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地中海戦線

 チュニス攻撃はジャカルタ攻略戦と同じように、対レーダー誘導弾によるレーダー施設の破壊から始められたが、異なる点がひとつあった。それは一二機と少ないが、航空機による迎撃を受けたことであった。マルタ沖で空海戦が行われており、当然の結果ともいえた。その機体はレジアーネRe.2009戦闘機であった。推力六〇〇〇kg級のエンジンを搭載した単発機で、最高速度はM一.六を発揮する機体であった。もっとも、搭載誘導弾の性能差によってすべて撃墜していた。


 ○四式誘導弾により、三ヶ所のレーダー施設を破壊した後、○六式空対地誘導弾による対空誘導弾施設、対空機銃陣地の攻撃が行われ、その後は通常爆弾による周辺軍事施設攻撃へと移行した。ここでいう軍事施設とは滑走路や格納庫、燃料タンク、兵舎などであった。攻撃隊は二四機と少数であったが、搭載爆弾は一三.二トンにもおよんだ。しかし、この攻撃は後に行われる砲撃に比べれば微々たるものであったといわれている。


 その後、戦艦部隊の三五.六cm砲一六門による艦砲射撃が行われた。この艦砲射撃は先の航空攻撃が児戯に等しいと思われるほど過激なものであった。そうして、第二海兵旅団六〇〇〇名の上陸へと移ったのであるが、ほぼ無血上陸に近いものであった。上陸後一日で港湾を中心に半径一〇kmを確保し、橋頭堡を築くことに成功していたのである。この時点で、チュニス近郊にはまだ六万人近いイタリア陸軍が展開していたといわれるが、上陸部隊は橋頭堡の維持と整備に当たり、それ以上進撃することはなかった。


 上陸軍による橋頭堡の確保を見届けた機動部隊は、マルタ島西沖五〇kmを北上し、シチリア島のパレルモ、ラグーサ、カターニアといったイタリア軍の主要拠点を空爆している。これら地域には、八隻の空母から延べ三波、合わせて一一五二機による攻撃が実施された。その爆弾投下量は六〇〇〇トンにも達していたといわれる。


 機動部隊はちょうどマルタ島を一周する形でポートサイトに帰港している。そうして、休息を取ることもなく、マダガスカル島から二〇隻の輸送船によってピストン輸送され、ポートサイトの一角に山積みされていた補給物資を搭載し、一週間後には再び出撃していったのである。攻撃目標は、イタリア本土各地の主要軍港およびドック施設であった。


 これら港湾やドック施設への攻撃は徹底して行われ、レーダー施設の破壊も実施されている。初期の攻撃には通常爆弾はあまり使われず、○六式空対地誘導弾による攻撃が五割を占めていたといわれている。また、第一あるいは第二機動艦隊に護衛された戦艦部隊の艦砲射撃も実施されていた。これは、誘導弾では費用対効率が悪いためであり、当然として、破壊力が誘導弾の比ではないことから行われたものであった。


 その後、機動部隊は補給を済ませると、サルディーニャ島およびコルシカ島の主要拠点の攻撃に向かっている。これは、地中海航路の安全化のためにはどうしても必要とされていたからである。シチリア島、サルディーニャ島、チュニスを連合軍の影響下に置き、航空部隊あるいは艦艇部隊を置くことにより、地中海航路の安全が確保されるからであった。


 この間、戦艦部隊から分離された第二六駆逐隊およびシンガポールから進出してきた英東洋艦隊隷下の駆逐艦(日本から購入した「みねぐも」型護衛艦)に護衛された、輸送船四〇隻に分乗した英陸軍一個師団および英領植民地兵一個師団三万人が、その一〇日後には同じ部隊に護衛された自由仏軍一個師団および仏領植民地兵一個師団三万人がチュニスに上陸していた。


 さらに、北アフリカチュニスのイタリア軍降伏後は英正規軍一個師団に植民地兵二個師団、計四万五〇〇〇人によるシチリア島上陸作戦が実施されている。このシチリア島上陸作戦を実施する頃には、ジブラルタルとポートサイトの航路の安全性が増していた。既にサルディーニャ島には英軍一個師団およびANZAC(オーストラリアおよびニュージーランドの軍を指す)二個師団による上陸および占領が行われていた。


 むろん、イタリア海軍も手をこまねいてはいなかったが、皇国海軍機動部隊によるタラントなど主要海軍基地を攻撃され、さらには対艦誘導弾による艦艇攻撃の結果、稼動艦艇が激減し、英仏軍輸送船団を攻撃することが不可能であった。唯一可能であった潜水艦による攻撃も、第二六駆逐隊と英第六二護衛隊(「みねぐも」型による部隊)によって撃沈破され、被害を増やすばかりであった。


 イタリア海軍だけではなく、ヴィシーフランス海軍も多くの艦艇を失い、トゥーロン軍港は既に廃墟と化していた。コルシカ島には自由仏軍正規兵一個師団と植民地兵三個師団が上陸占領し、南フランスに対する圧力をかけようとしていた。


 移転暦八年八月、南部地中海の制海権および制空権は連合軍側が掌握し、四月以前に比べれば遥かに安全性が増し、英本国とポートサイト、中東間の航路が確保されていた。未だ、枢軸軍の潜水艦による被害はまれに発生するが、それも確実に減りつつあった。そして、地中海航路の安全性が増すということは、英国の継戦能力が回復しつつあるということになる。もっとも、ジブラルタルから向こう、北大西洋や北海の制海権はまだ確保されていないことから、輸送船の被害は頻出していたといえる。


 そうして、九月、ついに皇国独自の作戦が開始されることとなった。もっとも、それは既に始まっていたといえる。五月、チュニス上陸戦後、同地にあった第二海兵旅団が英仏軍と交代する形でポートサイトに移動、一週間の休息後、「扶桑」型強襲揚陸艦および「おおすみ」型輸送艦で地中海を北上し、エーゲ海へと向かった。


 この世界でも、トルコは親日国であった。そして、ドイツに屈する形で枢軸側に参加していた。しかし、皇国の対独参戦後、密かに接触があり、皇国の援助を求めていたのである。皇国は援助の見返りとして、ダーダネルス海峡とボスポラス海峡の皇国の監視下に置くことを求めていた。そして、第二海兵旅団は両海峡の確保のため、北部トルコに向かった。


 ダーダネルス海峡とボスポラス海峡はよく知られているように、黒海とエーゲ海を繋ぐ唯一の海峡である。ここを自由に通行できれば、黒海側からバルカン半島、ドイツ軍が支配しているウクライナやクリミア半島、さらに東のグルジアなどに攻撃を加えることが可能であった。制空権を確保できれば、バルカン半島や黒海沿岸部に睨みを利かせることが可能であった。


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