19.ホットミルク
「オラッ!! 起きろッ!!」
「――~~ッ゛!!」
鼓膜を揺らす爆音に、目を開ける。
ズキン、と額が痛んだ。
薄暗い目の前には小さな机と、書類。
刹那でも温かい夢を見ていたから、その落差が背に重くのしかかる。
「ッ!!」
目を閉じただけでも怒鳴られ、殴られ、署名しろと迫られる。
いったい何度目になるだろう。もうずっと、何もかもが限界なのに……。
「また痛い目にあいたいかァッ! ああ゛ッ⁈」
「ッ、……ッ゛」
私は首を必死に振りながら、痛いのは嫌だ。と思う。
思うけれど――。
「さぁ、ペンを持って。ここにご自分の名前を書くだけです」
「お断り、です……ッむ――無駄ですわ。こんな、」
たとえもう一度殴られたって――水に沈められたって署名はできない。
目の前の二人を見ながらもう一度首を振る。
「書きません、お断りです、」
「アア゛ッ⁈」
吠えるように暴力男が前のめりになり、それを署名役が抑えた。
「まぁまぁ、静まりなさい――ヴァレンフォード嬢も、可哀想な人なんですから」
「――え、」
どういう意味。そう思って署名役を見る。
溶けかけたその顔面には、何の感情も読み取れない穴が三つ開いていた。
「だってそうでしょう?」
穴の奥から、バラバラと婚約破棄通知が零れ落ちてくる。
何通も。
何通も。
まるで「お前なんかいらない」を証明するかのように。
「――ッ゛!!」
跳ね起きる。
紺色の夜。
病室。
地下室ではない。
起きた。夢だ。あれは夢。
「はッ、はッ、はぁぁ、……、」
胸を抑える。ドッドッと心臓が飛び出さんばかりに跳ねている。
怖かった、もう二度と思い出したくないのに、眠るたびに思い出してしまう。
包帯に巻かれたままのおでこがズキズキと痛んだ。
「大丈夫か」
隣には殿下がいた。夜中なのにランプの明かりだけで、まだ仕事を続けている。
「はい……」
深呼吸を繰り返す。心臓が痛い。
瞬きをすると、汗が顎先から滴り落ちる。
窓の奥の夜は深い。殿下はこんな時間まで……。
「しかし――殿下こそ……お休みに……」
「俺も、眠れない」
カツン、とペンを置く音がした。ため息が聞こえると、彼の強張っていた肩から力が抜ける。
「……あの時、人を斬ったから、」
「えっ」
「それを思い出してしまう」
「そ――そんなことが……も、申し訳、」
「違う。謝らなくていい」
殿下は立ちあがり、ゆっくりとベッドに腰かけた。
「一緒なだけだ。ただ、〝眠れない〟ことが」
すぐ近くにくる顔に少し緊張するけれど、やっぱり隈がひどい。
私の硬く握りしめた手の上から、殿下の手が重なる。
「何か、温かいものを飲もう。その……なにがいい?」
「ぇ、あ、」
「冷たいもののほうがいいか?」
「い――いえ、ええと、ではホットミルクを」
殿下が病室の扉から顔だけ出して、控えていた者に指示を出す。
ややあって、湯気を立てるホットミルクが運ばれてきた。
口を付けると、蜂蜜が入っているみたいでしっかりと甘みがある。
強張っていた体の中が綻んでいく。
「はぁ……おいしいです」
殿下もミルクに口を付けた。
こくりと喉が動く。やはりその様子は、見ているだけで安心する。
ミルクそのものより、よほど安眠効果がありそうだった。
「……こういう時、何を飲ませればいいのか分からない」
「眠れないときは、カモミールなどが有名ですね」
「それは紅茶の種類か?」
「いえ……薬草茶……ハーブティーでしょうか」
「そうか……」
「落ち着いたら、一緒に覚えませんか? 奥深いですわよ、産地の標高や、新しい香りの茶葉など」
「ああ」
「まぁ私は――顔も……いつまでこんな状態が続くか分かりませんけれど……」
「顔は……打撲なんだろう。綺麗に治ると、宮廷医官に聞いた」
「はい……」
もちろんそれは私も聞いている。
けれどやはり……怖い。
鏡を見る勇気は、まだなかった。
「それに悪夢も、こうやって、食べたり飲んだりすれば、いつか治る」
殿下は私の手の中から空になったカップを下げる。
「君が教えてくれたことだ」
「っ、」
覚えていてくださった。
嬉しくて、同時に恥ずかしい。
「……そうですね、いつか……」
「ほら、横になれ。ここにいるから」
寝かせようと軽く肩を押す殿下に従いつつ、けれど「ここにいる」という言葉に申し訳なさを感じた。
殿下こそ、休息が必要なのに。
「あ、えと、眠くなってきましたわ。眠れると思います。ですから殿下も、」
それ以上何も言うなと言わんばかりに、また手が重なった。
ミルクを飲んでもなお冷えがちな指先に体温が伝わる。
「君が眠った後に、俺も寝る。――必ず」
「ですが……、……」
私はもっと、色々と言いたいことがあったのに……。
重なった手が温かくて、瞼はあっさり重くなっていく……。
「……」
その夜は。
一度も悪夢を見なかった。




