南北戦争終結
第三次南北戦争は終わりが見えない戦いであったと思われたが、全体的に米合衆国の優位は動かない、とされていた。しかし、ある出来事により、急展開を見せることとなった。それは連合の崩壊でも軍の崩壊でもなかった。ある一人の人間の死によって変わったのである。
移転暦一五年二月一二日米連合国大統領フランクリン・ルーズベルトの死によるものであった。これにより、第三次南北戦争は収拾の方向へと進むこととなった。ハリー・トルーマン副大統領が大統領に昇格、トルーマン新大統領は米合衆国および日本皇国に停戦を要請したからである。
皇国はこれを受けて停戦、駐米合衆国大使を全権として皇国陸軍駐留地であるニューヨークに派遣、大統領補佐官と対談、翌三月一二日、講和が成立する。現在、皇国が占領統治中の東サモアを正式に皇国に割譲すること、現在進駐している地域の一〇年間の占領統治権を認めることがその条件であった。トルーマンがここまで皇国との講和を急いだ理由は米合衆国に対する声明で明らかとなる。
米合衆国との対談では、トルーマンは無条件降伏を表明している。つまり、先に米合衆国との無条件降伏にいたれば、皇国が権利を求めて現駐留地域の占領を続けることを危惧したためであろう、というのが大井の考えであった。皇国と先に講和し、現駐留地域の期限付き占領統治を認めることで、皇国の北米占領を阻止したのだといえた。
こうして、移転暦一五年六月一二日、米合衆国と米連合国の講和が成立、北米はアメリカ合衆国の下で再び統一されることとなったのである。その後は米合衆国と皇国との対談が持たれ、米連合国と皇国の間での講和条件について話しあわれ、正当なものであるとの合意が得られることとなった。さらに、米合衆国からはフィリピンの一部およびアラスカの一部の割譲の話しも出ていたが、皇国は固辞している。また、国土復興のための支援を皇国は申し入れ、合意を得ることとなったのである。
米国はこの年、一五年を統一のための準備期間と定め、翌一六年一月二〇日をもって新生アメリカ合衆国出発の年と定めた。こうして先進国を巻き込んだ一連の戦争は終結することとなったのである。これは、この世界での戦後が本格的に始まることを意味し、戦後の秩序が始まることとなったのである。
そして、日英主導で新たにスタートした国際連合が本格的に稼動するのもこの年からであり、本部は当初はロンドン、パリなどの名前も挙がったが、最終的には史実と同じく、ニューヨークに置かれることとなった。それはソ連を睨んでのことであり、ロンドンやパリではソ連に近すぎ、有事の際には問題がある、とした皇国の主張が通ったものと思われた。一度は東京の名前も出たが、欧州からは遠いこと、中華中央が内戦中であることなどから、皇国が辞退していたのである。
皇国は国連において軍縮を提案、自らは移転暦二〇年までに常備軍八〇万人を宣言し、この年から実施するとした。その多くは未だ国内にあった世界大戦時の軍の縮小から始め、次いで満州国派遣軍、新南洋派遣軍の縮小が実施されるとした。東欧派遣軍においては、別格として、二〇年以降の削減を実施するとした。そして、米英仏ソにも同調を求めている。また、戦時中に大きく伸びた軍需を民需に移行させ、比率を六対四とすることも宣言、同調を求めている。
国際連合は日英米仏ソを常任理事国としてスタートすることとなった。しかし、米国が南北戦争の傷跡から脱却するには最低でも一〇年はかかると見られ、その間は日英仏が世界の警察官とならざるを得なかった。というのも、ソ連の動向を監視せねばならなかったからである。東欧はともかくとして、中欧諸国に対するソ連の動きが活発になっていたからである。
皇国軍が駐留しているため、武力による浸透はないが、共産主義の輸出とでもいうべき行動を各地でとっていたからである。ここに、日連講和まで聨合艦隊が北大西洋にあった理由があった。欧州大戦中、米連合国から支援を受けていたソ連が、南北戦争において米連合国に対する逆支援を考慮してのものであった。もっとも、ソ連に有力な艦艇(民間船舶を含めて)がなかったことから杞憂であったといわれる。
もっとも、スターリンとは異なり、フルシチョフは表立って日英仏と争うことはしなかった。大戦中に米連合国から得た支援、その中にあった工業機械により、国内整備を行っていたからである。むろん、ドイツや皇国の工業機械に比べればたいしたものではなかったが、それでも、当時のソ連にすれば、先進工業機械であったことは間違いがなかった。
さらにいえば、バイカル湖周辺およびレナ川以東を消失しているソ連は、史実よりもはるかにまともな経済状況であり、中欧や東欧に余計な軍を割く必要もなく、軍もはるかにまともであったといわれている。そして、米国が統一されて欧州各地にその影響力を伸ばすまでの間、日英仏に監視される形で諸外国、特に中東や南米に武力進出しなかったことで、はるかにまともな国家であったといえた。これは皇国でも東ロシア国建国が誤りではなかったか、という議論が沸き起こる結果であった。
とはいっても、中華中央の中国共産勢力や中央アジアでは、史実のように進出していた。特に、中華中央の共産勢力に対する武器輸出により、その勢力は強まっていった。史実よりは規模が小さいが、それでもソ連の発展につながっていたといえた。中華中央も大戦中の一時期に紛争を控えていたことで、ソ連の市場としてある程度まで形成されていたからである。
第三次南北戦争終結と米合衆国による再統一、そして、その戦争で米合衆国が生産した武器弾薬などがどこに流れるかによって、今後の世界が大きく変わることになるだろう、というのが皇国政府あるいは軍上層部の考え方であった。少なくとも、中華中央と中東、東ロシアに流れることだけは防ぎたいというのが皇国政府の考え方であったとされた。そうなってしまえば、これら地域で緊張が高まり、紛争あるいは戦争に発展する可能性が大き買ったからである。
ともあれ、第三次南北戦争の終結により、この世界において世界情勢が大きく動くだろう、というのが皇国政府の予測であった。つまるところ、米国の今後の対応により、世界情勢が動くということになる。史実でも大日本帝国が戦争に負け、日本国となってからの発展、それと同じことが米国でも起こるだろうということであった。