静かなる太平洋
この当時、北米と中華中央、東南アジア(主に蘭領東インド)を除けば、皇国の近隣地域は安定していたといえた。むろん、太平洋も部分的に安定していたといえるだろう。部分的にというのは、皇国から独立(準備政府樹立)した旧南洋領、蘭領東インドでの独立紛争のことを知った一部地域、フィジーやニューカレドニアといった地域で独立の気運が高まっており、宗主国である英仏と小規模ながら衝突が発生していたからである。
とにかく、太平洋は以前のように多くの船が行きかっていたといわれる。その最たるものが、皇国の遠洋漁業船団であり、貨物船であった。貨物船の多くは旧南洋領や新南洋領(南太平洋に存在する新領土を指して使われるようになった)に向かう船であった。これら領土の開発が急ピッチで進められており、開発に必要な資材の運搬に携わっていたのである。
少なくとも、一〇年後、移転暦二〇年には自立できるような開発を進めていた。そのために必要な施設の建設はほぼ終わっており、後はソフト面、いわゆる教育などを進めるだけであった。もちろん、教育とはいっても、いわゆる座学だけではなく、実技指導なども含まれていた。移転前の過ち、井戸を掘るだけではなく、その掘り方を教える、を行っていたのである。
とはいっても、観光客を受け入れるためのホテルや諸施設は未だ建設中であり、これら地域では建設ラッシュが続いていたといえる。もっといえば、皇国内の各州でもいまだ建設ラッシュは続いており、建設関係の企業は好景気であったといえた。これら地域でも、基本的には漁業、次いで観光産業の育成が第一とされていた。移転前でもそうであったように、鉱物資源もなく、自立するために手っ取り早いのがこれら産業であったからである。
例外的に、サモアは未だ一般人の立ち入りは制限されていたといえる。その理由は西サモアのウボル島に多くの米連合国捕虜が拘束されていたからである。とはいえ、東サモアの主島であるトゥトゥイラ島は、港湾設備や空港設備などは整備されていた。犠牲者のための墓地も建設され、開発が進みつつあった。西サモアのサモア島も開発が進められていた。また、教育面でも進められていたが、本格的に開発が始まるのは移転暦一五年八月以降のことである。つまり、皇国は東サモア地域を米連合国に返還するつもりはなかったといえる。
そうであっても、皇国は一応の戦争終結後、一年を経た移転暦一六年からは父や息子の墓参りのための米国人の入島を認めている。さらにいえば、可能な限りの遺品の保管をも行っており、解放後の五年間はこの島を訪れる米国人が多くいたとされている。このとき、捕虜としてウボル島にあったもののうち、一割が戦後もこれら地域に残っている。そのほとんどが強制的に兵役に取られた有色人種であったのは皮肉としか言いようがない。
旧南洋領各国には、現地住民による警察組織、海上警備組織が存在し、治安維持と沿岸警備についていたが、中でも、皇国が予期しなかったのが沿岸警備組織であった。むろん、彼らの多くは日連開戦後に軍に志願した住民が主体であったが、現地漁師の救助活動など実績を挙げていた。むろん、未だ日連が講和したわけではないから、その目的は対米連合ということになる。
特にパラオ共和国はフィリピンや蘭領東インドが近いことから、臨戦態勢にあったといえた。これら地域には未だ米連合軍が潜んでいるかもしれない、そう考えられていたからである。一応これら地域での戦闘は終結したとされているが、いずれにしても、多くの島から成り立っており、未だ潜んでいるとされていたからである。事実、戦後にオランダ経由で北米に帰還しえたものが一〇〇〇人近くいたとされている。
もっとも、皇国にすれば、東ニューギニア以外の地域の開発は経済的に大きな負担であったといえよう。年間予算にしてGDPの一パーセントがつぎ込まれていたからである。また、欧州大戦、第二次日ソ戦争の結果、莫大な赤字国債が発行されていたこともあり、正直、喜ばれてはいなかったといわれている。しかし、移転暦五〇年には中欧や東欧、満州国、東ロシア国、米合衆国などの市場があったため、赤字国債は解消、それどころか、移転前からあった累積赤字国債の額も半減されることとなったといわれる。
ともあれ、戦時中とはいえ、太平洋地域は静かであった。新南洋領ではいくつかの問題も発生してはいたが、それは対話により解決できるレベルのものであり、領土を揺るがすようなものではなかった。その多くは教育に関するもので、一般成人に対する教育に関するものが多かった。それは当然であっただろう。皇国が入るまでは自由気ままにやっていた彼らには一日数時間とはいえ、拘束されるのが問題であったのかもしれない。
そんな時に皇国がよく使うのが、旧南洋領の発展振りを写した映像であったという。しかも、現在の姿だけではなく、皇国が入るまでの過去の映像をも公表していたのである。むろん、開発とはいっても、自然破壊を進めるようなそのようなものではなく、あくまでも現地の状況に合わせたものであった。例外的に港、空港、漁業基地施設は最新の設備とされていた。
要するに、国家として自活できるための開発であり、国内での開発とはまた異なる開発を行っていたのである。当然ながら、漁業基地あるいは観光が主な収入源であろうとは皇国も理解していた。基盤産業がひとつだけというのでは問題があるため、複数の産業基盤を植えつけるのが皇国の狙いであった。それが漁業であり、農業であったのだ。