南洋領独立
時間があったので書いてみました。本来の予定にはなかった章です。無理があるかもしれませんねぇ。もっと戦闘シーンを書かねば戦記とはいえません。がんばります。
移転暦一〇年六月、太平洋で多くの独立国(正確には独立準備政府設立による自治権を得ただけ)が誕生することとなった。これは、その日のうちに世界中に発信されていた。そして、多くの先進国は早すぎるだろう、と考えていた。しかし、派遣された政府関係者により、その実態が各国政府に向けて発信されている。その多くは教育水準が高く、対人的にも洗練されており、一国家として承認するに値する、というものであった。
このとき、独立準備政府が設立され、皇国より自治権を得た地域と国名は次の通りであった。マリアナ連邦共和国、ミクロネシア連邦共和国、マーシャル諸島共和国、パラオ共和国、ナウル共和国(史実では国際連盟委任統治領)、キリパス共和国(史実では英国植民地)である。実のところ、皇国政府はこれら地域の領有に魅力を感じているわけではなかった。否、早く切り捨てたいと考えていたといえる。しかし、放棄するわけにもいかなかった。
結局、早期独立に向けての関与をすることとなったのである。このあたりに皇国の国民性、生真面目で何でもやってしまう、が出ているといえただろう。それが祖国統一戦争終結後のことであった。派遣する人材にも事欠かなかったのである。その多くは北の二州から選ばれている。気候的に寒冷地である二州からはこれら地域に出ていくものが少なくなかったからである。
こうして、皇国として再出発してからこれら地域には一〇年後の独立を目指した長期的な関与が始められたのである。産業の育成、多くは水産業であり、漁業基地としての機能を持たせた、各地域で生産可能な農産物の栽培といったものであり、また、観光業をも育成していた。法律、特に刑法においては皇国でのものをそのまま適用していたが、それ以外は各地域に合わせて変更されていた。
とはいえ、皇国でも独立までは一〇年以上かかるであろう、と判断されていたが、教育、子供だけではなく、成人に対しても半強制的に行われた、により、予想以上の進捗を見せていたのである。移転暦一〇年初頭においては、貿易収支は赤字ではなかったのである。特にマリアナ連邦共和国においては、観光客が多く訪れたことから五年で実質的に独立が可能であったといえた。
また、ナウル共和国に対しては史実の二の舞を踏まぬよう注意して関与された。リン鉱石を多く産出するこの地域において、リン鉱石の採掘に注意を払い、採取量に制限が課せられたのである。史実では資源が枯渇するまではよかったが、枯渇してからは国としての成り立ちが危ぶまれていたからである。だからこそ、リン鉱石以外の産業の育成に力が注がれたといえる。この世界のナウル共和国はリン鉱石が枯渇したとしても、別の産業でやっていけるようになっていたといわれる。
この時点で、各国の首都とされた都市は、皇国の地方都市(一万あるいは五万人規模)と同様の規模であり、史実以上に発展していたといえる。中でも、マリアナ連邦共和国首都ススペは一〇万人都市であった。マリアナ連邦共和国はもっとも発展しており、他の国からの目標とされていた。しかし、国土防衛に関しては、各国とも皇国が受け持つ必要があり、負担は変わらなかった。とはいえ、この後、発生する戦争において、国防意識が芽生え、少数の軍備、多くは沿岸警備隊を有することとなる。これには、教育水準の高さが影響していたとされる。
これら各国の国旗は史実の国旗と同様であったが、左上に白淵の着いた赤丸か日の丸が入っていることが違いといえた。これには皇国は一切関与せず、国民の総意で決定されていたのである。史実の英連邦構成国の国旗にあるユニオンジャックの代わりに日章旗が入っていたと考えればいい。つまるところ、皇国がいかに独立に向けて関与したか、ということの表れであったといえる。
植民地の独立は皇国に思わぬ恩恵をもたらすこととなったといえる。世界大戦中に英国から譲渡された新たな植民地との関係が良化したからである。それら地域では独立は約束されていたが、皇国はこれら地域でもこのとき独立した各国と同様の関与をしていた。しかし、それまで英国の統治下で自由にやっていた彼らには到底受け入れがたかったのである。しかし、独立に必要な過程であると理解され、一挙に解決したのである。そうして、一〇年後の独立に向けて突き進むこととなったのである。
また、近隣に植民地を持つ英仏に与えた影響も大きい。戦後の独立が約束された上での徴兵であったが、多くの植民地住民は本当に独立できるか、と不安感を持っていたとされる。しかし、英仏は皇国のこの行動をうまく利用することに成功していた。体制が整えば、必ず独立できるだろう、と表明したのである。以後、これら地域では武装衝突が激減し、逆に武装集団を非難する事となった。その良い例がカンボジアにおけるクメール・ルージュであったとされる。
しかし、逆の効果を受けた国もまた存在する。オランダである。東南アジア地域で歴然たる植民地として存在していたオランダ領東インド、そこで独立派による武装抵抗が増大したのである。しかし、ここでオランダは対応を誤ることとなった。武力で鎮圧しようとしたのである。結果として、大戦で国庫が逼迫していたオランダに更なる痛撃を強いることとなった。頼みとする英国やフランスにおいても、戦後の混乱期であり、何もできないでいたのである。英仏では戦中に皇国のいった、植民地経営は成り立たないであろうということ、さらに独立を約束した上での徴兵に転じたことに胸をなで下ろしていた。
さらに、オランダはこの騒動の責任は皇国にあるとして責任を追及、謝罪と鎮圧の部隊派遣を要求してきた。これに対して、皇国は責任はオランダにあり、謝罪する必要はない、として部隊を派遣することを拒否している。そうしてオランダは国連に図ることとなり、この後、治安維持のために出兵したのが米連合国であった。米連合国の狙いはこれら地域で産出される資源にあったとされている。
ともあれ、皇国領は一地域を除いて特に問題もなく、順調であったといえた。これら地域は内政的にもこれといった問題はなかった。一地域、それは台湾であった。台湾では一部住民、先住民ではなく、大陸から移民として移動してきた住民、全住民の五パーセントが台湾独立を求めたのである。しかし、先住民や最近になって大陸から移動してきた住民がそれに反対していたのである。つまり、台湾州内での問題発生といえた。
台湾の多くの住民が独立に反対した理由は済州島にあった。済州島には四月時点で六五万人のユダヤ人が居住していた。旧南洋領の独立に合わせて済州島も居住していたユダヤ民族に独立準備政府の樹立と自治権が与えられたのであるが、一挙に経済が落ち込んだ、というよりも、貨幣価値が低下したのである。それまでは皇国の一地域として、貨幣価値も皇国円と同等であった。しかし、皇国から自治権を与えられたことで、皇国経済から切り離され、独自の経済を有することとなった。そして、東イスラエル国(独立後の国号)の貨幣、イスラエル円が急落したのである。皇国円との為替レートが拡大したのである。これは旧南洋領では起こりえなかったことであった。あくまでも委任統治領ということであり、東エルサレムのように経済的に組み込んでいなかったからである。
そうしたこともあり、台湾の多くの住民は独立に反対していたといえた。ちなみに、円であるが、皇国、旧南洋領、東イスラエル国、満州国で採用されていた。むろん、為替レートが異なるのは先に述べたとおりである。一応、今回新たに得た地域でも導入予定であった。中華連邦共和国でも元からの脱皮が予定されており、円採用もありえるとされていた。
ここで、一連の戦争終結後の皇国連邦構成国を挙げておこう。この時点では成立していない場合も存在する。いずれも独立後の国名を表記している。マリアナ連邦共和国(グアム島含む)、ミクロネシア連邦共和国、マーシャル諸島共和国、キリパス共和国、パラオ共和国、ナウル共和国、扶桑国(史実の西ニューブリテン州、ニューアイルランド州、東ニューブリテン州、マヌス州でブーゲンビル州はソロモン共和国に入る)、パプアニューギニア(史実の領土から扶桑国を除いた地域)、ソロモン共和国、ヴァヌアツ共和国、ツバル共和国、サモア共和国である。