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第二次日ソ戦争勃発

明日から一週間ほど千葉県のほうに出かけるために留守にしますので次回更新は来週の火曜日以降になります。うまく書ければ明日更新するかもしれません。



 世界大戦以降、欧州の多くの国はソ連復興まで三〇年、長ければ五〇年はかかるだろう、という考えが多くを占めていた。なぜなら、欧州ソ連南部地域、黒海東岸のカスピ海に面する地域が一時的にとはいえ、ドイツの占領下に置かれ、大戦前に比べて工業生産力が大幅に落ち込んでいたからである。国土は荒れ果て、ゼロから再建しなければならないとされていたからでもある。


 しかし、そうではなかった。一時的に占領された地域では、ドイツ軍が略奪や破壊を行わなかったこと、ドイツ軍の建設した施設の多くがそのまま残されていたこと、大戦末期に米連合国による支援、その中には工業機械も多くあったことで国家再生は飛躍的に進んだとされている。もっとも、裏を返せば、ドイツ軍や仏伊軍捕虜、新たに占領した中央アジア地域の住人、反共産勢力の人間を強制労働就かせたことによるものであった。未だその総数は判明しておらず、二〇万人とも五〇万人ともいわれている。


 とにかく、移転暦一二年初頭で、欧州ソ連地域は戦前の六〇パーセント、黒海東岸、史実のアルメニアやアゼルバイシャン、グルジアといった地域は逆に戦前より発達、ここで生産される製品が欧州ソ連復興を助けていたともいえる。それは、他の国が考える以上の速さであった。さらに、インドとパキスタンを除く中央アジアを勢力下においており、油田や天然ガス産出もあり、開発は急ピッチで進んでいた。鉄道網が完備され、欧州ソ連へと運ばれていた。


 対して、東アジア方面、史実のイルクーツク州、ザバイカリエ地方、ブリヤート共和国、アムール州、ハバロフスク地方、沿海地方、ユダヤ自治州、マガダン州、カムチャッカ地方、チュクチ自治管区といった地域は開発が遅れていたといえる。スターリンの顰蹙をかった軍人、政治家などがこの地へと追いやられ、日常生活物資や医薬品などが配送されず、治安は悪化していた。そんな中、比較的まともだったのが沿海地方であった。日本海(ここでいう日本海は史実の日本海とは異なる)に面したウラジオストックがあるため、黒海ソ連、米連合国(蘭領東インド)からの物資が流れていたためである。


 そんなソ連東アジア方面では情報源といえば、ラジオだけであったといわれている。皇国でも、ラジオ放送は対外向けの放送を含めていくつかの局が前時代的なアナログ放送であった。なぜなら、デジタル放送では海外では受信できないからである。こういったアナログ放送は、ソ連などの地域では皇国を知るための情報源であとされていた。


 もっとも、皇国国内では情報源といえば、テレビが主流となり、皇国誕生時、一時的に普及率は四〇パーセント台まで落ち込んだが、この当時は九〇パーセントまでに回復していた。この一〇パーセントは技術情報漏洩防止のため、あえて普及させなかった大連州など一部地域に限られていた。欧州や北米でもテレビは普及していたが、未だアナログ放送であり、カラーに移行し始めていた時期であった。


 そう、ソ連では皇国のテレビ放送が受信できないことから、軍事的にはともかくとして、皇国は世界的に遅れていると判断していたようである。それが、ソ連中央部やソ連軍上層部が誤った判断を下す原因の一つとなった、というのが戦後の見解であったとされる。そういうわけで、ソ連極東軍は動くこととなったといえるだろう。


 皇国聨合艦隊がパナマを攻撃せり、との報が対外向けラジオで放送された翌日、八月一七日早朝、山城州北部、沿海州北部、樺太州北部、千島列島東部にソ連空軍による航空攻撃が、北千島の占守島しゅむしゅとう幌筵島ぱらむしるとう、中部千島の温禰古丹島おんねこたんとうに対するソ連陸軍の上陸が行われたのである。しかし、上陸は接岸前にほぼ部隊の半数の死傷者を出して頓挫していた。なぜなら、部隊を輸送していた艦艇の多くが漁船やそれに引かれた無動力の筏などであったからである。なお、航空攻撃に関しては、領空侵犯としてすべて撃墜破しており、被害は皆無であった。


 この当時、沿海州や樺太州、由古丹州は戦争特需に沸いていたが、千島列島はその地勢状況から、北中部はあまり開発が進んでいなかった。南千島といわれる、択捉島えとろふとう国後島くなしりとう色丹島しこたんとう歯舞群島はぼまいぐんとうのうち、択捉島と国後島、色丹島が開発されており、特に択捉島は海軍の重要拠点として発展していた。色丹島は漁業が盛んである。中部千島といわれる地域では、新知島しむしるとう得撫島うるっぷとうなどが開発されていたが、新知島から先はまだそれほど開発はされていなかった。


 幌筵島には、ソ連の動きがおかしいことから、由古丹州の第三海兵旅団から一個連隊(平時は一個大隊)が配備され、占守島、温禰古丹島に各一個大隊が分派、周辺の春牟古丹島はりむこたんとう越渇磨島えかるまとう知林古丹島ちりんこたんとう捨子古丹島しゃすこたんとうの各島に一個中隊が分派されていた。第三海兵旅団は聨合艦隊の海兵団に倣って創設された部隊で、千島列島の防衛を担当する部隊であった。ただし、聨合艦隊所属の第一および第二海兵旅団と異なるのは、自らが艦艇一〇隻を運用していたことにある。いわば、史実の米国海兵隊のような部隊であった。かれらは、択捉島からの海軍艦艇が到着するまでに、撃退していたのである。


 しかし、海上では被害が発生していた。済州島に向かう貨物船がソ連海軍潜水艦によって撃沈されていたのである。これはウラジオストック沖に張り付いていた第三潜水戦隊の潜水艦が、多数出港する水上艦や潜水艦に対処できず、一隻を見落としてしまったことに起因する。もっとも、その潜水艦は後に撃沈されていた。


 こうして、皇国はソ連に対する抗議と賠償を求めることとなった。しかし、ソ連は応じず、さらに、満州と大韓民国へも侵入していたことから、同年九月一日、皇国はソ連に宣戦布告することになったのである。皇国の対ソ戦争計画においては、ハバロフスク地方、沿海地方、マガダン州、カムチャッカ地方、チュクチ自治管区の占領後ソ連に対して講和を迫るというものであった。むろん、東アジア方面だけではなく、欧州方面でも戦端が開かれる可能性が高いと考えてもいた。


 なぜ、皇国が二正面作戦ともいえるソ連に宣戦布告をしたかといえば、ソ連の背後に米連合国の影を見ていたからに他ならない。それに、パナマ攻略(現在は米合衆国が上陸戦を展開していたが)により、太平洋での米連合国との戦いは終焉したと判断していたからでもある。少なくとも、大艦隊を対米連合国戦に向ける必要がないと判断していたのである。それに、対ソ連戦は山本五十六がいったように、艦隊による戦闘、つまりは海軍の出番はほとんどなかったからである。


 そして、欧州ではソ連軍は動かなかった。否、動けなかったのである。皇国軍欧州駐留部隊がベラルーシやウクライナに侵攻の構えを見せていたからである。R-4<彩雲>が日に一度はソ連領空を侵攻し、偵察についていたからである。ちなみに、現在のソ連空軍には<彩雲>を追撃、撃墜できる戦闘機はなかったのである。一万八〇〇〇mの高空を飛行する<彩雲>を追跡、攻撃できるのは、皇国のF-15<イーグル>、<流星>しかなかった。この<彩雲>の飛行はソ連に与えた影響は大きく、もし、誘導弾や爆弾が搭載されていたら迎撃不可能なまま、国土は皇国に攻撃されてしまうからである。ソ連だけではなく、北米二国や英仏に与えた影響は大きく、早くも五年後には英仏で高高度迎撃戦闘機が開発され、実戦配備されることとなった。


 とはいっても、極東ソ連領では早くも皇国の進撃が続いていた。カムチャッカ半島へは八月三〇日に二個機械化師団および一個施設旅団が上陸、樺太州豊原空軍基地からはF-6戦闘機やF-15DJによるマガダン空爆、沿海州猶辻空軍基地からF-6戦闘機やF-15DJによるニコラエフスク空爆、山城州白水空軍基地からF-6戦闘機やF-15DJによるウラジオストック空爆が行われていた。


 ちなみに、F-6戦闘機<雷電>は史実のノースロップYF-23に似た機体であるが、エンジン推力は九八○○kg×二であり、超音速巡航は不可能であった。<雷電>開発の趣旨はステルス性重視ということもあり、最大速度はM二.○に抑えられている。兵装は機関砲とAAM-5×四、AAM-6×六、もしくは対地誘導弾六である。性能はともかくとして、海空協同採用となった初めての機体である。主契約は石川島播磨重工であった。


 ともあれ、九月末には、史実のカムチャッカ地方、マガダン州、沿海地方、チュクチ自治管区が皇国の占領下にあり、極東ソ連軍はハバロフスク地方へと追いやられていた。皇国陸軍参謀本部としては、本格的な冬が来る前にハバロフスク地方も占領しておきたいという意識があった。史実の日本とは異なり、寒冷地にあった沿海州や由古丹州、山城州が存在するため、それほど冬戦争を苦手としているわけではないが、それでも、安全のためには早く確保し、治安維持任務だけで済むようにしたかったのである。


 満州国軍九万人は、皇国軍の支援の下、史実のユダヤ自治州、アムール州、ザバイカリエ地方、ブリヤート共和国を占領下においていた。満州国軍は瑞穂州から派遣の二個師団三万人とともに、イルクーツク州を占領する予定であった。それは、自国の安全を確保するために必要だと判断されていたのである。これら地域は、西で国境を接するモンゴルの北にあり、モンゴルに対して北と東から圧力をかけることができるからであった。


 満州国陸軍は一部の戦車などを除けば、ほぼ皇国軍と同じ装備であり、同数のソ連軍なら圧倒し、英仏軍なら対等に戦えるまでに成長していた。その戦車にしても、皇国主力戦車である○九式の一世代前の一〇式戦車であり、この世界では群を抜いて高性能であった。もっとも、陸戦で圧倒していても、補給や航空支援などが欠けていては勝てないので、そのあたりの一部を皇国が支援しているといえた。


 満州国軍が短時日でここまで進出できたのには理由があり、それは誰もが知っているように鉄道にあったからである。そして、これがさらに東方のソ連領を皇国が早期に占領することのできた最大の理由であった。むろん、皇国軍と満州国軍の間で事前に調整がなされていたことはいうまでもないことであった。結果として、一〇月末にはイルクーツク州を占領、皇国はハバロフスク地方を占領下におくことになった。そうして、以後は西進することなく、防衛戦に徹することとなったのである。


 ここまで皇国軍および満州国軍がソ連軍を圧倒したのは、やはり技術格差が大きいといえた。さらにいえば、補給が円滑に行われたことも大きいといえる。これは、鉄道を利用できたからである。そのため、九月末にはバイカル湖東岸のウランウデ近郊に、簡易滑走路が完備され、航空支援が可能になったことがイルクーツク州を早期に占領できたことでもあった。


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