俺が空を仰ぐ理由[壱]
一度だけ、俺が子供の頃に病気を拗らせて町の病院を訪れた事がある。
村から出るなと言う掟があったものの、病気となれば話は変わってくる。俺の他にも何人かこの時期には同じ病気で倒れたらしい。流行病と言う奴だ。
「せ、先生っ! 妻と竜司は――」
父だけはこの病に倒れず、俺と母親に付きっきりでいた。
「大丈夫です、ここは私に任せてください」
そんな父の心配をよそに、俺は命に関わるほどの病だったのにも関わらず、町に出るのが楽しみでならなかった。村の掟で外界に出た事がなかったのもあり、町がどんなものか興味があったからだ。
町で大半の時間を過ごしたのは丘の上にある小さな病院。病室で嗅いだ木の匂いは、今でもはっきりと覚えている。
最初は熱で余裕もなかったが、次第に病室から町をゆっくり見渡す事もできるようになった。
「うむ、大分よくなったようだね」
ひげを生やした初老の医者が、俺と母親のベッドの間に入る。
「竜司くんは、もうすぐ退院できるよ。退屈だろうけど、もう少し我慢してね」
優しく声をかけてくれるその医者を見る度、俺の視線はいつも背中に向いていた。
俺の脳裏にしっかりと焼き付いている大きな背中に『それ』はあった。
焼けた肌の色よりも濃く、茶色く荒々しい……俺にはない『それ』。
横たわったままの母は、あれは『翼』なのだと教えてくれた。
「先生」
「ん。どうしたんだい、竜司君」
好奇心の強かった俺は、その医者が来る度に自分から話しかけていた。
「うん。ねぇ、先生には、なんで『翼』があるの?」
「はは、これはそんなに珍しいかい」
「村の人達には、翼はないよ」
「あ、そうか……。ねぇ、竜司君」
「なに?」
「僕が翼を持っている事は、村の人には内緒だよ?」
「……? なんで?」
「ここでは言えるけど、あっちだと口にしてはいけないからさ」
「?」
俺はその時、医者がどうしこんな事を言っているのかは分からなかった。
「さ、次はお母さんの方を見るね」
「うん」
数日後、母の容態が急変した。
「お母さん、何処に行くの?」
「竜司、大丈夫。すぐに戻ってくるから」
あれが、母が俺についた最初で最後の嘘だった。
◆
「ねぇ先生、お母さんはどこにいったの?」
母が戻らないまま数日が過ぎた。
不安を抑えきれなかった俺は、堪らず医者にそんな質問を投げかけていた。
「空、かな」
「お空? 先生みたいな翼があれば、お母さんに会えるの?」
「もっともっと高い所だから、おじさんでも届かないな」
「……そっか」
「ごめんね」
本当の事を言われても、子供だった俺にはわからなかっただろう。
「どうやったら、お母さんに会えるかな」
「まだ会えないけど……」
「いいかい竜司くん。人はみんな、見えない翼を持っているんだ」
医者は残念がる俺に対し、そんな事を言い出した。
「見えない翼?」
「ああ」
「僕にもある? 飛べるの?」
「その翼は、一度だけ飛ぶ事を許されているんだ」
「一回だけなの?」
「そうだよ。そして、悪い事をしていると、その翼は飛べなくなってしまうんだ」
「いい子にしてれば、その翼でお母さんに会える?」
「ああ。きっと会えるよ」
「じゃあ、僕いい子にしてる」
◆
退院後、母のいない寂しさを埋めるため、俺はとある事に没頭した。
工作だ。
手先が器用だった俺は、町で見た有翼人に似せて、玩具を手作りしたのだ。
枝を折って、紙を貼り付ける。
それを繰り返して出来た『カタチ』を……。
「えいっ!」
飛ばす。
落下。
曲がりくねった気味の悪い様の模型が、さらに気味の悪い異様な形に変貌した。
「うー……」
同じ形に作ったつもりでも、なかなかそれは思う動きをしてくれなかった。
変に曲がっていたりしたのが原因だろう。
何度か繰り返す内、家にあった紐を持ち出したそれに括り付けた。
「えいっ!」
わずか四秒の飛行だったが、少年だった俺には心くすぐる光景だった。
木の枝と紙と紐で作られた『カタチ』は、わずか四秒の飛行を終えて地に落ちた。
「飛んだ!」
離れた場所に落ちたそれを拾いに行く少ない時間、俺は歓喜に踊った。
いつか自分もこんな風に空を飛んでみたい。
でも、俺には自由に飛べる翼がないことを知っている。
でも、玩具では四秒しか飛べない。
でも、俺は飛びたかった。母に会いたいと言う一心で。
羽ばたきの音が背後で二つ。
俺のはしゃぎように驚いて鳥が飛んでいったらしい。
「おー」
俺は空を仰ぐと、本物の鳥は綺麗に飛び立つ瞬間だった。
そして俺はこの時見た空の色を、生涯忘れる事はないだろう。