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戦後の東アジア

 移転暦一三年の第二次日ソ戦争終結後、東アジアは一部地域を除いて安定していたといってよかった。一部地域とは、中華中央とソ露国境である。中華中央では未だ世界には認められていないが、中華連邦共和国と中華人民共和国との内戦(両国とも内戦ではなく、戦争としていたが、世界で認められていないため、皇国は公式には内戦としていた)が再び激化する兆しを見せていた。日ソ戦争で敗北したソ連は経済の建て直しのため、日ソ戦で使用していた武器弾薬、製造していた武器弾薬を売却する必要があり、その大口取引先が中華人民共和国であった。


 それまで以上に多量の戦略物資を手に入れた人民軍は、中華思想に基づく大陸統一を目指したからである。対して、中華連邦共和国は、皇国の進言を聞き入れ、大陸統一よりも域内開発と安定化を目指していたが、攻められれば撃退しなければならない。自ら進んで相手領域に侵攻することはなかったが、侵攻してくる敵に対しては苛烈なまでの対応を行っていた。結果として、両者の被害、特に人民軍の被害は激増し、戦力低下をきたすこととなる。


 国際連合が正式に活動を始めた翌年、一八年に国連の調停が行われ、この当時の境界線が国境線であるとされた。さらに、独立国としての承認は二年後まで引き伸ばされることとなったが、国境侵犯などの重大な事件さえ引き起こさなければ承認されることが確実となったため、中華中央での紛争は沈静化することとなった。少なくとも、二年間の安定が約束されたのである。


 海南島に落ち延びた蒋介石は、中華民国という国体を維持したままであったが、すでに大陸住民からの人望はなく、彼にとっては大陸に出ることはかなわず、海南島での国体維持と将来に備えての国力増強を図ることしかできなかった。元は彼を支持、支援していた欧州先進国は世界大戦およびその復興にその国力を注いでおり、彼に支援を送ることはなくなっていた。また、米合衆国も南北戦争再発により、彼の元に支援を送ることもなくなっていた。もっとも近い支援国であった皇国は、大陸に支援を集中しており、彼の元には微々たる支援しかなかったからである。


 国連により、中華民国領土は海南島とされたため、域内開発に力を注ぐこととなる。隣接地域に侵攻すれば、独立国としての権限が剥奪される可能性があったこともあり、そうせざるをえなかったのである。そして、彼の元に残った人材に優秀なものはおらず、政治的にも問題があったとされる。かの国は蒋介石の息子蒋経国が表舞台に出るまでは汚職まみれのそれこそ清帝国末期の状態と似ていたといわれる。ちなみに、蒋経国はこのとき、秋津州領事として皇国にあった。


 そんな中国大陸にあって、満州国は最も安定しているといえた。国内開発も進み、工業化も進んでいた。さらにいえば、第二次日ソ戦争の結果、勝ち組に加わることができ、結果として常に自国侵攻を狙っていたソ連をバイカル以西に追いやり、悲願の国境安定化が図られた。むろん、新しく誕生した東ロシア国との今後はわからないが、少なくとも東アジアでは皇国に次ぐ国力を有するため、侵攻はないと考えられていた。東の大韓民国は注意を要するが、国力に差があるため、対応を誤らなければ問題はないとされていた。


 大陸中央部で紛争が発生しており、人民軍の自国領侵攻には注意を要するが、武器弾薬の製造と輸出が外貨獲得の手段でもあった。また、成立したばかりの東ロシア国に対する農作物の輸出も今後は有効だと思われていた。少なくとも、この先しばらくは国内の安定化は続くだろうと考えられていた。一七年には国際連合が正式に活動を始め、三年後の二〇年には満州国が独立国としてふさわしいかの審議を行うことが決定された。国内治安の良化と国内整備に力を入れることで、独立国としての承認の可能性が高まると考えられていた。


 皇国についで国力があり、治安も良いこと、日本語が通じることで、移転前に大韓民国に流れていた観光客が満州国へとその向きを変えることとなった。そして、皮肉なことにここで満流ブームが発生することとなったのである。皇国内では移転からこれまで外州、特に沿海州、由古丹州などのハーフが国内映画に出演することで人気を博していたが、満州国が安定しだしてからはにわかにブームが発生したのである。史実でも、戦前に満映がブームになったことがあるが、今回はそれ以上のブームとなっていた。


 済州島に興った東イスラエル国においては当初、独立国として認められることはなかった。理由は明確で、英国主導で地中海沿岸部(史実のイスラエルと同じ地域)にユダヤ人国家建設が進められていたからに他ならない。しかし、ユダヤ人国家建設は思うように行かず、結局、移転暦十六年には断念されることとなり、一七年に東イスラエルに対して、国連が三年後の再審議ということを決定したのである。この時点で、東イスラエルの独立国としての認定が決定的になったといえる。


 島民のほぼ九七パーセントがユダヤ人であり、皇国の梃入れで産業が興り、東南アジアや元の所有国である大韓民国、アメリカ合衆国への輸出も行われていたことからの判定であろうと思われた。この当時は既に小規模簿ながら陸海空軍が創設され、警察機構もあって、治安が良かったこともその一因といえた。何よりも、北米にあったユダヤ人の支援が多くあったことが最大の理由であっただろう。


 東ロシア国は移転暦一六年には独立国として認定(ソ連は猛反発したが)され、東アジアでは唯一の(東イスラエルはまだ認められていないため)白人国家であった。国内情勢的には多くの問題を抱えていたものの、北米統一を成したアメリカ合衆国においては軍需民需を問わず、重要な輸出先であったのである。特に、農作物の輸出先としては、最良の相手であった。結果的に、戦時体制から平時体制に移行を考えているアメリカにとって、農作物の輸出が最大のポイントであったからである。


 アメリカとの結びつきが強くなった東ロシア国であったればこそ、皇国の軍事費が削減されることはなかったのである。むろん、皇国との関係は最良であった、特に皇室と王室との関係は良かった、ために経済的にも政治的にも関係が悪化することはなかった。北の海での水産業をはじめ、多くの地下資源が皇国との取引の多くを占める。また、ロシア語を話せる人間が多いということで、北の二州との関係は良好であったといえる。


 北の二州にある企業にとっては、最良の輸出先であり、市場であったといえた。今では、皇国本土や他の三州の影響もあり、英語が取り入れられてはいたが、かって、ソ連に支配あるいは強い影響を受けていたことから、ロシア語文化が根強く残っていた。それが大いに役立っていたといえた。そして、これが北の二州にとっては経済力を底上げすることとなったのである。


 大韓民国は独立国として認められたものの、欧州では東南アジア諸国と同等の認識でしかなかった。大韓民国は東アジアでは皇国(瑞穂日本帝国)や中華民国次ぐ歴史のある独立国であると主張しているが、国際的には後進国との認識でしかなかった。工業化もそれほど進んでおらず、未だ農業国として見られていたといえる。欧州や北米の資本導入を図るも、治安が悪く、欧州や北米からの資本導入は進んでいない。


 皇国にとっても、大韓民国は今のところ魅力ある貿易相手ではなかったといえる。史実とは異なり、内戦が発生することはなかったが、治安が悪化しており、一般民にとっては到底近寄りがたいものであった。また、移転前にあった韓流ブームはとうの昔に費えており、先に述べたように満流ブームにとって代わっていた。皇国と大韓民国との交易が活発になるまでは五〇年の時間を待たなければならなかったといわれる。これは史実でも朝鮮戦争以後五〇年を経て韓流ブームにいたったのと同様であった。


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