大艦隊現る
中津島は千島列島の得撫島に似た形をしており、島の東には唯一船が通行できる海路があった。島の北西と北東には天然の良港たる入り江があった。北西側の入り江は水深が深く、形が複雑であることから軍港として、北東の入り江は水深が浅く大きいこと、そして海路が近いことから商港として開発が進められていた。商港は比較的早く開発が終わっていたが、軍港もこの年にはいって開発が終わっていた。
商港はほぼ半月状の形をしており、防波堤を設置し、桟橋を設置するだけで済んでいたが、軍港側は幅五〇〇m、長さ五〇〇mの海路を抜けると逆V字型に分かれており、西側は幅五km、長さ六kmの鍵穴型の入り江に、東側は幅七km、長さ八kmの同様に鍵穴型の入り江になっていた。西側は水深が三○mほど、東側は二三mほどであった。ちなみに、商港は一八mから二五mであった。
その軍港、西側には戦艦や空母、重巡洋艦が、東側には軽巡洋艦や駆逐艦、タンカーなどが停泊していた。タンカーなど何隻かは沖泊であったが、それ以外は桟橋につながれていた。多少は無理をしているように思えるが、それでも係留索で繋がれていた。総数一五五隻に及ぶ艦艇である。
現れたのは史実の一九四二年にミッドウェー攻略に向かった部隊であった。途中、異常気象に巻き込まれ、多くの艦艇が大なり小なりの損傷を受けていた。特に航空機の損傷がひどく、作戦実行不可能と判断し、帰還を決意したものであった。
現れたのは次のような艦隊である。
主力部隊:
第一戦隊戦艦『大和』『長門』『陸奥』
空母『鳳翔』
駆逐艦『夕風』
第三水雷戦隊軽巡『川内』、駆逐艦『吹雪』『白雪』『叢雲』『初雪』『磯波』『浦波』『敷波』『綾波』
水上機母艦『千代田』『日進』
給油艦二、
警戒部隊:
第二戦隊戦艦『日向』『伊勢』『扶桑』『山城』
第九戦隊軽巡『北上』『大井』
第二○駆逐隊駆逐艦『朝霧』『夕霧』『白雲』『天霧』
第二四駆逐隊駆逐艦『海風』『山風』『江風』『涼風』
第二七駆逐隊駆逐艦『有明』『夕暮』『時雨』『白露』
給油艦二、
機動部隊:
第一航空戦隊空母『赤城』『加賀』
第二航空戦隊空母『飛龍』『蒼龍』
第三戦隊第二小隊戦艦『榛名』『霧島』
第八戦隊重巡『利根』『筑摩』
第一〇水雷戦隊軽巡『長良』、駆逐艦『野分』『嵐』『萩風』『舞風』『風雲』『夕雲』『巻雲』『浦風』『磯風』『谷風』『浜風』『秋雲』
給油艦五
MI攻略主隊:
第三戦隊第一小隊戦艦『金剛』『比叡』
空母『瑞鳳』
駆逐艦『三日月』
第四戦隊第一小隊重巡『愛宕』『鳥海』
第五戦隊重巡『妙高』『羽黒』
第四水雷戦隊軽巡『由良』、駆逐艦『村雨』『五月雨』『春雨』『夕立』『朝雲』『峯雲』『夏雲』
工作艦『明石』
給油艦四
MI攻略支援隊:
第七戦隊重巡『熊野』『鈴谷』『三隈』『最上』
第八駆逐隊駆逐艦『朝潮』『荒潮』
給油艦一、
MI攻略隊護衛隊:
第二水雷戦隊軽巡『神通』、駆逐艦『黒潮』『親潮』『雪風』『天津風』『時津風』『初風』『不知火』『霞』『陽炎』『霰』
水上機母艦『千歳』
駆逐艦『早潮』
輸送船一五
給油艦二
掃海艇一〇他
潜水艦部隊:
第六艦隊軽巡『香取』
潜水艦一五
母艦二
正しく、ミッドウェー攻略部隊であった。六○数年前、太平洋戦争の転換点ともいわれたあの戦いに出向いた部隊であったのだ。
この艦隊は同軍港に入港して二週間は艦上での生活を余儀なくされていた。総数八万人及ぶ将兵を収容するにはそれなりの施設が必要である。しかし、軍港施設が完成したとはいえ、それはあくまでも港湾施設のみであった。いくつか設備が完成している部署もあったが、それは宿泊施設ではなかった。そこで登場したのが、先年の統一戦争のおりに使用された組み立て式住宅であった。統一戦争時、占領され、逃げ出してきた住民、捕虜となった将兵用のための仮設住宅であった。もっとも、多くは捕虜用に作られたものであり、一部将官用のための住民用住宅であった。
四階建てで一室四人の兵士用と同じく四階建てで個室の仕官用のものである。兵士用は広さは八畳、二段ベッドが二つ、士官用は広さ四畳半でベッドが一つ、いわゆる寝るためだけの部屋であった。洗面もトイレも共用であり、浴場は各建物に付き一箇所用意されていた。食堂についての当初の計画では民間に委託する予定であったが、各艦艇の厨房兵がいたことから設備と材料を用意して、彼らに任せることとした。彼ら将兵は基礎教育の期間、半年間をここで過ごすこととなったのであるが、その間、艦名の付いた食堂を運営し、月に一度は乗員以外に開放し、人気を博していたといわれる。
ではあったが、聨合艦隊司令部と海軍本部との対談は混乱を極めていたといえるだろう。艦隊側の要求は、兵員をそのまま軍務に付かせたいとしており、海軍本部側は国防予算の都合上、艦艇や将兵をそのまま軍務につかせることは不可能だとしていたのである。さらに、もっと大きい問題が持ち上がっていた。それは出現した艦艇である。はっきりいって、戦艦や空母、重巡洋艦はともかくとして、駆逐艦の一部や潜水艦、その他の艦艇はこの世界では運用が難しいとされたのである。
第二次世界大戦当時ではともかくとして、現在ではレーダーや秘匿通信機器の装備は最低銀必要とされていたが、それすら装備されていないのでは軍用艦としての運用は不可能であった。かといって、改装するにもそれなりの費用がかかるわけで、海軍本部側としては、改装するよりも新造のほうが安くなるという結果も出ていたのである。
さらに混乱は続くこととなった。ミッドウェー攻略部隊が中津島に錨を下ろして一週間後、今度は由古丹州に同時期に行われたアリューシャン攻略作戦に参加した艦隊が出現したのである。こちらも異常気象に巻き込まれ、作戦続行が不可能となったための帰還途上であった。
北方部隊:重巡『那智』
駆逐艦『電』『雷』
支援船六、
第二機動部隊:第四航空戦隊空母『龍驤』『隼鷹』
第四戦隊第二小隊重巡『摩耶』『高雄』
第七駆逐隊駆逐艦『曙』『潮』『漣』
アッツ攻略部隊:軽巡『阿武隈』
駆逐艦『若葉』『子の日』『初春』『初霜』
支援船2
キスカ攻略部隊:軽巡『木曾』『多摩』
駆逐艦『響』『暁』『帆風』
支援船七
第一潜水戦隊:潜水艦七
この艦隊はまさしくミッドウェー攻略作戦において囮作戦として実施されたアリューシャン攻略作戦の参加部隊であった。これも大井保大尉が担当することとなり、中津島から輸送機で現地に向かうこととなった。ただし、聨合艦隊司令部から黒島先任参謀と渡辺戦務参謀が同道したため、さしたる混乱もなく、艦隊は中津島に向かうこととなった。
結果として、彼らも中津島で合流、今後に備えることとなった。しかし、由古丹州では情報統制が徹底されず、一般国民に知られることとなり、それからが大変な混乱であった。現代人にしてみれば、歴史上の人物が多数現れた事が話題をさらうことになり、メディアが多数中津島に押し寄せることとなったのである。
いずれにしても、兵に対する一般教育、主に社会教育と地理、電子機器の取り扱い全般などが行われることとなった。その後は専化教育に進むこととなる。専化教育には近代兵器についてのものが多く、過去に存在した水雷、砲術といった項目分類はなされてはいなかった。あえていうなら、戦略、戦術、航空、潜水の課程があったといえるだろう。
海軍本部が、というよりは大井大尉による提案、当時の将兵には成されてはいなかった適性検査が実施され、本人に知らされることとなった。むろん、本人の希望が優先されるが、特に希望がない場合は適性検査の結果に準じて専化教育に進むこととされた。これは特に士官に対して行われ、本人の今後の参考とされた。
もっとも、艦艇の件は既にいくつか実施されていたといえる。むろん、全艦艇に実施されるのはもっと後のことになるが、詳細な調査がここ中津島で実施されており、今後の参考にされている。この調査には、半年が費やされている。もっとも、この後発生した事件において一挙に解決することとなった。結果的には、軽快艦艇の多くは売却あるいは供与、それ以外は解体後再生資材化され、新造艦艇に利用されることとなる。幸運にも残された艦の多くは記念艦として保存されることとなった。
移転してきた艦艇、将兵はたぶん史実と合っている確率は高いと思いますが、間違えている可能性もあります。そこのところはおおめに見てやってください。ご都合主義ともいわれそうですが、技術格差でそうなると思われます。全部で六〇話くらいの予定です。