祖国統一戦争
移転暦二年二月、その日、日本の広い地域、一部離島を除いた地域で震度三の妙に間隔の長い地震の発生が確認されたのは未明であったとされている。こうして自衛隊にとって長い一〇ヶ月が始まることとなった。一夜明けたその日、極端に電波量が増大し、航空自衛隊は樺太島南部、北海道稚内および根室半島、九州北部で複数機による領空侵犯に相次いでスクランブル発進することとなった。さらに、日本海北部や西部、太平洋側根室沖、対馬沖では領海侵犯が相次ぐこととなり、海上自衛隊ではなく、海上保安庁所属艦艇による対応が多く成された。静かだったのは、紀伊半島沖だけであった。
もっとも、専守防衛を謳っているわけで、先制攻撃を行うことはなかった。そうして、翌日に気付いたときには南樺太、稚内北部、根室半島、国後島および択捉島、対馬に上陸侵攻されていた。現場の自衛隊部隊は上からの命令、監視と情報収集に徹していたといわれる。第二次世界大戦以来始めて自国領土が侵略されることとなった。この期におよんでも、件の防衛大臣は対話で解決を、と言い張って自衛隊による防衛戦は発動しなかった。
ここにいたって総理大臣である件の元都知事は防衛大臣を更迭、新たに政権交代前の自民党で防衛大臣を務めた防衛大学出身の議員を据え、領土確保と撃退を指示することとなった。新防衛大臣は戦時体制への移行を宣言し、自衛隊員による警察権、一般警察官(海上保安庁を含む)よりも上位に位置する、を発動させ、陸海空三軍による反撃、そして、戦力増強に必要な戦力として、即応予備自衛官の招集すら発動することとなった。
こうして、一九四五年八月一五日の第二次世界大戦終結以来の戦時体制に移行した。自衛官戦力のすべての投入という、総力戦ともいえた。自衛隊においては志願制であっても志願者を訓練もなく戦場に投入することはありえない。結果的に、現自衛隊戦力が枯渇した時点で日本の継戦能力は消失し、敗北することとなる。また、今次の戦いにおいては戦力を集中することはできず、分散させられてしまったのである。
幸いだったのは、相手の装備がいずれも一九五〇年代のものであり、相手の本拠地が近在であった、ということに尽きる。そして、限定的とはいえ、宇宙からの目があったことが自衛隊にとって有利に働いた、といえるだろう。制空権を確保することができ、艦対艦ミサイルあるいは地対艦ミサイル、空対艦ミサイルなどによる攻撃が可能であったことが人員不足を補うことができたといえた。
まず最初に終結したのが北海道根室半島と国後島および択捉島で発生した戦線であった。この相手、後に日本民主共和国と判明する、との戦いは、主に航空自衛隊であったといえる。千歳所属の第二航空団隷下の第二○一飛行隊のF15J/DJ、三沢所属の第三航空団隷下の第三飛行隊のF-2が、日本民主共和国のMiG-19<ファーマー>およびMiG-21<フィッシュベッド>と空戦を繰り広げたのである。とはいえ、ほとんどがミサイル戦であった。MiG-19およびMiG-21は移転前でも名機とされ、F15やF-2といえど有視界の格闘戦では苦戦することはわかっていたからである。
当然として、浜松基地所属の第六○一飛行隊(警戒航空隊)のE-767が派遣され、その管制下において戦っていた。空戦において、最終的にMiG-19およびMiG-21撃墜数は都合一二〇機を越え、被害なしという結果で終わっている。制空権を確保した航空自衛隊は次いで、日本民主共和国主要軍事施設を爆撃する。多くは港湾施設であり、そこに駐留する艦艇であり、陸海司令部施設であった。
そうして、室蘭に進出していた第一護衛隊群に護衛された「おおすみ」型輸送艦三隻による九個中隊の上陸作戦、第二次世界大戦以来の侵攻作戦が実施されるにいたった。制空権を失い、多くの艦艇すら失い、軍事拠点を失った日本民主共和国は降伏することとなった。陸戦においても、装備の差が一方的な戦闘を陸上自衛隊上陸部隊に行わせたのである。開戦以来三ヶ月目のことであった。
元都知事は戦後処理において、かって第二世界大戦の敗戦時に日本が経験したことをそのまま要求した。ただし、占領軍は置かれず、政府から官僚十数人、自衛隊から一個大隊の監視要員を派遣するにとどめている。未だ、各地で戦闘が継続しており、日本民主共和国だけに対応していられなかったことが最大の原因であった。
次いで戦闘が終了したのは樺太島および稚内で発生していた戦線であった。この相手、後に日本人民共和国と判明する、との戦いも航空自衛隊が主役を務めることとなった。こちらには、千歳所属の第二航空団隷下の第二○三飛行隊のF15J/DJ、三沢所属の第三航空団隷下の第八飛行隊のF-2が、日本人民共和国空軍のMiG-19<ファーマー>と空戦を繰り広げたのである。結果は日本民主共和国との戦闘と同じように進んだ。ただし、空戦において第二○三飛行隊のF15Jが二機撃墜されるという被害を出していた。幸いにしてパイロットは脱出、負傷するも命には別状がなかった。
このとき、第二○三飛行隊および八飛行隊が相対したのはMiG-19が二〇〇機であり、ミサイル戦の最中、格闘戦に持ち込まれたのがその原因であった。とはいえ、圧倒的な技術力の差で自衛隊側が有利に進めたのは間違いはなかった。制空権を確保した後、空爆を開始したのである。しかし、日本人民共和国は容易には降伏することはなく、最終的には政府中枢が所在する施設を爆撃するにいたる。さらに上陸部隊、一二個中隊が首都と思われる都市の占領後、やっとという形で降伏することとなった。
これら北の二国はいずれも共産主義国家であった。しかし、一方の場合、共産主義国家に移行して一〇年と過ぎてはいなかった。移転前の日本国と同じく、第二次世界大戦に敗北後、ソ連の影響を受けたということであった。それ以前においては形こそ違えど、議会制民主国家であり、資本主義陣営に属していたとされる。他方は三〇年近いソ連の影響下から離脱しようとしていた。ともあれ、北の脅威を排除した日本は西に目を向けなければならなかった。そこでは、未だ戦闘が起きていたからである。しかも、二国間というわけではなかった。
北の弧状列島最西端の島、後に山城帝国と判明する、その西の島、後に瑞穂日本帝国と判明する、との戦争に日本国の領土である対馬が巻き込まれるという形であった。対馬から両国軍を撃退した後は日本はあえて介入することはしなかった。そう、この日本にとって妙な状態が本土たる北海道を侵略した北の二国との戦闘に多くの戦力、否、戦略物資、弾薬や燃料、ミサイルなどを回すことができた原因であった。この時点で、多くの武器弾薬製造会社は二四時間創業に入ってはいたが、すべての戦線をまかなえるほど製造できてはなかったのである。
しかし、両国の戦闘における被害、ミサイルや砲弾が対馬を襲い、人的被害が出るに及んで、元都知事は介入を決意する。ではあったが、両国は日本の提案を無視する形で戦闘を継続していた。結局のところ、戦争が始まり、二国間において戦闘を停止させよう、とする意思がなければ、対話など成り立たないということになる。結局、武力介入を行わなければ解決ができない、という場合もあったといえるだろう。
ここに投入されたのは、航空自衛隊では都築基地の第八航空団隷下の第三○四飛行隊のF15J/DJおよび第六飛行隊のF-2、新田原基地の第五航空団隷下の第二○二飛行隊のF15J/DJ、第三○一飛行隊のF-2であった。海上自衛隊では舞鶴の第三護衛隊群であった。陸上自衛隊は中部方面隊から第一三旅団、西部方面隊から第四師団および第八師団であった。
ここで第八航空団および第五航空団が相手にしたのは山城帝国のダッソーミラージュIIICJであり、瑞穂日本帝国のBAe<ライトニング>であった。いずれも西側の機体であり、性能的にもソ連のミグ(MiG)よりは優れていた。が、攻撃兵器であるミサイルの性能が優劣を分けたといえた。介入後一ヶ月で山城帝国は降伏し、日本の支配下に入ることとなった。
他方、瑞穂日本帝国は抵抗を続けた。これまででもっとも大きい領土を持ち、軍の規模が大きかったからである。ではあったが、ここでも技術格差が徐々に現れ、二ヶ月後には降伏することとなった。きっかけは、瑞穂日本帝国を秘密裏に出港した駆逐艦が五隻からなる艦隊を第二護衛隊群が発見、これを拿捕したことにあった。このうちの一隻にかの国の皇族に連なる人物が乗艦していたのである。これを聞いた同国は戦闘を停止し、あっけなく降伏したのである。
こうして二月に起きた地震以後、発生した一連の紛争は九月には終結したのである。しかし、日本にとっての厄災は終わってはいなかった。紀伊半島沖の島が動き出したのである。領空侵犯をしてきたのはF-106<デルタダート>であった。しかし、かの国、後に秋津共和国と判明した、とは大掛かりな戦闘行動は起こらなかった。亡命してきたパイロットによれば、最近になって軍事クーデターが発生したということであり、彼はクーデター以前の執政者からの書簡を持っていた。
日本は武力介入、制空権の確保を達成すると空対地ミサイル、レーザー誘導弾による軍事クーデター派の軍事施設への空爆を実施している。そうして、一ヶ月で戦闘は終了することとなった。むろん、日本側も衛星情報や通信傍受によってある程度の情報は得ていたとされる。その結果としての武力介入であった。元都知事にとっては、日本の安定のために必要とされる手は批判を受けようが、実施することに何のためらいも感じていなかったとされている。
この一〇ヶ月に及ぶ武力衝突によって、自衛隊からは二五〇人近い殉職者と重軽傷者約五〇〇〇人が出ており、損失破も艦艇二隻、航空機一二機、戦車一〇両などが発生している。また、各国合わせて四万人を超える戦死者と二〇万人を超える負傷者が発生してもいた。日本の数字が極端に少ないのは単に、五〇年以上に及ぶ技術優勢であったことによる。また、対戦国のいずれも国土が焦土と化すまでの総力戦を望まなかったことが日本の犠牲者が少なかったことにもなっていた。
しかし、一般国民からは一万人を超える死者と一〇万人以上の負傷者が、それ以前に女性防衛大臣により、国防の矢面に立っていた海上保安庁からは六○○人近い犠牲者と艦艇一〇隻が失われていることを忘れてはならない。これに対して、国民の怒りは初動において自衛隊に戦闘を命じなかった政府、もっといえば、件の防衛大臣に対して向けられることとなった。一般国民に多くの犠牲者が出たこと、また、武器弾薬の製造が遅れて戦闘が長引いたことが後の軍備増強において、国民の賛意あるいは黙認を生むこととなった。
持つべきものを持たなければ、また的確に運用しなければならないほど、この世界は危険である、と国民が悟った一件でもあった。また、明らかに侵略の意思を持つ国に対して、対話での解決などありえない、ということを日本国民に知らせる一件でもあったといえた。そうして、自衛隊という組織に対する見方を変える一件でもあった。殉職した自衛官の多くが一般国民を守るためであったことが女性週刊誌や各種メディアで明らかにされたからである。
後に、移転後二年目の二月から一二月にかけて起きたこの戦争は祖国統一戦争と称されることが多い。これは対戦国のいずれもが、主義こそ違え、大和民族であったことが原因であろうと思われる。そう、対戦相手はいずれも日本人であり、日本語を話す人々であったことに起因する。原因は不明であったが、いずれの国においても祖国全土がこの地に現れたわけではない。日本を除けば、北の二国が全土であるといえるが、主義の異なる日本が他に存在していたという。しかし、この結果として、日本は政治的にも軍事的にも大きく変わることとなったといえた。
相変わらず、戦闘シーンがかけません。下手ですよね。この後は書き込めるようにがんばります。