オセニア
大戦中、英連邦の一員として欧州に軍を派遣したオーストラリアおよびニュージーランドであったが、戦後、ともに二個師団ずつを欧州に派遣したままであったが、太平洋での両米国間による戦争勃発を受け、未だ戦時体制にあったといえた。特に海軍戦力においては、英国からの譲渡を受けてオーストラリアはインド洋の、ニュージーランドは南太平洋を受け持つ形で哨戒および警戒任務についていた。また、皇国からの艦艇供与などもあり、海軍軍備は充実の一途にあったといえる。
皇国との関係は表面上は悪くはないといえた。皇国領となったソロモン諸島、ヴァヌアツ、ツバル、東ニューギニアの開発に、オーストラリアおよびニュージーランドの資源や資材を利用していたからである。少なくとも、この両国経済は皇国の近隣開発の特需にあり、経済的にはまだ成長が続いていたといえたからである。
むろん、米連合国はオセニア域では先進国たる両国に接近していたが、英連邦の一員でもあり、当面は不介入を表明していた。南太平洋で、自国領たる東サモア以外では設備の整った港湾施設はこの二国しかなかったからである。オランダ領ジャワ島にはそれなりの設備が整っていたが、治安が悪く、工員も少なかったからである。もちろん、シンガポールにもそれなりの設備があったが、独立(準備)政府樹立により、英国との話し合いでは決定できない、と通達されていたからである。
皇国領となったソロモン諸島、ヴァヌアツ、ツバル、東ニューギニアは東南アジアではなく、オセニア圏に入る地域であった。そのため、皇国はオーストラリアおよびニュージーランドとの関係を重視したためと思われた。たとえ、独立したとしても、周辺国との関係が悪ければ、国として発展しないことを知っていたからでもある。もっとも、ソロモン諸島との関係は、同地域がドイツ系住民ということもあって、ギクシャクしていたといえるが、それ以外は特に問題は発生していないといえた。
もっとも、欧州や皇国に比べたら、この二国の工業力や技術力は遅れていたといえる。しかし、域内開発には多額の費用がかかることは当然であり、その費用を軽減するためには、多少性能や品質が劣っていても、安くなるほうが皇国としては助かるわけである。だからこそ、どうしても必要なコア資材以外はこの二国から導入していたのである。だからこそ、先端技術(当然として制限はあったが)の輸出も行われていた。
これら皇国の新領土となった地域で特異ともいえたのが、ニューブリテン島およびニューアイルランド島、マヌス島を含めた地域であった。皇国、否、旧日本国はこれら地域もニューギニア島東部と合わせて一つの地域とするとしたが、瑞穂州や山城州、秋津州、由古丹州が反発し、結局、特別区とすることになったのである。扶桑と名づけられたこの地域には、瑞穂州や山城州、秋津州、由古丹州から多くの移民が向かったのである。彼らの世界では第二次世界大戦で激戦地となり、多くの兵士が亡くなっていたからかもしれなかった。
当然として、移民が多ければ、開発も急ピッチで進められることとなり、大戦後五年、第三次南北戦争が終結した年をもって扶桑国として独立することとなったのである。これは、独立準備政府樹立を飛び越えての本当の意味での独立であったとされる。独立時の人口は三〇〇万人であり、日系比率は八五パーセントにもおよんだのである。皇国が直接開発にかかわったため、近隣地域とは比較にならないほど進んていたのである。彼らが経済的に自立できたのは、漁業基地と中継貿易であった。近隣開発のための基地としても栄えたからであろう。
それは、皇国本土と南太平洋の新領土間の中継貿易、皇国とオーストラリアやニュージーランドとの中継貿易であった。特に第三次南北戦争勃発により、フィリピン海やセレベス、南シナ海の一部が危険となってからは、トラック島経由でラバウル、さらにその先に至るルートが利用されていたからである。さらには、トラック島に次ぐ南太平洋一の海軍拠点が設置されていたからでもあった。最盛期には駆逐艦八隻からなる護衛隊が五個、護衛空母三隻がここラバウルを拠点にしていたのである。
史実のオーストラリアと同じく、この世界でもボーキサイトやチタンといった資源が豊富であるが、未だ開発はそれほど進んでいない。人口は約二〇〇〇万人、多くの住民は沿岸部に集中している。史実とは異なり、世界大戦で敵対していないため、皇国に対する感情はそれほど悪くはない。否、戦中戦後の皇国の政策により、どちらかといえば親日的であった。
英連邦構成国の一国で、英国の戦争時には常に参戦している。元首は英国国王(女王)であり、地位はともかくとして、英国から派遣されている総督が存在する。とはいえ、世界的には独立国として認知されていた。今次大戦においても、陸海軍で多くの戦力を欧州に派遣していたが、戦後は東南アジアの旧英国植民地に治安維持軍として兵を派遣していた。軍事的には後述のニュージーランド軍と合わせてANZAC軍と称されることが多い。
ニュージーランドも史実のニュージーランドと同じく、森の国といわれる。人口は約四〇〇万人、鉱物資源はほとんどないとされている。 英連邦構成国の一国で、英国の戦争時のいくつかに参戦している。元首は英国国王(女王)であり、地位はともかくとして、英国から派遣されている総督が存在する。とはいえ、世界的には独立国として認知されていた。今次大戦においても、陸海軍の戦力を欧州に派遣していた。
トケラウ、ニウエ、クック諸島という統治領を持つが、今次南北戦争勃発により、米連合国の監視下に置かれており、両国間の関係は悪化している。多くの国では、ニュージーランドの人口が一〇〇〇万もあれば軍事衝突が起こっていたかもしれない、といわれるほどである。とはいえ、現状では両国間で戦闘は発生していない。
オセニア圏にはフランスもいくつかの領土を有していた。ニューカレドニア、ウォリス・フツナ、フレンチポリネシアンといった地域である。なかでも、フレンチポリネシアンは米連合国がパナマを通過して東サモアに向かうには通らなければならない航路であった。しかし、大戦当時、米連合国より多くの支援を得ていたフランスはこれを認めるしかなかったとされている。
内心はともかく、フランスは寄港すら認めており、米合衆国との関係が悪化していたとされる。米合衆国としては、太平洋は自らの領域として考えていたようで、東サモアから米連合国を駆逐したい、そう考えていたようで、幾度か占領のための計画が練られていたともいわれる。パナマを通過し得ない以上、米合衆国にとってカリブ海や大西洋はそれほど食指の動くものではなかったといわれている。
そうして、世界中、特に近隣に領土を持つ各国は、自らに被害が及ばなければ、関与するつもりはなかったといわれている。もっとも、多くの国は南北戦争を文字通り、内戦であると考えていた。しかし、グアム島沖の惨事が発生したとき、欧州の多くの国が内戦ではなくなる可能性があることを知ったのである。特に、自国の船舶が攻撃を受けて撃沈されたことで、欧州戦に参戦してきた皇国を知っていたからである。しかし、今回は米連合国が謝罪したことと、米連合国が調査団を現地に派遣したことにより、回避されていた。ちなみに艦長のジョージ・W・ケール中佐は懲役二〇年の実刑判決を受け、服役中であった。
その皇国が南太平洋の新しい領土開発に乗り出しており、もしも、米連合国艦艇が皇国の商船を攻撃し、あるいは自国民に被害が出た場合、躊躇なく米連合国に対する攻撃を実施することをオセニア圏の二国は疑わなかったのである。何しろ、彼らは三年間も皇国軍将兵と付き合っており、その性質と能力をよく理解していたのである。多くの将兵は理性的であるが、ひとたび自陣営に損害が出た場合、勇猛果敢に戦うことをその目で見て知っていたのである。だからこそ、米連合国の理性的な行動を願っていたといえた。
いずれにしても、皇国の新領土開発に伴い、これまで以上に人(民間人)とモノがオーストラリアやニュージーランドに流入することとなった。しかし、彼らは礼儀正しく、勤勉であった。そうして、オーストラリアやニュージーランドは、皇国がなぜ発展しているのかを理解するにいたったとされる。少なくとも、これまで彼らが見知っていた日本人(ここでは瑞穂日本帝国人を指す)とは大きく変わっていたことを理解することとなったのである。
ともあれ、オセニア圏では皇国とこれら地域の関係は良いものであるといえた。双方ともに平等な関係であるといえた。少なくとも、オーストラリアやニュージーランドにとっては、大戦で疲弊した経済の復興に役立ち、皇国も限りある予算を投入しながらも開発は進められていったのである。こうした結果、フィリピン近海や東サモア近海を除いてはオセニア圏は安定していたといえるだろう。