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欧州事情

 移転暦八年初頭、西欧でまがりなりにも独立を保っていた、ドイツの影響を受けないでいた地域はといえば、イギリス、スペイン、スイスくらいであった。それ以外の地域では、侵略を受け、あるいは親独政権が発足しており、ドイツの影響を強く受けていた。ソ連ですら欧州域の半分をドイツの直接支配下に置かれていたといえるだろう。


 ではあったが、地中海東部、もっといえば、スエズ運河を英国が確保しているため、ドイツも多くの天然資源の本国への搬入が遮断されていた。スエズを確保するために大西洋を回って差し向けた戦力、空母一隻を有する機動部隊であり、ヴィシーフランス軍の空母二隻からなる機動部隊であった。同時に地中海からも空母二隻からなる機動部隊を派遣するはずであった。それが、皇国海軍第一機動艦隊により阻止されることとなった。


 とはいっても、欧州中原ではドイツの勢力は衰えることはなかった。燃料油は陸路で確保されており、陸上兵力や航空兵力は十分稼動可能でであったからである。イタリアをたきつけて北アフリカ中央部への進出も果たし、占領下の東欧で軍を再編し、ギリシアに侵攻しようとしていたのである。それが、皇国によるインド洋の制海権確保により、部分的に計画に齟齬をきたすこととなったといえる。


 しかし、欧州のドイツ支配体制に問題がなかったかといえば、そうではなかった。あまりにも急激に支配下域を増やしたため、域内で諸問題が発生していたといえる。それは支配下全域に目が行き届かない、ということにあった。事実、フランスにおいては対独レジスタンスが、ソ連領内においてもバルチザンが活動していたのである。


 技術的に似通った、通信技術が進歩し、ほぼどの家庭でも電話がある状況では少人数での国家の支配は不可能だといえる。ソ連や東欧ではまだ普及していなかったともいわれるが、それでも、難しいといえた。皇国と異なり、通信を傍受したり、規制できる技術はまだない、そんな状況では不可能だといえる。技術格差が大きく開いていたら、史実の一九四〇年代の欧州と東南アジア地域のように、それこそ可能であったかもしれない。


 それでもドイツが西欧地域を支配下におくことができたのは、史実のようなユダヤ人虐殺など行っていないからだといえた。否、ソ連のほうがユダヤ人に対する扱いはひどいといえた。彼らにおいては、ロシア帝国時代からの影響があったといえたかもしれない。シベリア鉄道での利用を皇国が認めさせなければ、利用することは不可能であったかもしれない。


 ともあれ、オランダ、デンマーク、ポーランド、オーストリア、チェコスロバキア、ハンガリーといった中欧地域や東欧地域は完全な支配下にあり、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、バルト三国といった北欧地域は完全とはいえないまでも域内で反乱が起こるような状況ではなかった。フランスだけがレジスタンスによる抵抗を続けていたといえる。このとき、自由フランス軍の根拠地はフランス領北アフリカであり、レジスタンスに対する支援は地中海沿岸、大西洋沿岸から行われていた。


 ヴィシー政権下のフランスはソ連領内に陸空戦力を派遣しており、国内には兵力はほとんどない状態だといえた。ドイツやヴィシー政権が兵の自由フランス側に移動するのを恐れたためであろうと思われた。地中海沿岸の軍港ツーロンでは独製艦艇の建造も行われていた。しかし、資源の不足からあまり進んではいなかった、とされていた。戦後、これはサボタージュではなかったかとの疑念を抱く学者もいる。


 イタリアは地中海の制海権維持と独製潜水艦や駆逐艦などの建造、北アフリカ中央部からエジプトへの侵攻を担っていた。当然ながら、中欧への陸軍戦力の派遣も行っていたが、国内は必ずしも一枚岩というわけではなかった。反ムッソリーニ派が多く存在したが、ドイツが勝っている現状では表に出ることはなかった。独自作戦として、ユーゴスラビアなど東欧のアドリア海沿岸へと侵攻していた。


 つまり、イタリアは勝馬に乗っているだけ、といってもよかった。仮にもドイツが負け続けるようなことがあれば、イタリア国内の勢力がどう変わるか不確定なところもあった。それでも、全体的に見れば、ムッソリーニ派が多くを占めていた。しかし、ドイツ軍の情勢によってはどう転ぶかわからないというのが連合軍側、というよりも英国の見方であった。


 英国は唯一国家としてドイツに抵抗できうる国として戦力を保っていた、といえる。開戦翌年の英本土防空戦をしのぎ、その後のV-1、V-2による攻撃も凌ぎ、ドイツによる英本土侵攻を阻止していた。しかし、自らの誘導技術(対空誘導弾の性能はドイツを上回っていた)を過信のあまり、ドイツ軍による艦艇攻撃(魚雷や艦対艦誘導弾)は防ぎきれず、多くの艦艇を失っていた。特に、対潜装備がヘッジホッグや対潜ロケット弾では多くの潜水艦に対応できないでいた。ドイツの音響誘導魚雷には対処しきれなかったことも被害を大きくしている原因であった。


 最近は皇国から技術導入したMAD搭載の対潜哨戒機(MADと機上レーダーを搭載した九七式艦上攻撃機)と護衛空母により、改善されてはいたが、初期に撃沈された艦艇の損失が尾を引いており、ドイツ潜水艦による通商破壊は防ぎきれず、国内生活は窮乏していたといえた。それでも、対独戦の士気は衰えることはなかった。


 英国を救っていたのが、未だ参戦していないアメリカ連合国とアメリカ合衆国の支援であった。特に、アメリカ連合国のレンドリース法による艦艇や武器弾薬の援助と日常生活用品や医薬品の供与が命をつないでいたといえた。チャーチル首相はアメリカ連合国に対して対独参戦を要請しているが、ルーズベルト大統領は首を縦に振ることはなかった。


 ドイツもその辺は理解しているらしく、決してアメリカ連合国の輸送船や護衛艦艇を攻撃することはなかった。皇国の参戦に二度と同じ過ちは繰り返さないようにしていると思われた。だからというわけではないが、英国としては、皇国に対する支援要請も行っていた。いわく、ニューギニア島東部(史実のパプアニューギニア)、フィジーやツバル、クック諸島の統治権の委譲などである。とはいえ、これら地域はソロモン諸島(ドイツ領)やアメリカンサモア(アメリカ連合領)に近く、皇国としても安易に了承できるものではなかった。


 つまるところ、欧州の多くの国は、ドイツの支配下を逃れ、英国やカナダに亡命政府を樹立、対独宣戦布告を行ってはいたが、英国とフランスを除いてまともな戦力は有していなかった。英仏に倣えば、オランダとて二〇万人程度の戦力は整えられたはずであるが、植民地経営を手放す意思表示はしなかった。これが後にオランダをさらに疲弊させることとなるのである。


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