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東欧戦線

 移転暦八年一二月八日の史実のユーゴスラビア地域降伏により、ギリシア以外のバルカン半島占領を成しえたが、皇国はあえて軍政を敷くことはしなかった。翌年一月にはルーマニアおよびブルガリア、アルバニアが対独宣戦布告することとなった。しかし、ドイツ領への侵攻は行わず、防衛戦に徹することとなった。遅れてユーゴスラビア地域においても、対独宣戦布告することとなったが、皇国はあえて関与していない。史実でも、ユーゴスラビアは日独伊三国同盟に一度は参加し、最終的には離脱し、中立国宣言していたからである。


 ともあれ、皇国はまず当時存在していたスロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア(ヘルツェゴビナ)、マケドニアに分類し、人種ごとに移動させていた。スロベニアにはスロベニア人、クロアチアにはクロアチア人、マケドニアにはマケドニア人、モンテネグロにはモンテネグロ人、ボスニア(ヘルツェゴビナ)にはボシュニャク人、セルビアにはセルビア人が集められる形となっていた。


 そのため、史実とは異なる国境線が敷かれている。もっとも早くに確定したのがスロベニアとクロアチア、マケドニアであり、次いでモンテネグロであり、ボスニア(ヘルツェゴビナ)、最後にセルビアという形であった。とはいえ、言語による区分も加わり、完全な民族移動が行えた、というわけではなかった。この区割りの上で各地域に対独戦あるいは対ソ戦に備えた軍備を再編させている。


 この頃、イタリアではついにローマが陥落、政府は北のミラノへと移動していた。そして、東欧のバルカン半島が皇国の占領下に置かれたことで、ドイツ軍のトルコ方面、しいては黒海東岸での戦線にも影響を及ぼし始めていたのである。黒海の制海権および制空権が皇国の手に移ったことで、輸送ルートが陸上になったこと、ソ連軍の本格的な反攻が始まったことで、ドイツ軍はカスピ海方面でひと時の勢力を失いつつあった。


 とはいえ、北海や北大西洋では未だドイツ海軍の勢力は強かったといえた。それは英国海軍所有の「イラストリアス」空母が損傷するということにも現れていたといえる。これら二隻の空母は<シーライトニング>の引き取り輸送任務に向かうため、スカバフローを出てすぐに、ドイツ海軍潜水艦の水中発射誘導弾の攻撃を受け、大破したのである。スカバフロー基地に近かったことからかろうじて沈没を免れ、無事帰還している。しかし、これで英国海軍は熟練の機動部隊を一時的であれ、失うこととなっいたのである。


 他方、アドリア海を遊弋していた第二機動艦隊も悲劇に襲われることとなった。英国機動艦隊を襲ったのと同じ誘導弾攻撃を受け、『赤城』『加賀』がいずれも中破し、『大鷹』『冲鷹』がいずれも大破したのである。さらに、対地支援のため、二機艦と行動をともにしていた戦艦『榛名』『霧島』が同様の攻撃を受け、いずれも小破という損傷を受けたのである。戦艦と元が戦艦であった空母が損傷が軽かったのは装甲の有無にあったかもしれない。


 攻撃した潜水艦は駆逐隊によって最終的に撃沈されたが、これら駆逐艦においても、誘導弾発射まで気づかないほどであった。損傷を受けた六隻はマダガスカル島まで後退し、同地のドックと同地にあった工作艦『明石』によって修理を受けることとなった。その間、アドリア海に派遣されたのは「扶桑」型強襲揚陸艦であった。先に述べたように、このときの「扶桑」型二隻は空母としての役目を課せられており、二隻合わせて二四機と少ないが、戦闘機が搭載されていたためであった。


 ここで持ち上がったのが、『赤城』『加賀』『大鷹』『冲鷹』の英国への売却および譲渡であった。『赤城』『加賀』は船体に損害はなく、レーダーや通信機器などの電装品が損傷を受けており、修理期間三ヶ月、『大鷹』『冲鷹』は水線上の船体に穴が開いており、修理期間六ヶ月というものであった。それでも、「イラストリアス」型の修理期間一年に比べれば遥かに短い時間で復帰できるからであろうと思われた。


 結局、『赤城』『加賀』の電装品は英国製のものへと換装されて引き渡されることとなり、『大鷹』『冲鷹』も船体の修理と同時に、電装品が換装されることとなった。ちなみに、マダガスカル島には四万トンの乾ドックが一棟完成しており、当地で本格的な修理が成されることとなった。もっとも、オープン式であるため、機密保持が不可能であったとされる。


 後日談であるが、『赤城』『加賀』はたった二ヶ月という期間で修理を終えており、『大鷹』『冲鷹』も本国からの部品搬入もあって五ヶ月で修理を終えて英国に引き渡されている。これには皇国海軍艦艇の多くが、電装品はユニット式とされていたことがその理由とされていた。実は、聨合艦隊所属将兵は電装品の扱いに不慣れであるため、習熟訓練中はよく破損させていたのである。ために、欧州派遣前には整備が行われた際、ユニット式に改められていたのである。


 結果として、第二機動艦隊の中核を成していた空母乗員は客船で本土に帰還することなり、護衛艦艇も一時母港に帰還することとなった。代わりに、「翔鶴」型航空母艦『翔鶴』『瑞鶴』からなる第三機動艦隊が派遣される予定であった。ちなみに、この「翔鶴」型航空母艦は排水量はともかくとして皇国海軍最大の艦艇といえる。その諸元は次のとおりである。基準排水量六万二○〇〇トン、全長三二〇m、全幅水線/甲板四〇m/七六m、 吃水一一m、主機石川島播磨二胴衝動式スチームタービン×四基、四軸推進、出力二八万馬力、搭載機戦闘攻撃機七二機、対潜ヘリコプター四機、早期警戒管制機四機、スチームカタパルト四基、エレベーター四基、武装VLS一六セル二基、二〇mmCIWS二基、最大速力三五kt、乗員定数四六○○名というものである。


 諸元から見てもわかるようにほぼ「キティホーク」型に準ずる大きさを誇る。また、性能的には技術格差の分だけ向上していた。しかし、問題はまったくないわけではない。それは運用面での実績が皇国海軍にはほとんどない(聨合艦隊機動部隊は除く)ということにあった。いずれにしても、戦後の皇国海軍にあって、主力航空母艦といえ、事実、以後の航空母艦設計に多大な影響を与えている。この「翔鶴」型以降は原子力空母が主流となっていった。その面でも、史実の米海軍最後の通常動力航空母艦となった『キティホーク』と似ているといえた。


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