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太平洋戦線異変あり

 移転暦一二年三月二〇日、東サモアの主島であるトゥトゥイラ島、西サモアの構成島であるサモア島、ウボル島は一応の安定を取り戻していたといえる。特にトゥトゥイラ島はあちこちに戦闘の傷跡が残るものの、皇国から派遣された施設旅団による再生、多くはプレハブ式住宅であった、によって日常生活に支障がないまでになっていた。生き残った無傷あるいは軽傷の米連合国兵士はウボル島に新たに設置された捕虜収容所に集められていたが、その数は一万五〇〇〇人に満たなかったとされる。


 対皇国開戦時には三島合わせて約一五万人いた兵力のうち、五万人強が未だトゥトゥイラ島の野戦病院にあったといわれる。そう、この戦いにおいて米連合国は陸海空合わせて一〇万人近い犠牲者を出していたのである。無傷あるいは軽傷の米連合国捕虜をウボル島に移したのは疫病の発生を恐れたためであったといわれる。ここまで多くの損害を出した理由は、補給の絶たれた米連合国軍が島が焦土と化すまで戦ったことに原因があった。


 米連合国太平洋方面陸軍司令官のダグラス・マッカーサー大将は早期降伏を進言する部下に対して、徹底抗戦を主張した。むろん、それは間違ってるとも間違っていないともいえた。十分な補給、あるいは支援がある、という前提でなら誰が司令官であっても取る行動であった。しかし、補給も支援も期待できない状況であれば、決して賢明とはいえないものであった。彼は地下司令部において自決したとされていた。もっとも、後頭部から喉に向けて銃弾を打ち込んで自決したというのであれば、だが。


 米連合国太平洋艦隊司令長官のウイリアム・ハルゼー大将はサモア攻略緒戦の対艦攻撃時に、不幸にも艦艇にあって重症をおって病院に入院していたが、降伏時には死の一歩手前であったといわれ、皇国軍によってその命を救われたといえた。未だ、病院に入院中であり、尋問に耐えられるようになれば、それを受けることになる。いずれにしても、米連合国における太平洋方面軍の陸軍司令官が死亡、海軍司令官が皇国の手に落ちた以上、米連合国は太平洋戦線の見直しを図らなければならなくなったとされる。


 これら上級将校だけではなく、捕虜となった将兵の身元調査、多くは出身地と氏名、年齢所属部隊であった、が成され、米連合国向けに放送されていた。むろん、戦死者においても可能な範囲で公表されており、遺品等については返還が可能であれば返還するとしていた。対して、米連合国側は無反応であった。これは聨合艦隊からの上申、実は大井の提案による情報戦でもあったといえる。この頃、米連合国では情報統制が行われており、一般国民に知らされていない、ということを皇国は知らなかった。しかし、これら情報は思いがけない方法で米連合国国民に知られることとなった。それは米合衆国の政略放送であった。


 とはいえ、米連合国海軍は崩壊したわけではなく、パナマに新たに太平洋艦隊司令部が設置され、新長官として、レイモンド・スプルーアンス大将が着任していたのであるが、皇国はこの時点でそれを知ることはなかった。それを知ったのは、中南米にある陸軍特務機関、いわゆる諜報組織からの情報であったといわれる。また、フィリピンのレイテ島にある空母二隻からなる機動部隊は健在であり、司令官マーク・ミッチャー中将は不気味な沈黙を守っていた。


 この頃、瑞穂州(旧瑞穂日本帝国)が移転前に中南米各地に派遣していた陸軍特務機関も再編されており、大きく分けて三つがあった。メキシコから中米北部を担当する甘粕機関、中米南部と南米北部を担当する北条機関、それ以外の南米を担当する南山機関である。いずれも機関長である人物の名前殻取られていた。そして、新太平洋艦隊司令部の情報は甘粕機関からもたらされたものであった。


 そうした中、このサモア攻略戦の結果から、皇国と米合衆国の対話は一段と進み、ハワイの太平洋艦隊は大きく動き出したといえる。皇国は米合衆国と米連合国との内戦(皇国はそう判断していた)には介入しない意向を明言していたが、太平洋および東南アジアにおける安定化には双方が同意していた。そして、ここで問題とされたのがオランダであった。英仏は東南アジアや東アジア(中国大陸での権益があった)での武力介入は行っておらず、旧植民地(未だ独立はしていないが、英仏は公式にそう発言していた)の安定と自国の安定化を望んでいた。


 しかし、オランダは植民地の武力鎮圧から英仏に倣った植民地放棄を考えていたが、この南北戦争および日連戦争における米連合国に対する資源売却は、大戦で逼迫していたオランダの国庫改善に大きく影響していたことから、積極的に米連合国に関与していたといえる。その象徴が、米連合国に対する武器弾薬の輸送であった。東サモア陥落により、米連合国は大西洋およびインド洋経由でフィリピンの部隊に補給を行うしかなかった。しかし、米連合国は自国の輸送船を利用することはできなかった。なぜなら、マダガスカル島にある皇国軍艦艇が通商破壊に出ていたからである。そこで浮上してきたのがオランダ船籍の輸送船を利用することであった。


 これは皇国においても、米合衆国に置いても厄介なことであったといえた。皇国においては、オランダ領にある敵国たる米連合国軍を攻撃することができず、米連合国軍勢力を殺ぐことができないからである。さらに、ようやく開発が機動に乗り始めたオーストラリアの資源、ボーキサイトや鉄鉱石などの輸入に大きい影響力を及ぼすこととなっていた。米合衆国においては、フィリピンの安全が損なわれ、戦いが長期化する一因となっていたからである。


 そんななか、皇国および皇国連邦構成国、米合衆国、オーストラリア、ニュージーランドによる太平洋条約が締結されたのである。当初の予定では英仏も加わる予定であったが、米連合国との関係もあって取りやめとなった。その内容は一言でいえば、太平洋の安定化にあった。その最大の目的は交易の活性化であり、各国の経済回復にあったといえる。この中の一項、太平洋の安定のため、各国は協力してこれにあたる、という項目がその後の皇国の戦争計画の変更を余儀なくすることとなる。


 これまで、米合衆国の領土であったフィリピンに皇国は手を出せなかったが、これによって日合(米合衆国)の同意があれば、フィリピン戦線に介入することが可能となったのである。この太平洋条約が後に太平洋条約機構となり、対共産勢力に対する太平洋方面での軍事同盟へと発展することとなる、その第一歩であったといえた。むろん、米連合国は反発したが、現状では太平洋に根拠地を持たないことから、各国とも将来の問題、として棚上げしていた。


 このとき、米合衆国は皇国からのある提案を実施しようとしていた。それは、現地の有力者に向けたものであり、戦後一〇年以内の独立を約束する、というものであった。旧皇国領が次々に独立準備政府を樹立したこと、同じ東南アジア域の英仏領が独立を約束されていることを知った、フィリピン独立派が米合衆国および米連合国に対して武装蜂起していたことがその原因であった。そして、独立準備政府の樹立を認めていた。むろん、英仏に倣った不平等条約の締結条件とされていたことはいうまでもないことであった。


 こうして、米合衆国はフィリピンでの独立派との武装衝突は避けることができたといえる。結果的に、米合衆国は独立派との紛争に割いていた兵力を米連合国国戦に向けることが可能となったのである。さらには、彼ら独立派武装集団には条件付、米合衆国には戦闘を仕掛けない、で武器弾薬の援助を表明してもいた。むろん、これらは極秘(独立および準備政府樹立に対しては公表)で行われた。


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