再び戦時体制へ
移転暦一一年八月六日の米連合国攻撃の被害は小さいものではなかった。グアム島に対する攻撃は幸いにして基地に近かったため、誘導弾は迎撃に成功、攻撃をした潜水艦もP3C対潜哨戒機の攻撃によって撃沈していた。しかし、台北、トラック、コロール、ガダルカナル、ギルバート諸島に対する誘導弾の迎撃には失敗、ただし、攻撃を加えた潜水艦は撃沈破することには成功していた。フナフティに対する航空攻撃は迎撃に成功し、被害は皆無であったが、ポートモレスビー、ラエに対する攻撃は迎撃に上がった機数が少なく失敗していた。
これらの攻撃により、軍人および民間人含めて五〇〇〇人以上の死者と一万人以上の負傷者が発生していた。特に、台北では二〇〇〇人を超える民間人の死者を出していた。これは軍事施設への攻撃ではなく、一般都市(都市とはいえないかもしれないが)に対する無差別攻撃であったことに起因する。当然として、皇国はラジオ、テレビ、新聞などあらゆるメディアを使って米連合国の無差別攻撃を非難した。
マリアナ連邦共和国とミクロネシア連邦共和国、パラオ共和国、ナウル共和国、マーシャル諸島共和国、キリバス共和国(いずれも独立準備政府)は米連合国に宣戦布告し、皇国軍に対する全面支援を宣言、一〇〇~一〇〇〇人という規模ながら軍に志願するものが現れたのである。むろん、これら地域には未だ軍は準備段階であり、正規軍は存在しない。それでも、志願するものがいたのである。
困惑した各政府はこの解決を皇国政府に持ち込んだ。志願者の多くが漁業関係者、つまりは船乗りであったため、皇国は退役の近い駆逐艦や掃海艇、魚雷艇を譲渡し、訓練を始めたのである。ちなみに、これら地域の識字率は高く、教育も皇国とほぼ同じように行われ、半年から一年の訓練で任務につけると考えられた。これが新しく皇国領となったツバルやソロモン、ヴァヌアツ、東ニューギニアに与えた影響は大きく、より熱心に教育を受けるようになったとされている。
植民地であるソロモン諸島、ツバルは国あるいは自治体としても未だ認められておらず、皇国の被害とされた。しかし、例外的にソロモン諸島が米連合国に宣戦布告し、同地の住民による志願兵一〇〇〇人が現地軍指揮下に入っている。これは当該地域が元がドイツ植民地であったことで教育水準が高かったこと、皇国が一種の自治政策を採っていたことによる。
このとき、初めて使われたのが先にも述べた、日本皇国連邦、という言葉であった。むろん、英連邦、という言葉と同義であった。これを初めて使ったのがマリアナ連邦共和国であり、以後、各地域で使われるようになったとされている。ちなみに、これら地域の人口であるが、食料事情の改善や皇国からの移民、さらには多産政策もあって、この時点で二五〇万人を数え、史実の三倍強にも達していたのである。ほぼ中部太平洋および南西太平洋全域を敵に回したことで、皇国にさまざまな情報が入ることとなった。それはこれら地域がコーストウォッチャー(沿岸監視)郡と化したことにある。
具体的な反攻作戦は未だ実施されてはいなかったが、前大戦以来、一年ぶりの戦時体制下での船団護衛体制が取られた。これによって、通商破壊による皇国の疲弊を狙った米連合国であったが、何の効果も上げることなく、逆に被害が増すばかりであったとされている。欧州派遣時と異なり、皇国の膝元であり、皇国独自の作戦行動(外国軍が参戦していないという意味で)あり、最新の兵器が惜しみなく使用された結果である。
そして、前大戦ではほとんど活躍の場が見られなかった第六艦隊であるが、ひっそりと成果を上げていた。それは、対水上艦攻撃任務ではなく、対潜水艦攻撃任務であった。自軍の潜水艦の音紋はすべてライブラリに保存されており、その音紋以外の場合、敵(ここでは米連合国を指す)と判断しての攻撃であった。むろん、米合衆国軍の潜水艦という可能性もあるが、その可能性は低いと判断されていた。
その理由は一点、米合衆国潜水艦は旧来のディーゼル機関であり、米連合国潜水艦はすべてがドイツのUボートと同じ過酸化水素を用いたスターリング機関を採用していたことにあった。さらにいえば、多くの米連合国艦艇の音紋データが採取されていたことにあった。戦後のデータによれば、対皇国開戦時、太平洋にあった米連合国の潜水艦は一七○隻であり、うち四〇隻がフィリピンのレイテ島にあったとされていた。一一年末までに稼動していた潜水艦はわずかに三〇隻であったと記録されていた。
そう、皇国の反撃は水面下で静かに始まっていたのである。派手ではないが、米連合国の首をじわじわと絞めていくようなものであったとされる。もっとも、これにはやむをえない理由もあったといわれる。各地を襲った潜水艦の基地の多くはフィリピンのレイテ島にあったが、国際法上は未だ米合衆国の領土であり、東ニューギニアを襲った航空部隊はオランダ領西ニューギニアから発進しており、いずれも攻撃することが不可能であったのだ。
むろん、米合衆国とオランダの同意、正式の書類による同意がなければ、皇国が攻撃を仕掛けた場合、両国の領土を侵略したことになり、国際的に悪にされてしまう可能性があった。事実、オランダは領土に近づくだけで。領海侵犯、領空侵犯と騒いでいたのである。米合衆国とは協議中であるが、同意は得られてはいなかった。これは、米合衆国が皇国の実力を図っていたためだといわれる。これが戦争計画に齟齬をきたした最初の出来事であった。
そんなわけで、皇国の反攻も表面的には開始されていないことになっていたといえる。唯一、目に見える戦闘は船団護衛においての対潜戦闘であった。そうした結果、奇妙ともいえる膠着状態が続くこととなった。少なくとも、世界にはそう写っていた。だからこそ、世界の世論を自国の支援煮付けるためには、目に見える成果が必要だったのである。しかも、皇国が有利であると判定させるだけの成果が求められたのである。
しかも、圧倒的な技術格差(例えば巡航誘導弾によるホワイトハウス攻撃など)ではなく、先進国の技術で可能だ、と思わせる攻撃が必要であった。圧倒的な技術格差を見せることはこの場合、マイナスに働くからである。仮にそうすれば、世界が皇国に対して警戒心を抱くことになるだろう。史実の第二次世界大戦におけるナチスドイツのV-1号およびV-2号による攻撃、この世界の世界大戦時におけるナチスドイツのV-4号ロケット弾による攻撃などがその例であった。
結果として皇国軍が選択したのは、空海による東サモア攻略であった。しかし、航空母艦を有する機動部隊は現状では二個機動艦隊の空母四隻、とてもではないが、要塞と化している東サモア攻略には戦力が少なすぎた。そこで、基地航空隊のうち、一〇個飛行隊二四〇機が追加戦力として運用されることとなったのである。これら二四〇機はグアムから先はいくつかのルート(トラック経由、ナウル経由、マーシャル経由)でツバルのフナフティ島へと向かったのである。むろん、基地要員はC-2輸送機で向かっていた。
第一および第二機動艦隊もツバルへと向かった。むろん、奇妙な膠着状態の間に、必要な物資は運び込まれていた。米連合国の潜水艦が激減したことで、哨戒任務に就く艦が少なく、米連合国には詳細は掴まれてはおらず、米連合国の予想しえない攻撃となった。この作戦には第六艦隊第七潜水戦隊も参加していたからである。さらに、本格的な巡航誘導弾である一一式誘導弾が使用されることとなった。最大射程一五〇〇kmを誇るが、今回は五〇〇km以内で使用されることとなっていた。




