21.雨上がり
あの誘拐事件から、数週間が経った。
一番気にしていた顔の痣はほとんど消え去り、まだ眠れない夜もあるけれど、飛び起きる頻度は減ってきている。
私は、結婚式の準備と身辺警護も兼ねて、王宮で生活することになった。
もともと予定されていた結婚式は、誘拐事件を受けて来月へと繰り上げられた。
嫁入り道具を整えたり、ドレスの採寸をしたり、招待客の顔と名前を覚えたり。
急な日程変更だったせいで、毎日が目の回るような忙しさだった。
けれどようやくそれらもひと段落し、ここ数日は比較的ゆっくりと過ごせている。
ばらばら、と雨粒が朝から窓を叩いていた。
そんな灰色の天気だから、殿下の部屋で好きなだけ刺繍に没頭できる……とはいえこれも、結婚式で使う殿下の礼装の袖口に入れる刺繍ではあるのだけれど。
裏から針を刺し、ゆっくりと引き抜く。下書きの印と、今さっき刺した隣の糸とのバランスを見ながら、また針先を沈める。
金糸は普通の刺繍糸とは違い、少しだけ扱いづらい。けれどその分、布の上に残る輝きは美しい……。
……こうして手を動かしていると、あの夜のことが少し遠く感じられるようだった。
あの時、一緒に攫われた御者も無事だったと知った時には、胸を撫で下ろした。
しかし目隠しをされ、いつ殺されるか分からない状況に置かれた恐怖は――簡単には消えない。
その結果、以前のように御者として馬車を操ることは難しくなったけれど、今も変わらずヴァレンフォード家に仕え、厩舎の管理を任されている。
私と御者を誘拐した人たち、その後ろで糸を引いていた貴族が誰だったのか、私は知らない。
けれど殿下と、殿下のお兄様であるアドリアン殿下が口をそろえて言うには、「もう終わった」とのこと。
本当にひと段落ついたらしく、私が王宮で過ごすようになってから毒殺や暗殺騒ぎが起こることもない。
けれど殿下は、相変わらず部屋で過ごす日の方が多かった。
……外は連日の雨だから、仕方ないのは分かる。
二人で同じ部屋にいながら、それぞれ黙々と作業して。
ときおり紙をめくる音や針を進める音だけが響く。
そんな時間も好きなのだけれど。
けれども殿下は、一体何日籠ったままなのだろう?
屋外に出ずとも、王宮内を一周させた方が良いのでは。
座りっぱなしは晩年腰に来る、とお父様も言っていたし……。
と、その時。窓を叩いていた雨音がぴたりと止んだ。
刺繍枠から顔を上げると、灰色の雨雲の隙間から光の筋が幾本も伸びてきて――みるみるうちに、洗いたての青空が広がっていった。
殿下の瞳のような色に、心がわっと華やぐ。
黒木の裁縫箱に諸々をしまい込み、執務机で眉間を揉んでいる殿下を見る。
眉間を揉んでいるということは、お仕事に詰まっている証。
「殿下」
「なんだ」
「そろそろ部屋から出ませんか?」
彼は後ろの窓を見て、そこで晴れてきたことに初めて気が付いたようだった。
すでに日傘を持って準備万端な私に、ため息一つ。
「……ああ」
私が差し出した手を、殿下は優しく掬い取った。
西庭はきっと、残った雨粒が輝くような美しさを放っているだろう。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
引きこもり王子と、その婚約者のお話でした。
二人のその後の日々も、きっと穏やかに続いていくのだと思います。
読んでくださった皆様に、少しでも楽しんでいただけていたら幸いです。
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ありがとうございました。




