英仏蘭情勢
組織的におかしいと指摘を受けました。ご意見ありがとうございました。いずれ修正したいと考えています。
移転暦八年初頭のイギリスの海軍力はといえば、この世界に出現した当時に比較すれば、約五〇パーセントまで落ち込んでいたといわれる。戦艦は五隻、空母は正規空母が三隻、護衛空母が一〇隻、重巡洋艦八隻、軽巡洋艦一○隻、駆逐艦六〇隻というところであった。特に戦艦は六隻が、正規空母は七隻が、重巡洋艦八隻が、軽巡洋艦一二隻が、駆逐艦は八○隻が撃沈破されていたといわれている。
この被害の多さはドイツの使用する誘導魚雷の性能を過小評価し、自らの対潜装備のヘッジホッグDの能力を過大評価していたことにあったといえた。結果として、開戦三年目末には約半数の艦艇を消失することとなった。また、近接防御兵器が一二.七mmCIWSと四○mm機関砲だけであったことで、対空誘導弾網を潜り抜けた誘導弾に被弾するケースが多かったのである。
この前年一〇月、開発中であった三〇mmCIWSの完成により、対艦誘導弾からの被害は激減した。また、皇国から提供されたMAD技術により、潜水艦の発見率が上昇し、被害は減少傾向にあった。とはいえ、誘導魚雷対策は未だ進んでいなかった。しかし、魚雷の有効射程外で潜水艦を探知攻撃することを徹底するしか方法がないといえた。
さらに、緒戦での輸送船の被害の大きさから資源の流入が滞り、国内での艦艇建造が追いつかない状況だったのである。頼みの米連合国製艦艇は性能的に劣っており、十分な効果を発揮し得なかった。そんな状況下にあったときに、皇国からの対潜専用護衛艦供与および売却の話であった。「みねぐも」型駆逐艦というその艦艇は、英国にとっては救いの艦艇となった。ディーゼル機関を搭載していながらも二八ktの速度が出せ、アスロック対潜ロケットランチャーが二基装備されていたのである。
英国は八隻の供与艦とは別に二四隻を購入し、シンガポールで受領している。英国がもっとも喜んだのが、対潜ロケットランチャーに搭載される誘導魚雷であった。これらの艦艇や対潜誘導魚雷は皇国でも技術的に遅れていた沿海州や由古丹州での建造であったが、それでも、英国にとっては初めての誘導魚雷であった。多くの誘導兵器は皇国軍が装備するものよりはダウングレードされていた。それは何も技術流出を恐れたためではなく、英国製艦艇の装備する機器に合わせてのものであった。
インド洋の制海権は皇国の参戦もあって確保されていたが、北大西洋や地中海の制海権は未だ枢軸国が確保しており、その方面では未だ反攻は不可能であったといわれていた。反撃に転ずるにはこの二地域での制海権確保がどうしても必要であった。が、艦艇不足もあって作戦実施は困難であった。
陸軍は多くがエジプトや中東にあり、少数がジブラルタル、マルタにあった。そう、マルタはまだ陥落していなかったのである。しかし、補給が滞っており、十分機能しているとは言い難かった。補給には多大な損害をだしていたからである。幸いにして、陸上部隊への補給は米連合国から成されており、十分であった。
英本土が未だV-1やV-2の攻撃を受けており、その迎撃にも対処しなければならず、対独反攻は難しいといえた。反攻のためには、海空の戦力がどうしても必要だった。陸上兵力については、皇国から提案のあった、独立を前提にした植民地軍派遣が進められていたが、空海軍についてはそういうわけにもいかなかった。それなりの教育水準と訓練期間とを必要とするからであった。そのため、もっとも望ましいのが皇国海軍の欧州派遣であり、米連合国の本格的な参戦であったといえた。
東南アジアや中国には合わせて二個師団三万人があったが、戦後のことをにらみ、これら地域の軍を動かすことはなかった。むろん、皇国の横行を恐れてのことといえた。しかし、最盛期に比べれば、その数は半減しているといえた。それほど、英本国の事情が逼迫していたといえる。それでも、米連合国や米合衆国と異なり、皇国の信用度はましていたといえた。
もっと深刻なのがフランスであっただろう。フランス本土はドイツ軍の影響下にあり、軍人の多くがヴィシーフランス軍に残っていた。そのため、自由フランス軍の陸軍兵力は数が限られていた。インド洋の植民地軍が皇国に敗れたことで、自由フランス軍へと加わってきたが、それでも戦力は微々たるものであった。皇国の提案による東南アジア地域の植民地軍編成には同意したものの、未だ訓練中であり、戦力化はもう少し時間がかかる。
海軍艦艇の多くはヴィシーフランス側に付き、自由フランス軍では乗員も少ないことから運用を停止している艦もあった。しかし、東南アジアにあった駆逐艦数隻と護衛空母一隻は貴重な戦力であった。ではあったが、欧州戦線への投入は避けられた。任務の多くは仏領インドシナからの植民地軍の輸送船護衛に当てられていた。
また、今は大戦中であり、欧州戦線に目が向いているためにそう大きな問題とはなっていないが、戦後に最大の問題とされるのがマダガスカル島についてであろうことは双方にとってわかっていたことであった。むろん、マダガスカル島の開発が進められるにしたがい、自由フランス側は返還するつもりがないのではないか、そう疑う人間が多くを占めていた。
仏領インドシナには合わせて一個師団一万五〇〇〇人があったが、これら地域は以前から独立紛争が続いており、独立を前提とした植民地兵の徴収には素直に応じていたといわれる。それと同時に、域内での独立紛争は下火になりつつあった。それは自由フランスにとっては最良といえる出来事であった。これまでの労力がなくなりつつあったことも、いくつかの正規軍を欧州に派遣することが可能であったからである。
オランダ亡命政府は英仏とは異なり、独立を前提とした植民地兵の徴兵には応じなかった。そのため、ドイツから奪還した蘭領東インドはスマトラ島東部の皇国軍駐留地以外で独立紛争が再燃し、あちこちで紛争が起きており、英仏とは異なり、多くの将兵が死傷していたといわれている。そのため、大戦前には二個個師団あった兵力が消耗していたといえた。実に五〇〇〇人が任務につき得ない事態となっていた。
海軍においては、オランダ東洋艦隊は東南アジアでの対独戦でほぼ壊滅状態であった。そのため、イギリスにある亡命政府の元にはせ参じたのはわずかに駆逐艦四隻であった。いずれにしても、皇国は戦後の問題発生に備えた体制作りを行う必要がある、と強く感じていたようである。戦後、オランダ軍が派遣されてくると、入れ替わるようにバレンバンの製油施設がら撤退しているのがその証ともいえた。
いずれにしても、三国ともそれぞれの問題を抱えており、戦中戦後の混乱期に英仏はかなりまともな対応をしたのに対して、オランダはより大きな混乱を招くこととなった。そして、東南アジアどころか世界の主流から外れることとなっていく原因でもあった。というのも、戦後の混乱により、オランダの国庫は逼迫し、その後は世界に目を向けることが不可能であったからである。