バルカン半島再分割
移転暦九年七月、バルカン半島では既に戦乱は終結していたといえた。皇国陸軍はモルドバ、ルーマニア、スロベニアを確保していた。占領当初、ドイツ軍は反攻を試みていたが、皇国軍が国境線から進出することがないのを知ると、当地でにらみ合いが続くこととなった。稀に小規模な戦闘が発生することはあったが、大きな戦闘に発展することはなかったとされている。
この間、皇国軍は占領地の整備に力を注ぐととなり、この月初めには皇国から外務官僚が多数同地に入り、各地域の政府あるいは指導者と会談し、域内の軍政から民政への移行を進めていったとされている。ルーマニアおよびブルガリア、アルバニアはもっとも早く内政が安定し、戦中にもかかわらず、戦争以前の状態に復帰していた。国軍も再編され、祖国防衛の任に就くこととなっていた。
次いで、スロベニアとクロアチア、マケドニアが戦前の状態に復帰しえた。ただし、民族移動の結果として、多少問題が発生していた。それでも、同じ民族であったことから、その問題も収拾していったとされる。もっとも、内政が安定するのは戦後二年を経てからのことであったといわれる。
そして、モンテネグロ、ボスニアが戦前の状態に復帰しえた。ここでも、民族移動に伴う問題が多く発生していたが、時には皇国の強硬な関与もあり、表面上は安定化にあった。クロアチアでも同様であるが、同じ民族でありながら、異なる言語を話すということに問題があったとされる。また、宗教の問題もあり、本当の意味で内政が安定するには戦後五年を経なければならなかったといわれる。
そうして、最後にセルビアが戦前の状態に復帰しえたのである。皇国が最も強く関与したのがこの国であったといわれる。この国においても、問題は同じ民族でありながら異なる言語を話していたことにあるとされている。そうした問題において、皇国は住み分けを強引に行っていったといわれる。
これら地域の国法たる憲法は戦後一〇年以内の改訂を盛り込んだ上で皇国が制定していったといわれている。むろん、反発は起きたが、戦後一〇年以内の改訂という項目により、反発は鎮まっていったとされる。なぜ、戦時中に皇国がこれを行ったかといえば、戦後に行っていれば、欧州諸国の反発が大きくなると考えたからに他ならない。戦時中であれば、欧州諸国も大きく反発はしないだろう、との考えがあってのことだったとされる。さらに、戦後一〇年以内の改訂、という項目が織り込まれていることにより、戦時中の政策であると理解されるだろうとの目論見もあった。
そうして、八月には国土に応じて、一個大隊から一個連隊の治安維持部隊を配備しただけで、残る部隊をすべて各地で補給と整備を済ませている。さらに、これらの部隊にはルーマニア軍二個師団、ブルガリア軍二個師団、スロベニア軍一個師団、クロアチア軍一個師団、セルビア軍二個師団が加わっていた。また、「伊勢」型強襲揚陸艦によるピストン輸送で、三個航空団、F-3戦闘機七二機が当地にあった。
これらはあえて隠すことなく行われ、ハンガリーやオーストリアのドイツ軍に、皇国軍による本格的な反攻準備と捉えられるにいたった。事実、これら地域のドイツ軍の動きが慌しくたっていた。しかし、皇国軍およびバルカン半島軍は動くことはなく、訓練と装備の習熟に励んでいたのである。そう、皇国軍は時期を待っていたのである。
この頃には、トルコは自国領土を回復し、ドイツ軍が黒海東岸を北に向かって撤退していたため、トルコ東部での戦闘は終結していた。このトルコ軍には皇国から新たに派遣されてきた一個旅団が参戦しており、彼らの多くは国軍司令部や現場司令部にあって顧問としての役割を果たしていたといわれる。ドイツ軍撤退後はソ連軍に対する国土防衛軍として再編が図られていた。事実、グルジアとの国境線でソ連軍との戦闘が発生している。
このドイツ軍の撤退は、黒海の制海権および制空権を失い、武器弾薬および食料などの補給が滞ったこと、バルカン半島北部で皇国軍の動きが慌しくなったことにあったとされている。それだけではなく、黒海に展開している第三機動艦隊第一小隊の空母からの攻撃をも受けていたからであったともいわれていた。当然として、米連合国からの補給を受けているソ連軍の反攻が強まったこともあっただろう。
遣欧陸軍総司令官、栗林忠治大将はマダガスカル島からの情報、英国東南アジア植民地軍およびインド軍、フランス東南アジア植民地軍の訓練終了とマダガスカル島出港、から英仏正規軍および植民地軍による一大作戦実施を確信していた。そして、簡単ではあったが作戦実施要綱が知らされるにおよんで、それに合わせて皇国独自の作戦、「転封作戦」の実施を決意することとなった。
皇国の輸送船団は、一六個師団二四万人におよぶ部隊の作戦行動のための戦略物資、弾薬および砲弾、さらには航空機用兵装の集積のため、マダガスカル島とコンスタンツァ、ブルガリアのヴァルナ、クロアチアのリエカとの間でピストン輸送を行っていた。この準備で、マダガスカル島集積物資の一/三が消えたといわれたほど、多量の物資がバルカン半島に運ばれていたのである。
第一機動艦隊も戦艦部隊とともにマダガスカル島を出港し、北大西洋へと向かっていた。そして、彼らは四〇〇隻におよぶ輸送船の護衛を行っていた。そう、彼らは史実でも行われた史上最大の上陸作戦、ノルマンディー上陸作戦に参加するため、北大西洋に向かっていたのである。さらにいえば、「扶桑」型強襲揚陸艦は既にコルシカ島にあった。こちらも史実で行われた南フランス上陸作戦に参加するためであった。
ちなみに、イタリアはこの年の七月に降伏し、イタリア本土には皇国軍一個師団、ANZAC一個師団、英軍一個師団、インド兵一個師団が占領政策のため、駐留していた。皇国軍はスロベニアから駆けつけた師団であり、ANZAC一個師団および英軍一個師団、インド兵一個師団はシチリア島から上陸してきた部隊であった。この時点で、ドイツ軍対連合軍という構図になり、ドイツ軍は窮地に立たされることとなったのである。