皇国情勢
移転後、旧日本国は深刻な経済不況に陥っていた。輸出がまったくなく、輸入も途絶えていた。そのため、輸出、主に対米および対中であったが、それすら不可能であった。しかし、より深刻な問題は食料にあった。多くは輸入に頼っていたため、パニックにいたったのである。しかも、政府は何一つ有効な対抗策を取ることができなかった。挙国一致内閣になってからは多少なりとも改善されたとはいえ、深刻な状況は変わらなかった。
樺太島の油田が発見されてからはいくらかマシになったとはいえ、移転前には遠く及ばなかった。さらに追い討ちをかけるように、漁業が低迷することとなった。理由は明確であった。環礁に囲まれた日本近海は平均水深が一五〇m、深いところでも二〇〇mしかなく、海流が流入しないため、漁獲量が減ったのである。統一戦争直前には、環礁外ではこれまで同様、見知った魚が獲れることが判っていた。しかし、統一戦争発生によって漁は禁止されてしまった。
そんな状況を大きく変えたのが、統一戦争緒戦において北海道稚内や同根室、対馬といった僻地ではあったが、侵略されたことにあった。簡単にいえば、日本が一つにまとまったといえたのである。後に判明したが、占領されたと報道された直後、自衛隊への志願者、北海道や九州が特に多く、約二万人を数えたといわれている。むろん、経済的な、仕事がなく、収入のめどが立っていなかった、こともあったと思われるが、それでもそれまでは起こりえなかったはずであった。
統一戦後の各州との関係が懸念されたが、いずれも日本人、もしくは大和民族であったことから、政府が予想したことは起こらなかった。むろん、これには過剰といえるまでのメディアの報道による影響があったといわれている。むしろ、それがあったからこそ、講和条約締結が可能であったといえるだろう。もっとも、多くは混乱を招くだけであったといわれる。そして、この講和条約締結が日本国の経済に多大な影響を与えることとなったのである。
まず、言語が日本語であったこと、むろん、英国の影響が強かった瑞穂州では英語が、フランスの影響が強かった山城州ではフランス語が、アメリカの影響が強かった秋津州では米語(英語)が、ソ連の影響を受けていた沿海州と由古丹州ではロシア語が混じっていたが、標準語においては対話が可能であった。これはとりもなおさず、日本国の製品がそのまま通用することを意味する。
次いで、各州がそれぞれの世界で第二次世界大戦を経験しており、戦後一〇~一五年を経ていた。そうしてそれぞれの国内で影響国から技術を導入し、インフラ整備が始まっていたこと、工業化の途上であったことが幸いすることとなった。
結果的にいえば、戦勝国となった旧日本国は各州に向かって進出を開始することとなった。なぜなら、分散しているとはいえ、旧日本国の二倍近い、一億九〇〇〇万人を有する、国内情勢的にみても安定すると思われる膨大な市場が現れたのである。しかも、自国内で販売するのとまったく同じものでいいのである。これまでの輸出における諸作業、マニュアルや包装の現地語化がまったく必要ないのである。
もちろん、政府は旧日本国一国による支配下政策は採らなかった。宥和政策を行い、インフラや法制度、教育など進めることが決定されていた。しかし、各州の居住者も日本人であった。旧日本国でも第二次世界大戦後数年を経て始まったあの時代、高度成長期の前と酷似していたといえる。同じことが各州で起こることは十分に考えられた。
その中でもっとも問題とされたのが、沿海州と由古丹州であった。旧日本国いや西側と主義が異なる国の影響であろうと思われるが、他の三州に比べると経済的にも技術的にも遅れていたといえる。さらに、規格が異なるものが多かったため、徹底して関与したといえる。また、最初に戦争をはじめ、侵略したということもあり、軍部に関しては強い関与を示した旧日本国であった。
由古丹州はソ連の占領下にあったといえた。そのため、旧日本国とはもっとも異なる情勢下にあった。ここでは教育から関与し、資本主義、民主主義を最初から教えることとなった。インフラ整備も徹底して行われ、既存の施設はすべて取り壊すことからはじめられた。そして、旧日本国の技術導入による再生が行われている。鉄道網の整備、道路網の整備、電気・ガス・水道などのライフラインの整備と徹底して行われることとなった。そのため、皇国政府の決定したレベル、旧日本国の一九七〇年の位置に至るにはもっとも時間を要すると考えられていた。
ではあったが、ほぼゼロからの出発、新しい州を造るのだという意識は最も強く、皇国政府の予想するスピードよりもはるかに速い速度でインフラが整備されていったといわれる。大きめの炭鉱以外にはこれといった資源もなく、もっとも貧しい州だといえた。しかし、漁業に活路を見出しており、旧日本国の技術導入により、それは急速に進歩していった。皇国建国後わずか一〇年で漁業と魚介加工品の生産において、皇国全土の四〇パーセントのシェアを確保するにいたる。
統一戦争後、軍が徹底的に解体されたが、新しい軍ではもっとも優れた陸軍部隊を輩出することとなった。初期には生計を立てるために軍人を目指すものが多くいたからであるとされている。また、後に発生する日ソ戦争において、もっとも多くのソ連軍部隊を撃破した軍を装備するにいたる。
沿海州はソ連支配下に長くあったため、その影響が強いとされていた。しかし、移転時には独立を果たし、周辺国の日本と交流が再開され、緩やかにソ連の影響を排除しようとしていた。ではあったが、それではあまりにも皇国政府の予定レベルに達するのが遅れるため、由古丹州同様、最初からはじめられたといえる。しかし、一度はじめたらその速度は予想以上に速かった。もともとが独立して脱ソ連を目指していたこともあり、それが影響していたといわれている。
域内には比較的大きいチタン鉱脈や鉄鋼石鉱脈が存在するが、それ以外は特に資源もなく、技術的には最も遅れていた。しかし、その吸収力はすさまじく、わずか一〇年で皇国政府の指定レベルに達したとされている。また、皇国政府が掲げた樺太島開発計画に多くの技術者を派遣している。由古丹州の三〇〇万人には及ばないものの二〇〇万人に及ぶ移民を供出していた。後に多くの科学者や化学者などを輩出、皇国一の技術州を目指しているとされる。
統一戦争後、由古丹州と同様に軍は徹底して再編されたため、新軍においてはソ連の影響を完全に脱却していたといえる。陸軍よりも海空軍に力を入れており、空軍力では皇国で一、二を争うほどの能力を持つようになる。後の日ソ戦では多くのエースを輩出することとなった。
山城州はフランスの影響を強く受けていた。しかし、近年はフランスとの関係は悪化しており、それはフランスが内政に関与する機会が増えていたからだといわれる。しかも、今回の戦争が山城家当主によって始められたこと、山城家独裁体制であったことが問題となり、旧日本国は山城家廃絶、という処置を下した。ではあったが、技術力は向上しており、戦闘機や武器弾薬などのライセンス生産が可能なまでになっていた。資源については大きいボーキサイト鉱脈や炭鉱、後に大規模なウラン鉱脈が発見されている。
旧日本国は法整備と教育(軍教育含む)に強く関与し、民主化を強く推進することとなった。技術的には高レベルにあったことから、旧日本工業規格の導入による混乱は少ないと判断、同規格の導入を推進することとなった。が、上記以外には関与することはなかった。軍事的には空海よりも陸軍に強く志向しており、後に多くの名将が生まれることとなった。
瑞穂州においては統一戦争勃発時に軍事クーデターが発生していたことから、旧日本国は軍および軍教育に強く関与している。問題とされたのは旧日本国と同じく、皇族が存在したことであるが、軍事クーデターにおいて殺害されており、残っていた人物も相続を拒否したため、瑞穂州の皇家は廃絶となった。この人物の相続順位は二一位であったといわれている。余談ではあるが、件の人物は後に旧日本国の皇族と婚姻、旧日本国の皇族の末席に連なっている。
瑞穂州の技術力や工業力は山城州と同程度か少し上であり、旧日本国は多くは関与しなかった。資源的には鉄鉱石の鉱脈や炭鉱のみであり、少ないと思われていたが、戦後の調査で西部に大規模な油田が発見され、後の皇国を支えることとなっていった。軍事的には陸空よりも海軍力を増強することとなった。これは同州が台湾と中国東北部の大連、南洋州という領土を保持していたからだと思われた。
秋津州の情勢は第二次世界大戦後の旧日本国ともっとも似た情勢であったと思われた。アメリカの影響を強く受けており、産業的にも似通っていたからである。しかし、直接的に侵略を受けたわけではなく、関与するのは難しいとされた。ではあったが、統一戦争時に軍事クーデターが発生していたこともあり、旧日本国は軍部と軍教育に強く関与していた。なお、軍需産業が発達していたこともあり、旧日本国は平時においては民需と軍需の割合を六対四を維持するよう宣告している。また、諸州の中ではもっとも旧日本国に対する感情がよかったとされている。
同州は資源はほとんどないとされたが、後の調査でニッケルやモリブデンといった重金属系レアメタルの比較的大きい鉱脈が発見されている。これら資源の開発は他の州に比べて比較的早く進んだとされる。軍事的には陸海空のバランスが取れた配備状況であるが、後に大艦隊が現れたことにより、海軍力重視の方向に向かうこととなった。
秋津州を除いた諸州で旧日本国が関与したのは鉄道であったとされる。いずれも標準軌幅の鉄道が整備されていたが、これをわざわざ狭軌幅に変更させている。これはいずれも至近であり、将来的には海底トンネルによる接続を考えていたからだといわれている。当初、諸州は反発したが、関門トンネルや津軽海峡トンネルの存在を知ると、これを受け入れたといわれている。この時点では、航空機輸送が整備されておらず、各州間は船による連絡しかなかったからであろう。秋津州においては遠距離であるがゆえに、考慮されていなかったのである。しかし、将来の技術進歩により、鉄道連絡が可能と判断した秋津州でもこの変更はおこなわれている。
皇国政府はこうした大規模公共事業を多く行うことにより、旧日本国の不況脱出、ひいては諸州の経済成長をもくろんでいたのかもしれない。そして、これらの達成には二〇年を見込んでいたのであるが、多くの事業はわずかに五年、長期間の工事を有するものでも一〇年で達成している。いずれの州でも官民一体で進めたことにその原因があったといわれた。こうして移転後の深刻な不況にあった旧日本国および各州の経済は改善されることとなったのである。
統一戦争終結後三年を経て一応の安定を取り戻しつつあった日本皇国であったが、建国三年を迎えて再び混乱に巻き込まれることとなった。そして、同時に戦争に巻きこまれることとなったのである。