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戦後の東南アジア

 世界大戦とそれに続く第三次南北戦争終結後の東南アジアでは、一部を除いて安定しており、次々と独立を果たしていたといえた。しかも、それなりの国力を持っての独立であった。それが表れているのが、独立の翌年には東南アジア条約機構の成立であったといえる。


 かっては英国の植民地であった地域は、史実とは異なり、シンガポール、マレーシア、ビルマ、ブルネイ、マラヤとして独立していた。英国は史実と同じように、ひとつの国家としての独立をもくろんでいたようであるが、民族が異なること、言語が異なることから、皇国は再考するよう忠告していた。なぜなら、一国家として発足して問題が発生し、マラッカ海峡が危険となっては皇国が困るからである。英国としても問題が発生すれば、旧宗主国として介入しなければならず、それが英国にとって負担となる、そういうことで再調査の上、先に挙げた五ヶ国として独立を認めることとなったのである。


 シンガポールは史実と同じく、水資源の確保に問題があるものの史実と同じように発展することとなる。最大の問題である水資源においては、マレーシアから輸入することとなるが、それ以外にも、東ニューギニアなどから海路を通じての輸入、皇国からの海水淡水化装置の購入などで解決することとなった。少なくとも、マレーシアとの関係は史実ほど悪くなかったからである。これは最初から分離独立したことにも原因があったといえた。


 ブルネイは史実と同じく、ボルネオ島にあって周囲はマラヤ国に囲まれることとなった。しかし、国内的には特に問題もなく成立していた。マラヤとの関係は若干の問題が発生するも、この時点では大きいものではなかった。史実同様に石油資源が外貨の獲得の手段であった。


 マラヤは史実のマレーシアのボルネオ島部分であり、マレーシアとは別の国として興ることとなった。ブルネイとの間には、統合という問題があるものの、この時点ではそれほど大きいものではなかった。将来的には判らないが独立の時点では問題がないとされた。


 ビルマは史実とは異なり、王国として独立を果たすこととなった。しかし、直接王政ではなく、英国に準じた立憲君主制議会国家としてであった。そのため、これ以降も大きな問題が発生することはなく、王国として継続することとなる。


 むろん、旧英国領の独立に関しては、表立って皇国は関与していないが、裏でかなりの関与をしていた。ある点では英国の承認の下、ある点では英国に知られることなく行っている。結局のところ、旧英国領は海洋に、というよりもマラッカ海峡に面していることから、シーレーンの安全性確保のためには、これら沿岸部の地域の安定が必要不可欠であったからに他ならない。つまり、沿岸部が政情的にも経済的にも安定していれば、海賊などが発生することがなく、航路の安全性が高まるからである。


 旧フランス領たる仏領インドシナは、ベトナム、ラオス、カンボジアの三国として独立することとなった。このフランス領は史実となんら変わることはないが、政情的には大きく異なる。はるかに安定していたのである。その原因は植民地軍の編成にまで遡るが、独立派武装集団の多くが意図的に兵士として徴兵され、多くが欧州戦線で倒れていたことにある。


 もっとも大きく異なることとなったのが、カンボジアである。王国として成立し、ビルマに習った立憲君主制議会国家となっていたのである。また、この世界ではソ連の影響をそれほど受けてはおらず、クメールルージュが排他的に国民から扱われたことで、史実のような問題が発生することはなかったのである。


 それはラオスにもいえた。結局のところ、直接王政が問題であって、それを行い得ないことで、つまり、議会が力を持つことで多くの王政廃止派が納得、内政が安定することとなったのである。もちろん、これら二国にも陰となり、陽となって皇国が関与していたといえる。


 ベトナムにおいても、史実とは異なる形であった。王国として独立し、やはり立憲君主制議会国家として成立していた。また、ホーチミンはそれほど共産主義に染まっていなかったこともあり、独立当時はそれほど問題とはならなかったが、後に、直接王政に移行するという時期があり、内戦が勃発、米ソが関与したのであるが、皇国の強い介入もあって米ソは手を引くこととなった。さらに、周辺国の政策もあって、議会制民主国家へと帰趨することになり、内戦は終結したのである。結局、選挙によって選ばれたホーチミンは憲法の制定により、直接王政を禁じることで満足したといえる。


 東南アジアでもっとも問題となったのが、蘭領東インドであった。史実ではインドネシアとして独立するが、この世界ではそうではなかった。特にスマトラ島北西部、ティモール島、ニューギニア島西部が半ば独立状態にあるといえた。オランダ軍も近寄らないためだった。これら地域にオランダ軍が入らなければ、きわめて安定していたからである。国連が機能し始めると、独立紛争をそこに持ち込んだのである。


 スマトラ島北西部は以前から独立心が強く、オランダともっとも問題が起きていた地域であった。最終的にはアチェ共和国として独立することとなった。オランダが匙を投げたという形であった。


 ティモール島は原因が不明ではあるが、一説によれば、皇国軍の駐留による影響が強かったといわれている。史実とは異なり、東西に分割されることなく、ひとつの国として興ることとなった。さらにいえば、この地域では他とは異なる発展を遂げることとなる。それはオーストラリアの影響を強く受けていたからである。


 ニューギニア島西部がオランダに反発した理由は明確ではないが、ニューギニア島東部の影響を強く受けたからであろうと思われている。ニューギニア島を東西に分割したのは島民の意思ではなく、宗主国たる列強の意思であったが、島民にとって国境など関係なく、交流があったことから、東部での情報が西部にも入っていたと考えられたからである。結局、ニューギニア島西部は西イリアンとして独立することとなった。当然、皇国の関与が疑われたが、表向きは否定している。


 その他の地域は史実と同じく、インドネシアとして独立することとなった。しかし、ニューギニア島西部の発展振りが影響を与えたのか、各地で紛争が多発することとなる。ボルネオ島東部のマレヤ共和国が後に独立を果たすこととなった。これは同じ島の西部のマラヤ国の影響を強く受けたものと思われた。それでも、マラッカ海峡、スンダ海峡周辺は安定していたため、皇国にとってのシーレーンの安定には影響がなかったといわれる。


 フィリピンは史実と同じく、アメリカから独立していた。若干の差異はあるものの、ほぼ史実と同じ道を進むこととなった。史実以上に大規模な米軍基地が存在するが、これはグアム島が米国の管理下にないこと、沖縄に基地がないための影響であろうと思われた。


 いずれにしても、史実とは若干異なるものの東南アジアは独立を果たしていた。さらにいえば、旧英領および旧フランス領は史実以上の安定を見せていたといえる。


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