東シベリア
早く書けたので更新です。
皇国軍および満州国軍はイルクーツクで防衛線を敷いていた。同地域は、南にトゥヴァ共和国、西にクラスノヤルスク地方と隣りあい、これらの境界線がそのまま防衛線とされていた。北のサハ共和国は既に占領下にあり、レナ川以東部が占領されたことになる。
むろん、皇国にも満州国にも永久に占領するつもりはなかった。皇国においては世界大戦と日連開戦、日ソ開戦により、国内開発がほぼ停止しており、新しい領土を持つ余裕がなかった。満州国においては未だ国内開発が始まったばかりであり、新領土を維持するだけの能力はなかったからである。それでも、ソ連領占領という策に打って出たのにはそれなりの理由があったのでる。
、そのきっかけは満州国内にあった。ロシア革命が起き、ソ連が誕生した際、多くのロシア人がソ連を脱出、多くはヨーロッパに向かったが、中にはシベリア鉄道に乗り、極東に向かったものもいたのである。これを知った当時の瑞穂日本帝国は彼らを大連に受け入れていた。その中に、ニコライ二世の娘の一人である第一皇女オリガ・ニコラエヴナがいたのである。大連でロシア人による問題が多発していたことから、彼らを大連から追い出すのがその目的であったとされている。
オリガ皇女は父の従弟で自身の夫であるドミトリー・パヴロヴィチ大公とともに、皇国の占領下にあったハバロフスクに移動し、東ロシア国建国を宣言したのである。もちろん、ただ宣言するだけでは国としての維持が不可能であるため、皇国は援助しなければならなかった。それが、ハバロフスクとペトロパブロフスクカムチャッキーまでの鉄道建設、マガダン州およびカムチャッカ半島の資源開発、軍の再編であった。
鉄道建設には、一〇万人におよぶ捕虜となったソ連兵が投入され、早期完成を目指したとされる。もちろん、強制労働ではなく、労働に対する報酬は支払われ、三食付の宿舎が用意されていた。資源開発では土木機械が投入され、大規模に進められている。実は皇国領内で金や銀などのレアメタルは産出せず、入手が難しかったのである。軍の再編においては、スターリンの粛清を逃れ、同地にあった軍人主体で捕虜の中から希望者を募って編成されていた。武器については、旧式となった武器の売却がおこなわれていた。
当然として、スターリンは激怒し、東シベリア地域の奪取を命じてはいたが、欧州の軍を動かすことはできなかった。もし、極東に向かって軍を動かそうものなら、バルカン半島やポーランドなどに駐留する皇国軍がソ連領内に侵攻することが目に見えていたからである。幾度か現地軍による奪還の試みがなされてはいたが、いずれも撃退されていた。そんなわけで、レナ川やイルクーツクで両軍のにらみ合いが続くこととなった。
もっとも、欧州から遠く離れた極東に軍を送るにしても、ソ連にはシベリア鉄道しかないわけで、大戦終結間もないこの時期では海路を利用することも不可能であったといえる。仮に輸送船団が編成できたとしても、黒海には第三機動艦隊が、ジブラルタルには聨合艦隊が、マダガスカル島には第四機動艦隊が配備されている状況では、突破は不可能であるといえただろう。シベリア鉄道を利用しても、イルクーツクに近代装備の皇国陸軍および満州国陸軍一二万人、各種戦闘攻撃機一二〇機が配備されている以上、ソ連軍には勝利する機会がなかったといえた。
当初の戦争計画とは若干異なるが、対ソ連戦は順調に進んでいたといえた。占領下の住民に対しては、可能な限りでの労働を求めている。各種の仕事を与え、それに見合う報酬を与えていた。軍政ではあったが、限りなく民政に近いものであったといわれる。ちなみに、チタに司令部を置く派遣軍総司令官は、由古丹州出身の今村幸一陸軍大将であり、統一戦争時は当時の軍上層部と衝突し、予備役に編入されていたが、その後現役に復帰し、頭角を現していた。伯父は今村均陸軍大将であり、彼らの世界では陸軍最良の司令官として評価が高かった。
また、マガダン以東を担当しているのは同じく、由古丹州出身の山下文昭陸軍小将であった。父は山下奉文陸軍大将であり、彼らの世界でも、マレーの虎と称された軍人であった。統一戦争時は今村と同じく予備役にあったが、その後現役に復帰し、頭角を現していた。軍規に厳しく、多少融通の利かないところはあったが、それでも、由古丹州では評価が高かったとされている。
つまるところ、極東ソ連領土のように輸送手段が一つ、さらに、軍備がなされていなかった場合、近隣諸国からの侵攻に対しては脆弱であり、一度占領されてしまえば、奪還の手段はないといえた。史実の東西冷戦のように、核が装備されていれば別であろうが、そうでなければどうしようもないといえた。少なくとも、皇国の実力を過小評価し、自らを過大評価していた結果、この事態を招くこととなったといえた。むろん、技術格差はあるにしても、根本的な要因はそこにあっただろう。
もちろん、皇国の占領下にあるとはいえ、支配下域の維持がすべて容易であったということではない。一般民衆に対していえば、命の保障と日常生活、とりわけ、衣食住が保障されれば、反発は起きなかったといえた。裏を返せば、ソ連による衣食住が完全に保障されていなかったことが皇国の占領下でのほうがより平等であったことに尽きる。逆に、皇国の占領下での生活が、ソ連時代よりも悪ければ、結果はまた違っていたのかもしれない。満州国とは異なり、未だ農業国の域を出ていない大韓民国では、これら地域への農産物の輸出が外貨を稼ぐいい機会であったといえた。結果的に、繊維製品や農産物を含めた食料輸出がこの先何年かの大韓民国を支えることとなったといえた。これには当然として、皇国の関与があったればこそといえた。
皇国にとっては、米合衆国とは開戦しておらず、友好関係にあったことがこの二正面作戦を皇国有利で進められる結果といえた。仮に、北米が米連合国なり、米合衆国なり、どちらか一国に統一されていれば、このような二正面作戦は実施されなかっただろうと思われた。いくら技術的に優位であったとしても、たとえ、欧州に軍が配備されていたとしても、こうまで容易に達成されることはなかっただろうからである。もう一つ、満州国の軍備がここまで育っていなければ、また、友好的でなければ、この作戦はありえなかっただろうとされている。
ちなみに、ニコライ二世とアレクサンドラ・フョードロヴナ皇后、アレクセイ・ニコラエヴィチ皇太子は赤軍によって殺害されており、第二皇女タチアナ・ニコラエヴナ、第三皇女マリア・ニコラエヴナ、第四皇女アナスタシア・ニコラエヴナは欧州に渡っており、いずれもが無事であることが確認されていた。彼女たちが欧州に渡ったのは、ロシア再建の支援を求めるためであったとされている。