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英国復活

 移転暦九年初頭、陸軍遣欧部隊一〇個師団はギリシア以外のバルカン半島を掌握し、枢軸軍(イタリア軍主体)を当地から追い出すことに成功していた。スロベニアおよびルーマニアに二個師団ずつ、ブルガリア、クロアチア、ボスニア、モンテネグロ、セルビア、マケドニア、アルバニア各地に残る六個師団を分駐させていた。彼ら陸軍の航空支援についていたのは、損傷した四空母の搭載機であった。


 海軍はアドリア海に強襲揚陸艦四隻主体の臨時編成第一〇機動部隊、黒海には第一機動艦隊が展開していた。第一〇機動部隊の泊地はクロアチアのリエカ、第一機動艦隊の泊地はルーマニアのコンスタンツァとされていた。いずれも、仮設とはいえ、港湾設備が整備され、それなりに物資も集積されていた。そして、イタリア北部へ空からの圧力をかけていたといえる。


 地中海の制海権はほぼ連合軍にあり、ヴィシーフランス海軍は大西洋側で活動する艦艇に限られており、イタリア海軍は稼動艦艇が小艦艇ばかりとなっているため、その活動はなかったからである。そのため、英海軍艦艇はジブラルタルまでは何の憂いもなく航行することが可能であった。そこから英本土までの北大西洋は未だドイツ海軍潜水艦、ヴィシーフランス海軍潜水艦および水上艦艇の活発な活動があり、安全とはいえないまでも、以前に捕獲すれば損害は少ないといえた。


 英海軍は皇国から購入した、『インプラカブル』(『赤城』)、『インディファティガブル』(『加賀』)の引き渡しをもって北大西洋での反攻作戦に転する予定であり、『フォーミダブル』(『大鷹』)『インドミタブル』(『冲鷹』)の編入が完了する六月以降に連合国による大規模反攻作戦を計画していたといわれる。これには皇国から「扶桑」型および「伊勢」型と二個水雷戦隊の参加を打診してきてもいた。


 この頃、太平洋やインド洋では皇国海軍本国艦隊、いわゆる旧海上自衛隊艦艇が多く運用されていた。トラック島およびマダガスカル島には重油以外にも精製されたジェット燃料や軽油が備蓄されるようになっており、ガスタービン機関搭載艦艇でも十分運用が可能になっていたからである。そのため、聨合艦隊所属艦艇以外の艦艇もマダガスカル島まで進出できるようになっていた。その多くは「ひゅうが」型ヘリコプター空母(護衛艦から艦種変更のため、空母とされた)、「こんごう」型誘導弾搭載巡洋艦(同様に艦種変更のため、巡洋艦とされた)、「たかなみ」型駆逐艦であった。


 簡単にいえば、戦闘艦艇は五〇〇〇トン未満は駆逐艦、五〇〇一トン以上は巡洋艦、三万五〇〇〇トン以上を戦艦としていた。航空機(ヘリコプター含む)五機以上搭載可能な艦艇は大きさに関係なく空母とされていた。祖国統一戦争後、「ひゅうが」型護衛艦はヘリコプター六機を常時搭載するようになっていたため、空母とされたのである。ちなみに、「扶桑」型や「伊勢」型、の場合は兵員輸送能力が付与されているため、空母とはならない。「おおすみ」型輸送艦は常時搭載航空機がなく、あえてそのままとされていた。


 皇国の輸送船(多くは中津島海運の貨物船)は、マダガスカル島あるいは地中海、アドリア海、黒海までは常時運行されていたが、ジブラルタルや英本国までは運行されていなかった。これは第一に航路の安全性が確保されていないことにあった。しかし、この時期には英本国まで護衛さえあれば航行可能なまでになっていた。日常品や医薬品などの生活用品は米連合国あるいは米合衆国が支援しているため、皇国から支援する必要はなかった。しかし、武器弾薬、多くは対潜兵装、航空機(<シーライトニング>)などはポートサイトで下ろされ、英国の艦艇に積み替えられて英本国まで輸送されるようになっていた。


 そんな方法よりも、皇国の輸送船で英本国まで運ぶほうが効率がよいと考えられていた。むろん、英国からは再三催促があったとされるが、皇国政府が、皇国海軍からは幾度も上申されていたが、認めていなかった。ここにきて、地中海の安全性が向上し、北大西洋航路も十分な護衛さえあれば損害を受けることなく、英本国まで輸送船を送ることが可能と判断されるにいたった。とはいえ、その護衛をどうするかが問題であった。


 しかし、聨合艦隊司令部からの上申により、ある部隊が編成されることとなった。それが、遣英護衛艦隊であった。その中核は、移転してきた空母『瑞鳳』ならびに改「ひゅうが」型空母四隻、「雪風」型駆逐艦四隻、改「陽炎」型駆逐艦八隻からなり、人員には聨合艦隊所属将兵は一切含まれておらず、皇国本土(旧日本国)将兵のみによる編成となっていた。むろん、当初の上申では、聨合艦隊所属将兵と志願兵による編成となっていたが、それは却下されていた。


 空母『瑞鳳』の諸元は次のとおりであった。基準排水量一万四〇○○トン、全長二○二m、全幅水線/甲板二〇m/四○m、 吃水七m、主機三菱舶用二胴衝動スチームタービン×二基、二軸推進、出力一〇万馬力、搭載機SA1対潜哨戒機<東海>一二機、スチームカタパルト二基、エレベーター二基、武装八連装対空誘導弾発射機二基、二〇mmCIWS二基、最大速力三二kt、乗員定数五二○名というものである。


 改「ひゅうが」型空母の諸元は次のとおりであった。基準排水量一万五〇○○トン、全長二○○m、全幅水線/甲板二〇m/四五m、 吃水七m、主機石川島播磨二胴衝動式スチームタービン×二基、二軸推進、出力一〇万馬力、搭載機戦闘攻撃機六機、SA1対潜哨戒機<東海>六機、スチームカタパルト二基、エレベーター二基、武装VLS一六セル、二〇mmCIWS二基、最大速力三一kt、乗員定数五五○名というものである。


 『瑞鳳』は対潜護衛空母として改装され、運用されていたが、今回、徹底的に改装され、ジェット機の運用も可能となっている。改「ひゅうが」型空母は「翔鶴」型航空母艦四隻の編入を考慮して「ひゅうが」型四隻の対潜護衛空母への転用を図ったものである。皇国近海ではヘリコプターは搭載していたが、今回は搭載を見送られていた。それは技術流出を避けるためあった。


 SA1対潜哨戒機<東海>はロッキードS-3<バイキング>と同じコンセプトで開発され、MADと対潜魚雷を装備したもので、皇国海軍では最新鋭の艦載対潜哨戒攻撃機であった。英仏蘭に売却されていた単発哨戒機と異なり、双発と大型化した機体で、より長時間の対潜哨戒任務を可能としていた。あくまでも、対潜哨戒機として特化しているため、対空戦闘力は付与されておらず、対艦攻撃能力は付与されているが、味方の制空権支配域のみで可能であったとされている。


 つまり、当時の皇国の最強対潜護衛部隊といっても過言ではなかったのである。ちなみに、この当時、ヘリコプターは各国で開発されており、レシプロ機関搭載のヘリコプターは各種運用されていたが、ジェットヘリは未だ実用化されてはいなかった。そのため、聨合艦隊所属艦艇搭載のヘリは第一種機密事項とされていた。また、対潜ヘリコプターではなく、対潜哨戒機が選ばれたのは、より長期間の対潜哨戒を可能にするためであったといわれる。また、これまで皇国が英仏に売却していた対潜哨戒機は移転してきた九七式艦上攻撃機を改造したものであり、その性能は<東海>には遠く及ばないものであった。


 皇国が最強ともいえる対潜護衛部隊を派遣した理由は、英国への補給路の確保にあったといえる。それが、欧州戦線の早期終結につながると考えていたからであった。もっといえば、大戦後の欧州安定と貿易の確保にあったといえるだろう。戦争特需で国内経済は良好ともいえたが、戦後の経済発展には、移転前と同じく、貿易の拡大がどうしても必要であったと考えられていたのである。北米大陸は二国分裂が継続されている状況であり、しかも、準戦時中ということもあり、皇国は欧州に目を向けらざるを得なかったのである。


 中華大陸は未だ国共内戦中であり、到底輸出は望みえない、北米も先に述べた状況であり、もっとも可能性のある地域はどこか、といえば、やはり欧州しかなかったのである。皇国としては、長期戦が必至と見られる中華中央や北米よりも、短期決戦と思われる欧州を選択したということになる。事実、中東では米連合国や米合衆国の支援もあって、ドイツ軍の勢いは殺れつつあり、欧州戦は集結に向かうだろう、というのが皇国や英国の見解であった。


 皇国にとってはソ連の勢力拡大だけはなんとしても避けたいところであったといえる。北米が移転前と同じであれば、ソ連の増長は東西冷戦、という形であっても押さえ込めるだろう、と思われるが、二国分裂している北米の状況を考えれば、ソ連の一人勝ち、という事態も起こりえたからである。かといって、北米の代わりを皇国がするつもりは毛頭なかった。北米が無理であれば、英国にやらせよう、という考えがあったのかもしれない。


 事実、戦後一〇年間は欧州各国に進出した英国軍がソ連を押さえ込み、それ以降は欧州各国で形成された北大西洋条約機構がその役目を担うこととなった。そして、バルカン条約機構が東欧で、東アジアでは東アジア条約機構がそれを担うこととなった。中東では、アラブ条約機構の形成を考えていた皇国であったが、こちらは不成功に終わっている。これは米連合国があっさりと同地域から撤退したからであろうと思われた。このうち、バルカン条約機構と東アジア条約機構では、当初の目論見とは異なり、戦後三〇年、皇国が中心とならざるを得なかった。英国が部隊展開を拒んだからであった。


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