連合軍西欧解放作戦
移転暦九年九月九日、連合軍の一大上陸作戦が始まった。ノルマンディー上陸作戦および南フランス上陸作戦が行われたのである。中でも、南フランス上陸作戦はあえて隠匿することなく、その準備が進められていたため、ドイツ軍の目はこちらに向いていたといえる。結果的に、ノルマンディー上陸作戦はドイツ軍の虚をつく形となった。史実と異なり、レーダーが発展しているこの世界では隠密作戦は難しいとされていたからである。
ともあれ、両上陸作戦において第一機動艦隊および第一〇機動部隊の艦載機によるドイツ軍レーダー施設に対する○四式対レーダー誘導弾による攻撃から始まった。さらに、南フランスでは第一〇機動部隊による徹底した空爆が実施された後、コルシカ島からあらゆる舟艇を使った上陸戦が実施された。
ノルマンディー上陸作戦において、史実では米国軍が参加していたが、この世界では米連合国および米合衆国とも参加していない。それでも同規模の上陸軍が用意されたのは英仏植民地軍によるところが大きいといえる。合計で四七個師団が投入された。内訳は英国軍、カナダ軍、ヨーロッパ解放軍二六個師団、英仏植民地軍二〇個師団、皇国軍一個師団であった。航空支援には、第一機動艦隊および英国海軍一個機動部隊が、艦砲支援は聨合艦隊の一個戦艦部隊があたっていた。
南フランス上陸作戦には、英国軍一個師団、ANZAC二個師団、自由仏軍二個師団、仏植民地軍五個師団の計一〇個師団であった。航空支援には第一〇機動部隊および自由仏海軍一個機動部隊が、艦砲支援は聨合艦隊の一個戦艦部隊、自由仏海軍があたっていた。
バルカン半島では、皇国軍五個師団およびバルカン半島軍八個師団が北上を開始していた。スロベニアからは皇国軍二個師団とスロベニア軍一個師団、クロアチア軍一個師団がハンガリーに、ルーマニアからは皇国軍三個師団とルーマニア軍二個師団、ブルガリア軍二個師団、セルビア軍二個師団がハンガリーに侵攻下のである。
ノルマンディーおよび南フランス、ハンガリーへと連合軍の逆侵攻作戦が実施されたことで、ソ連領内の多くのドイツ軍はボーランドへと撤退を始めており、逆に、ソ連軍は勢いを回復しつつあり、ヴォルガ川まで進軍していた。ドイツ軍がこうも簡単に撤退していたのは、補給が途絶えたからに他ならない。侵攻軍が戦えるのは補給があってこそであり、補給が途絶えれば戦えないのが近代戦である。史実の第二次世界大戦と異なり、一九六〇年代の兵器を使用しているこの世界では、補給が途絶えた時点で戦いにならないといえた。
一一月になって自由仏軍はパリに入城し、フランス国内のドイツ軍は降伏してフランスは解放されることとなった。次いでベルギー、オランダ、デンマークのドイツ軍が降伏し、これら地域は解放されることとなった。連合軍の英軍および英国植民地軍、皇国軍はドイツへと向かうこととなった。
他方、東欧ではハンガリー、スロバキアを通過し、皇国軍および東欧軍はポーランドに入っていた。そう、彼らの目的はポーランド占領にあったといえる。ポーランドのドイツ軍は強固に抵抗していたが、武器弾薬の補給が途絶えたため、ポーランド領内からドイツ国内へと撤退していく部隊が多く見られた。彼らはドイツ国内に撤退するドイツ軍を追うことはなく、また、ソ連領内から撤退してきたドイツ軍は武装解除された後、ドイツ国内に向かうことを許していた。
その頃、英国スカバフローを出港した第一機動艦隊をはじめとする遣欧艦隊、輸送船五〇隻あまりが北海からバルト海に入っていた。彼らはドイツ沿岸部からの攻撃を排除しつつ、グダニスクへと向かっていた。そう、彼らの目的は、ポーランド領内に侵攻した皇国軍および東欧軍への補給であった。さらには、ポーランドに侵攻してくるであろうソ連軍に対する備えであった。
一二月末には、ソ連軍はウクライナまで侵攻し、更なる東進あるいは南進の構えを見せたが、その前に立ちはだかったのが皇国軍および東欧軍であった。幾度かポーランド領内に侵攻を図ったソ連軍であったが、東欧軍の手痛い反撃にあい、同じ連合軍でありながらソ連軍の域内通過を認めない皇国軍および東欧軍に対して侵攻をあきらめるほかなかった。
スターリンにとっては、自らの軍の入り込む余地のない欧州を唖然として見つめるしかなかったのかもしれない。彼の中にあっては、欧州の半分を自らの影響下に置くことを考えていたはずである。しかし、バルカン半島やポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーは既に皇国軍や東欧軍に抑えられ、それ以上西進することはできなかったのである。
しかし、ドイツ軍は未だ降伏することなく、オーストリアやドイツ国内で抵抗を続けていた。フランスから北上している連合軍も、進撃を停止せざるを得なかった。東から攻められればいいのであるが、ソ連軍と相対しているため、そう簡単に軍を動かせなかった。せいぜいがルーマニア方面から一個師団を移動させるぐらいしか方法がなかったのである。
ここでソ連軍にポーランドやチェコスロバキア、ハンガリーに進撃されることは、当初の目的である「転封作戦」を中止することになってしまうからであった。そう、「転封作戦」とは、ソ連を欧州や東欧から切り離し、黒海北岸、あるいは東岸に封じ込めることにあった。そうして、西側資本主義国家との経済的格差、技術的格差をもって二流国に貶めることにあったのである。