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大戦後の欧州

 移転暦一〇年三月八日の世界大戦終結により、欧州は再び平和を取り戻したといえた。とはいえ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーの中欧、スロベニア、クロアチア、ルーマニアの東欧ではソ連に対する警戒が続けられており、緊張感は存在した。しかし、英国、フランス、オランダといった西欧はそれこそ平和取り戻すことに成功していた。


 もっとも、皇国にとっては平和とはいえなかったかもしれない。中欧や東欧に軍を派遣しているため、対ソ連に対する緊張感が多くあった。特に、移転暦一二年八月七日に第二次日ソ戦争が勃発して以降、中欧や東欧での緊張感がさらに高まったといえた。もちろん、これら地域には皇国だけではなく、英軍も駐留しており、さらには、熱狂的な共産主義者による暴動が多発していたからでもある。


 英国は大戦中も祖国を守り通したが、ドイツ軍のV-3およびV-4の攻撃により、多くの被害を受けていた。そして、本格的に復興が始まったのは一一年になってからであり、さらに、欧州各地、多くはドイツ国内、イタリア国内に軍を派遣してことから、復興が遅れたといえた。史実とは異なり、米国が参戦していないため、日英で史実の米国軍の役目を尾kなわなければならなかったのである。


 もっといえば、インドや東南アジアの植民地兵が二〇万人も欧州や中東にあったため、その戦後処理も行わなければならなかった。ちなみに、植民地兵の戦死者および行方不明者は一〇万人以上にもおよんでおり、無事に祖国に帰還しえたものは一〇万人に満たなかったとされている。ともかく、その戦後処理も行わなければならなかった。


 とにかく、祖国復興のためには人が必要であった。それには、軍人の多くを帰還せしめることが必要であった。動員した一二〇万人のうち、半数をそれに充てるための軍縮を行うこととされた。幸いにして、注意を要する日本皇国も軍縮を実施しており、憂いなく軍縮を行うことが可能だと思われた。そう、この時点においても、英国は皇国を信用していたわけではなかったのである。


 移転暦一一年八月六日の日連開戦により、英国の軍縮は一時停止するものの、皇国が欧州への増援を行わなかったため、英国の軍縮が継続されることとなった。これは、太平洋の多くの植民地を手放したことで、史実以上の速度で実施されることとなった。さらに、東南アジアから撤退が決まったことで復興が進むこととなったのである。


 フランスも英国同様、祖国復興が大々的に進められていた。これまで多くの問題が起こっていたインドシナ方面を手放したことこともあり、その速度は加速することとなった。英国と異なり、マダガスカル島という問題があったものの、皇国が一〇年以内の撤退を表明していたため、それほど問題とはならなかったといわれる。


 もっとも、フランスの場合、英国とは異なり、祖国復興には避けて通れない問題があった。それがヴィシーフランスに加わった軍人や政治家の処罰であった。結局、国家元首となったドゴール将軍は史実と同じ処理を行っている。また、日連戦争勃発、第二次日ソ戦争勃発により、一時的に軍を増強するという、日英とは異なり、独自路線を進むこととなった。


 そんな西欧にあってオランダだけは騒然としていたといえた。ようやく国土を回復し、祖国復興を目指していたが、国外の問題が国内に普及し、予想以上に復興が進まなかったのである。その原因は蘭領東インドにあった。大戦後すぐに植民地経営に乗り出したが、大戦前以上に独立紛争が多発、その解決のために、本来祖国復興に加わるべき軍人が多く派遣されたからである。


 オランダは同地域に植民地を持つ英仏と協調を取るつもりであったようだが、英仏ともすでに東南アジア放棄(独立)を決定していたため、オランダ独自で軍を派遣しなければならなかった。しかし、大戦で多くの艦艇を失ったオランダは、東南アジアに軍を派遣するためには艦艇を必要としていた。結局、稼動艦艇を多く所有していた英国から購入せざるをえなかった。それが逼迫していた国庫に与えた影響は大きく、さらに、政府が予想していた以上に独立紛争は激しく、多くの人命を失うこととなった。


 その被害の大きさに慌てたオランダは英仏に支援を求めたが、英仏はすでに東南アジアでの植民地経営が成り立たないことを悟っており、軍の派遣は断ってきた。ここで軍を派遣すれば、自らの植民地が独立を認めないためと誤解し、武装衝突が起こると判断していたからであろう。そして、両国とも東南アジアでの植民地経営はもはや成り立たないだろう、と忠告するだけにとどめた。結局、オランダは更なる軍を独自に派遣するという誤った行動をとることとなった。


 デンマークやベルギーといった国は史実とほぼ同じ道をたどることとなったが、ノルウェー、スウェーデンといった国は若干異なる。それはフィンランドの存在であった。この世界のフィンランドは資本主義国家であり、対ソ連包囲網の一角であったためである。ソ連と直接国境を接するため、北欧同盟ともいえる協定を結んでいた。


 史実ともっとも異なるのが、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーの中欧、スロベニア、クロアチア、ルーマニアといった東欧であろう。ポーランドは史実とは異なり、資本主義国家として独立していた。こちらも対ソ連包囲網の一角として存在、皇国軍の監視の下、国軍再編と祖国復興に邁進していたといえる。ハンガリーも同様であった。チェコスロバキアは内紛が酷いため、皇国軍は史実よりもはるかに早く、チェコとスロバキアに分離させ、それぞれに独立を前提にした準備政府を樹立、祖国復興と国軍再編を進めていた。


 東欧に関してはすでに述べたとおり、ユーゴスラビアは建国されることはなく、各地域で独立準備が進められている。第二次日ソ戦争の期間中は中欧や東欧の再編途上の国軍が皇国と共同でソ連軍進攻に備えていた。特に、ポーランドはその意思が明確に現れており、政府および軍だけではなく、一般国民もことが起これば銃を手にする、と公表していた。もっとも反共産志向が強かったのもこの国であった。


 ポーランドは欧州で英国、フランス、ドイツ、イタリアに次ぐ先進国へと発展、軍事的にはドイツ、イタリアを追い越すことになる。むろん、これはソ連に属するベラルーシと直接国境を接しているためであった。皇国も支援を惜しまず、より工業化が進み、結果的にイタリアと肩を並べるまでになるのである。とはいえ、東欧のルーマニアやブルガリアほど皇国の企業が進出することはなかった。


 東欧を除けば、ポーランド国軍はほぼすべてが皇国製の装備で固められ、しかも、最新の装備が配備されていた。歩兵装備はともかく、航空機や艦艇にいたるまでが皇国製であった。軍の錬度では英仏と肩を並べるほどであり、限定戦であれば英仏をしのぐともいわれるまでになる。そうして、戦後一五年を経た二五年には航空機を除くすべてがライセンス生産されるまでに工業力が向上することになる。


 ともあれ、欧州中原や東欧は史実とは異なり、より工業化が進み、技術的にはソ連を追い越すこととなる。これら地域の反共産志向が、史実でもあったココム規制(もちろんこれら地域だけではなかった)を遵守、ソ連をより追い詰め、ソ連の技術力低下を招くこととなる。事実、移転暦三〇年にこれら地域で携帯電話が普及し始めたころ、ソ連では未だ携帯電話が普及することはなかった。


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