東南アジアの明暗
フィリピンで戦闘が行われている頃、近隣の東南アジアはどうなっていたかといえば、一部地域を除いて安定化傾向にあったといえた。一部地域とは、オランダ領東インドである。これら地域では、南北戦争がここでも起こっているのか、と思えるほどに、オランダ軍と現地独立派武装集団との紛争が多発していたのである。なかでも、スマトラ島西北部、ティモール島、西ニューギニアでの紛争がもっとも激しいといえた。そのため、オランダ軍は一個師団では足りず、本国から一個師団の増援を送ってもいた。
終戦間もないオランダにとって、本国の再生と国体維持に莫大な費用を必要としており、ドイツからの賠償金はすぐに得られず、蘭印にまで手が回らないのが実情であったといえる。実際、近隣に植民地を持つ英仏に支援を要請してもいた。しかし、フランスはオランダ同様に国内整備と軍再編に忙しく、支援できないとしていた。唯一、大戦中も国土を維持していた英国は、軍の再編にあって支援は不可能であると断ってきていた。そうして、オランダに接触してきたのが米連合国であった。兵力的には一個旅団ほどであったが、武器弾薬においては可能な限り援助するというものであった。もっとも、交換条件として複数の港湾の使用、重油の無償提供が条件としてつけられていた。
しかし、オランダ軍が武力鎮圧しようとすればするほど、武装勢力は増加していった。特に、皇国が旧南洋領の独立準備政府樹立を発表してから抵抗が多くなったのである。対して、英国領やフランス領、特に大戦前にはあれほど独立派勢力に苦しんでいた仏領インドシナは、驚くほど沈静化していたといえた。しかも、あろうことか、仏軍兵士の指示することに唯々諾々と従っていた。
英領であった地域、ビルマ、マレーシア、シンガポール、マラヤ(ボルネオ島西部)、ブルネイは移転暦一五年の独立を目指して整備が進んでいたのである。ビルマはアウンサンが暫定首班として、マレーシアはダト・オンを暫定首班として、シンガポールはフンロンを暫定首班として、ブルネイはアマド・タジュディン王を暫定首班として、マラヤはアイビン・サラワクを暫定首班としてそれぞれ独立に向けた政府を樹立し、未だ英本国での混乱のため、皇国が代わって支援していた。
仏領インドシナ地域、ベトナム、ラオス、カンボジアは英領植民地と同じく、移転暦一五年の独立を目指して整備が進められていた。ベトナムはホーチミンを暫定首班に、ラオスはシーサワーンウォン王を暫定首班として、カンボジアはノロドム・シハヌーク王を暫定首班としてそれぞれ独立に向けた政府を樹立し、こちらも皇国が支援していた。
英仏領は五年以内の独立を約束されていたため、独立派と宗主国との間の紛争は起きていなかったのである。終戦当時は混乱と情報不足もあって、衝突はあったが、今ではそれがなくなっていた。まして、独立に向けた支援を行っているのは、自らと同じ有色人種である日本皇国であった。これら地域では、皇国が委任統治領としていた地域をわずか二〇年(彼らからはそうみえた)で、独立(準備政府樹立)できるまで育成していたことを知っていたのである。
むろん、たとえ独立したとしても、宗主国がこれまで搾取政策を取っていたため、これという産業はなきに等しかった。そのため、独立国として成立するかどうか、それを維持できるかどうかは未知数であった。それでも、独立できるという、これまでのような搾取されることはなくなる、という気持ちが大きく、希望と夢だけでそれに向かっていたといえるだろう。
これが、未だ宗主国オランダと独立派による武装衝突が多発する蘭領東インドとの違いであった。当然として、この遠因は皇国が対独参戦以前に英仏蘭に提案した、戦後の植民地独立と引き換えに植民地軍を編成する、という提案にあったことをオランダは理解していた。事実、英仏植民地軍の欧州参戦が欧州戦線に影響を与えたことも感じていた。しかし、オランダにしてみれば、英仏が本当に植民地を手放すとは考えていなかった。
まだ数十年は植民地経営が成り立つと考えており、英仏も同様に考えているだろうとして、戦前の皇国の提案を拒否していたのである。それがふたを開けてみれば、現在のようになっていた。さらに、大戦初期にバレンバンの油田施設がドイツ軍に占領され、それを皇国軍が制圧し、捕虜となっていたオランダ軍兵士を解放したことに思い当たり、独立紛争の激化の原因に思い至ることになる。見た目はどうであれ、白人たちを駆逐し、さらに別の白人たちを助けたのが有色人種であったこと、そして、宗主国たるオランダと対等に話すことのできる有色人種であったことが、彼ら独立派をオランダに立ち向かわせることになったのだと理解する。
そうして、彼ら皇国人が東南アジアに兵力を派遣したこと、宗主国の艦艇以上に優れた艦艇を有していたこと、欧州に兵力を派遣したこと、ドイツ軍の艦艇を多く沈めたことなどから、英仏は東南アジアやインドでの植民地経営が成り立たないと判断したのだろう、ということに思い至る。そして、旧宗主国と彼らの間に結ばれた通商条約、その内容を知るにつけて、英仏の真意を理解することとなった。結ばれた条約は期限付きとはいえ、不平等条約であり、英仏が実を取ったことに気づくこととなったのである。
結局のところ、オランダは先を読み違えたのだ、ということを理解したが、それは遅すぎたのである。いまさら、英仏に倣っても植民地の住民、否、独立派のリーダーたちが納得しないだろうことはわかっていた。彼らの多くは英領シンガポールやマレーシア(ボルネオ島)の住民たちと接触、さまざまな情報を得ているとされていたからである。これからの対応次第ではまだ失点を取り返せる可能性もあるはずであった。しかし、既に一部とはいえ、米連合国に使用権を与えているから、対応策は限られていた。
ではどうするか、ここでオランダが取ったのは地域の切り崩しと飴と鞭であったといえる。もっとも抵抗の激しかった、スマトラ島西北部、ティモール島、西イリアンに対しては、対話を求め、英仏に準じた通称条約の締結を迫り、独立に向けた支援をちらつかせている。期限は今後一〇年以内、太平洋での戦争が終わったら改めて協議する、というあいまいなものであった。これら地域ではオランダの求める資源は多くなかったからである。むろん、動産の持ち出しと不動産の支払いを終えるまでは通商条約の改定を行わない、としていた。残る地域でも、同様の話し合いを行っているが、こちらにはオランダの求める資源が多かった。
つまり、大戦前にはできなかったが、太平洋での戦争が発生していたことから、それを利用したといえる。動産はともかくとして、不動産に関しては、支払いが終わるまでは通商条約を改定しないという強硬な項目が追加されていたことであろう。これら地域がオランダの投じた不動産の支払いを終えるまでは、短くて四〇年、長ければ一〇〇年は要するだろうという規模のものであったからである。そうして、一時的にとはいえ、独立派との武装衝突を押さえ込んだのである。
ともあれ、こうして皇国が懸念していたマラッカおよびスンダ海峡の安全性が増すこととなった。そう、皇国が東南アジアに対する支援を行っていた理由がこれであった。貿易立国たる皇国にとって、シーレーンの安全確保は何にもまして重要であったのだ。だからこそ、内陸部であるカンボジアやラオスを含めて支援していたのである。ちなみに、その後においてはカンボジアとベトナム、インドネシアで多少問題は発生したものの、史実の東南アジア(フィリピンを除く)以上の安定した地域といえた。