移転暦一〇年皇国情勢
世界大戦中の皇国国内情勢はどうであったかといえば、常と変わらないものであった。政府および軍が臨戦態勢であったが、国民の多くには戦争をしているという感覚はなかったといわれていた。ほぼ毎日行われる会見放送も気にとめるものは少なかった。例外的に、軍人の家族のみが真剣に見ていたといわれていた。わかりやすくいえば、史実の湾岸戦争の日本国内の情勢に似ていたかもしれない。
そう、皇国本土においては戦争は初期のインド洋の制海権を得てからは遠い欧州で行われており、身近に感じることはなかったといわれている。それがもっともよく表れているのが、マリアナ諸島やミクロネシアといった地域への観光に出かける人が多くいた、ということにあるといえた。大戦末期にはソロモン諸島やニューブリテン島といった地域にも出かけていたといわれる。
統一戦争終結後の人口が二億九〇〇〇万人とされていたが、現在は三億人に迫ろうとしていた。実際のところは、すでに三億人を超えていたのであるが、旧南洋領や南太平洋の新領土に多くが移民し、人口が流出していたのである。むろん、満州国などに流れることもあったようである。その大きい理由は、それらの地域で日本語が通じる、あるいは日本語が日常的に使用されているということにあったといえた。だからこそ、気軽に出かけることができていた。
統一戦争により、各地で四万人以上の戦死者が出ていたが、多量に発生したのが戦争未亡人や戦争遺児であった。日本国はともかくとして、各地域では保障が整っておらず、少額の遺族年金だけであり、統一後の財政を圧迫する原因となっていた。さらに、史実の戦後日本と同じく、国のために亡くなった夫に忠誠を誓い、再婚しないのが美徳とされていた風潮があった。
そんな状況を変えたのが、ある民間放送局が放映した公開お見合い番組であった。もともとが、結婚できない男女のための番組であり、聨合艦隊が出現してからは、若い兵たちのためのものであったが、統一地域の壁を取り払うにはこれもひとつの方法として国家規模で行われたのである。最終的には年齢に関係なく行われ、聨合艦隊の所属将官でもカップルが誕生していたといわれる。再婚した場合、遺族年金が支払われないが、それでも再婚する戦争未亡人が多かったといわれる。むろん、賛否両論はあったが、実施された結果、多くのカップルが誕生したというわけであった。
むろん、トラブルもあったが、そういうわけで交流が進んでいき、結果として、減少していた出生率が増加することとなったのである。また、新しい地域に出て行く人々が増えたという副次的な効果もあった。そんなわけで、三億人近い人口を数えるまでになっていた。当然として、増加分のすべてが乳児であったが、それでも将来的にはよい兆候とされた。このころが、移転後の第一次ベビーブームと称されるのはこのためであった。
経済的にも戦争特需もあって、移転後すぐの経済的不況がうそのように回復していたといえた。驚くべきことに、軍用艦や軍用機、あるいは武器弾薬を製造していた企業においても軍需と民需の比率が五対五を超えることはなかったといわれている。つまるところ、国家総動員体制などとは程遠い状況であったのである。今後は別として、こうした現状が人口増加に大きな影響を与えたとする研究者もいる。
世界大戦終結による経済悪化が懸念されるが、それはすぐには起こらないという説が多い。少なくとも、皇国は勝者の側であり、中欧や東欧に影響力を駆使できる地域を多数確保していること、皇国の生産力は現状で世界一位であり、大戦で荒れた欧州復興まで日常生活用品や医薬品需要が多く考えられること、中欧や東欧の市場化が進めば継続的に利益を上げることが可能であることがその理由であった。
北米が二国に分裂しており、史実の戦後のように強大な武力外交ができないこともあり、少なくとも、欧州復興までは皇国の生産する各種物資が必要不可欠であったからでもある。だからこそ、一挙に経済が冷え込むことは考えられなかった。また、量産体制にあった武器弾薬も生産は停止したものの、余剰分は中華中央への売却、中欧や東欧への売却や供与で利益や信頼関係を築くために役立つはずであった。
大戦が終結したこのころ、ようやくという形で皇国内の整備が終わろうとしていたといえる。その代表的な例が銀行ネットワークなどの整備が終わったことにある。少なくとも、各州(大連州と済州島は除く)の銀行でカードによる引き出しが可能となったのである。旧日本国のようにすべての地域でというわけではないが、大都市や中都市では可能となっていた。ちなみに、防衛ネットワーク回線は移転暦五年に整備されていた。もっとも、コンビニエンスストアなどは未だ整備がされていなかったといわれている。
少なくとも、各州の大都市では旧日本国となんら変わらない生活が可能なまでになっていた。例外として中津島が挙げられる。ここは防衛ネットワーク回線の整備と同時に行われており、もっとも遅く着手したがもっとも早く整備が終わっていた。それほど重要な地域とされたのである。
各州で統一戦争時からもっとも発展したのが北の三州といえた。沿海州と由古丹州、樺太州である。もともとが共産主義の影響を強く受けていたこともあり、旧日本国の介入は教育面で困難さを呈していた。子供の学校教育だけではなく、成人にも教育が実施されていた。いわゆるテレビを使った通信教育である。しかし、最初に、他の州との格差を知らされた州民は、非常に熱心にそれを続けることとなった。彼らは驚くべき早さで、乾いた砂が水を吸収するように自らを変えていったといわれる。
大戦終結時には台湾州を追い越して他の三州と肩を並べるまでになっていた。それには他の地域から市民の流入を促進したことが大きいといえた。州政府が生活を保障するという形で募っていたからである。ちなみに、統一戦争後の基本労働賃金は旧日本国を一〇〇とした場合、北の三州は六〇であったが、この当時は八五までになっていた。他の三州、秋津州、瑞穂州、山城州は当初は七〇であったが、それが九五になっていた。台湾は未だ七〇であった。
大戦中に皇国軍は二〇〇万人を動員していたが、そのすべてが志願者であり、徴兵などは一切行われていない。前にも述べたように、各地域では手っ取り早く生活を安定させるためには軍人になるのが一番という風潮があったのも事実であるが、それだけではなかったとする説もある。人口比率ではなく各地で見てみると、旧日本国は五〇万人ともっとも多いのである。移転当時の自衛隊総数が二六万人であったことを考えると、いかにすごいことかよくわかるだろう。
海空のように戦力化が可能になるまで長期間必要とする部署はともかくとして、陸軍歩兵は多くの志願者を受け入れていた。それとて、一年半の教育期間が必要であった。史実の第二次世界大戦時と異なり、歩兵といえども、相応の教育期間がなければ、戦力化できないのが今の軍であるといえよう。仮に、徴兵が実施されていたとしたら、教育期間は志願者の倍以上が必要だとする説もある。
動員された兵士たちは、大戦が終結したことを受けて多くの場合は予備役あるいは即応予備役兵として今後を過ごすこととなる。正規兵として戦争に参加した兵士のうち、退役あるいは予備役編入を希望したものに代わって軍に残る兵士も少なくないが存在した。平時においては八〇万人という兵力の維持のため、戦力は削減されることとなるが、欧州駐留部隊は例外とされ、今後一〇年間は一一〇万人が維持されることが決定していた。とはいえ、この後の動乱発生により、平時体制に移行できるようになるのは移転暦一七年になってからのことであった。
平時体制とはいえ、隣の中華中央で国共内戦が続いていたことから、真の意味での平時体制とはいえない。少なくとも、皇国は中欧や東欧、東アジアにあまりにも深く関与しすぎていたため、常にいくらかの戦力は国外に派遣しなければならなかった。むろん、大規模軍ではなく、大隊規模が多かったが、時と場合によっては連隊あるいは旅団規模にまで膨れ上がることもあった。国際連合常任理事国としての努めもあり、常設軍八〇万人まで削減されることはなく、常に五万人はオーバーするという状況が続くことなっていった。