所が、必要だ。人にとっては、手に届く場所に。自分のいるべき場所が、必要なのだ。
それを痛感した神は、
……人を、甘やかしたのかも知れませんよ。
人は神のみによって生きる。そう言って、人の他に人など造らなければよかったのだ。そうすれば、或いは――、
「私もこぉんなに、苦労しなくてすみましたのに」
右の手を、夕日に翳す。
澄んだ水と同じ色が、空の色に染められる。
高位聖職者の身分を示す指輪は、一生をただ神のためだけに捧げることを誓った証でもある。例え世界の中に孤独となった時にも、見えない神のみを愛することを誓った証だ。他の誰からも束縛されない、自由の証でもある。
だから、自分の居場所は、この世界そのものなのだ。取りとめもなく、掴み所も無い世界そのもの。世界は無口だ。どんなに愛を囁いたとしても、風の冷たさは変わりはしないのだから。
――あの子は、あの心優しい彼女と一緒に、今日はどこに行くのだろう。
「温かい紅茶が、欲しいんですけれどもねえ」
もう数時間もすれば、土産に頼んでおいたアイスクリームをもって帰ってくるのであろう彼。食卓を囲めば、笑顔で今日の幸福を語るに違いない。
けれどいつかきっと、彼の帰るべき場所はここではなくなってしまう。近い将来、彼は彼の見つけた居場所に、ただいま、の言葉を微笑ませるのであろう。ここではなく、彼のために用意された、たった一つの別の居場所に。
まあ、私は一人の方が、気楽でいいのですけれどもね。
呟く代わりに、冷たい紅茶を飲み干した。空のカップを置くと、膝の上で両手を組む。
人は不思議な生き物だ、と、考えたことがあった。どうして人は自由を求めながら、誰かに縛られることを望むのでしょう、と。どうして束縛の中に、幸福を見出すことができるのでしょうか、と。
だが、その答えはあの分厚い書物のすぐの部分に記されていた。よく目にする言葉であったのにも関わらず、当たり前だと思い込み、読み流していた部分に明記されていた。
人が独りでいるのは、良くない。
彼に合う、助ける者を造ろう。
実に、簡潔な理由であった。人の弱さに対して、神がこうして助けを与えた、ということでしかなかったのだ。
だから、人は居場所を求める。たとえそれが束縛になり得るとしても、自由と引き換えてでも、自由にその束縛を求めようとする。孤独よりも束縛を選び、どうあってでも他の人を求めようとする。そこに、居場所を求めようとする。
ただ――、
ただ、私の場合は。
自由と引き換えにしてまで求めるべきものなど、神の他には、何も知らないのですよ。
なんて、
「いいえ、それは嘘になりますかね」
もう自分は、既に知ってしまっているに違いない。ここ、にいることが、自分にとってはどれほどの幸福であることか。
それでも、わかっている。決心はついている。もし明日にでも何かがあり、この場所を捨てなければならなくなったとしたら。自分はそこに神を見出す限り、全てを残してここを去ることができることは。
間違いなく、誰にも縛られず、自由な自分。神にのみ、という言葉は、最大の自由、という言葉にも等しいような気がしてならない。
ただ。
「やれ、」
……誰にも話さない本音がある。神にすら打ち明けられない、本音がある。
時折考えることがあった。
「やっぱり自分で淹れに行くしか、ないですよね」
やおら立ち上がり、ソーサごとカップを持ち上げる。窓に背を向け、部屋の戸に手をかけた。
ふと、戸を閉める瞬間に、机の上にあったスイートポテトの包み紙が気にかかった。皿の上に甘いポテトがあった頃、ほんの少しの間だけ、あの子の笑顔もここにあった。
夕暮れ色が、闇を帯びる。
枢機卿が、息を吐く。
静けさをしまいこんでおくかのようにして、青年は執務室の戸を閉ざした。
――誰にも言えない、自分にすら誤魔化している本音がある。ただ、うかつにもこぼし落としてしまった本音が、あの部屋の沈黙の中に埋もれている。
果たしてそれは、本当に幸せなことなのでしょうかねえ。
去り際にあの子を、悩ませた言葉。
けれどそう、本当は。あれは、君に向けた言葉では、ありませんでしてねぇ。……、