黒海へ
この世界ではドイツ軍はバルカン半島に進撃してはいなかった。変わりに進出していたのはイタリア軍とドイツ人将校に率いられたルーマニアおよびブルガリア、ユーゴスラビア軍であった。ギリシアでは英印軍が奮戦し、枢軸軍の南下をかろうじて拒んでいたといえた。彼らの奮戦はエーゲ海の制海権を英海軍が確保していたことにあったといえる。米連合国のレンドリース法の適用により、何とか確保されていたというのが実情であった。皇国が、否、聨合艦隊が地中海戦線に参戦してからは、その勢力が増していたといえる。
他方、トルコはどうであったかといえば、黒海南岸地域はドイツ軍に占領されていたが、アナトリア半島では未だドイツ軍に対する抵抗は続いていた。ドイツ軍による傀儡政権が枢軸側に組してはいたが、元からの政府はそれをドイツ軍による陰謀だと主張していたのである。とはいえ、欧州からも孤立し、彼らを援助する国はないとドイツ軍には思われていた。しかし、支援する国は存在したのである。それが皇国であった。
移転暦八年六月中旬、第二海兵旅団第二一連隊はダーダネルス海峡を、第二二連隊はボスポラス海峡を確保することに成功していた。「扶桑」型強襲揚陸艦および「おおすみ」型輸送艦一〇隻はマルマラ海にあり、周辺に対する備えとされていた。このとき、「扶桑」型強襲揚陸艦は一部空母として運用されていたのである。一艦あたり一二機と少ないが、MzF-1<シーライトニング>戦闘攻撃機を搭載していた。MzF-1<シーライトニング>は瑞穂重工が英国向けに生産している機体で、BAe<ライトニング>のパーツを六〇パーセントも使用しているものであった。
MzF-1<シーライトニング>とBAe<ライトニング>のもっとも大きな違いはエンジンを縦二段重ねから横二列置きに変更されたこと、空気取り入れ口が機首から胴体横に移されたこと、主翼配置が中翼から低翼配置になったことであろう。判りやすくいえば、胴体部分はF-5<フリーダムファイター>に似ていたといえる。兵装は各種選択して四五○○kgまで可能であった。この機体は英国軍に好評をもって迎えられた。設計図があれば自国でも簡単に製造できたからである。移転暦一〇年には設計図とライセンスを含めて英国BAe社に売却されている。
そうして移転暦八年九月一〇日、遣欧艦隊は一隻あたり一五〇〇人の陸兵が乗った輸送船五〇隻を伴って、ダーダネルス海峡とボスポラス海峡を通過して黒海へと入ったのである。この当時、黒海には有力な艦艇がなく、ソ連の建造していた巡洋艦数隻と駆逐艦が二〇隻ほどあったが、いずれもドイツ軍に徴収され、運用されていた。しかし、その多くは対艦というよりも、沿岸部への砲撃が主な任務であったとされている。ドイツ軍にしてみれば、これまで自由に海上輸送を行えていたのが、制海権を消失することになれば、それが不可能になる事態であった。
黒海に入った聨合艦隊の目的はふたつあったといわれている。ひとつは黒海の制海権を確保し、ドイツ軍の海上輸送を遮断すること、もうひとつはバルカン半島の確保であった。バルカン半島の確保といっても全域を確保するものではなく、ルーマニア、ユーゴスラビア、ブルガリアの三国の確保にあった。特にルーマニアのモレニ油田を押さえることは、ドイツの継戦能力を殺ぐ重要な作戦であった。
さらに、ドイツ軍の圧力を退けてソ連が戻ってきても、これら地域をソ連の影響下に入ることを阻止するためのものでもあった。ドイツが敗れるということは、ソ連が息を吹き返すということであり、中欧や東欧にソ連の影響が及ばないようにするために、必要な作戦であるとされたのである。当然として、西欧の影響下ではなく、皇国の影響下に置くことを目的としてもいた。これは、極東でソ連軍が行動を起こした場合の備えとされていたのである。
だからこそ、遣欧艦隊全艦が黒海入りしたといえた。生半可な戦力では目的が達成できないとわかっていたからである。また、ウクライナの造船所において、ドイツ潜水艦が建造されている可能性もあり、これらの襲撃を避ける意味もあった。そして、黒海に入った機動部隊からは偵察ポッドを装備した<流星>が護衛付きで各地に向かったのである。偵察機の多くはルーマニアおよびブルガリアの黒海沿岸に向かったが、ルーマニアの首都ブカレスト、ブルガリアの首都ソフィアなど一部内陸部にも向かっていた。
そうして九月一五日、「転封作戦」が実施されることとなった。ブルガリアのブルガスに航空支援の下、一個師団の上陸が開始されたのである。ほぼ一日遅れてブルガリアのヴァルナ、ルーマニアのコンスタンツァに二個師団ずつ計四個師団が同じように航空支援を受けて上陸したのである。ルーマニアのコンスタンツァでは、航空支援だけではなく、戦艦部隊の艦砲射撃による支援も行われている。いずれの地においても、装備の技術格差により、一日で橋頭堡が確保されることとなった。
ルーマニアのコンスタンツァに上陸した部隊の目標はピテシュティ、プロイェシュティの製油所の確保とドイツ軍の駆逐であった。ここはドイツ軍にとっても重要拠点であり、抵抗が大きいため、徹底的な航空支援が実施されている。ブルガリアのヴァルナ、ブルガスに上陸した部隊は同国の確保と陸路からの南部ルーマニアへの侵攻であった。むろん、たった五個師団で制圧できるものではないことは判っていたが、二週間後には後続の五個師団が加わる予定であった。
この頃には、太平洋、東シナ海、南シナ海、マラッカ海峡およびスンダ海峡、インド洋の安全化が成されており、皇国の中津島海運以外にも多くの民間船会社が遣欧艦隊への補給物資の輸送を行っていた。また、オセニアの船会社も日英仏問わず、多くの貨物輸送に乗り出していたといえる。航路の安全化が成されつつある現在、彼らにとっては稼ぎ時であったということである。おかげで、皇国からの補給物資の輸送は予定よりも大幅に向上していたといえる。
そうして、このときにはマダガスカル島のマルアンツェトラは一大物資の集積所と化していた。ために、当初から欧州への物資輸送を担っていた中津島海運は、もっとも危険な(とはいってもかなり安全化が成されていた)地中海東部とエーゲ海、ダーダネルス海峡、マルマラ海、ボスポラス海峡を航行するだけでよくなっていた。スエズ運河の通過に時間を要するため、すばやくというわけではないが、黒海に展開中の部隊への補給が行えるようになっていた。ちなみに、艦隊への補給はほぼ安全とされているマルマラ海で行われ、上陸部隊への補給はそれぞれ上陸地で行われていた。