マダガスカル島にて
お盆なので連投です。その後は間が開くかもしれませんが。戦闘シーン少なくて申し訳ないです。欧州大戦ではあまり被害が出ないかもしれません。
マダガスカル島は皇国軍にとっては、それほど苦痛を感じる場所ではなかった。その最大の理由が米、である。ここでは米が栽培されており、種類が異なるとはいえ、米食が可能であったからであろう。少なくとも、白米に焼き魚、卵焼きといった和食が可能であった。もちろん、味噌や海苔といった食料はなかったが、それでも兵たちには喜ばれた。
本土からの援軍が到着次第、最初に行われたのは捕虜の収容施設の建築と整備であった。もっとも、独軍人用であって仏軍は拘束されなかった。自由フランス軍に参加することを表明したものは後に北アフリカ戦線へと派遣されていったからである。
次いで行われたのが、港湾施設の修復および改修であった。仏軍が使用していたアンツィラナナは修復と宿泊設備が実施され、マルアンツェトラには本格的な港湾設備が造成されていった。つまり、大艦隊駐留に可能なように、かつ、将兵の休息地なる施設が作られていったのである。この時点で、皇国軍は欧州まで進出することはなく、インド洋の制海権の確保と維持、中継地としてのマダガスカル島の整備と維持にあった。
艦艇の多くはジャカルタからマルアンツェトラあるいはアンツィラナナまでの航路護衛任務、哨戒任務と出撃していった。北部インド洋を押さえたことで、イギリス領の中東から石油が提供されるようになり、艦艇や自動車(多くはディーゼルエンジン車であり、重油での行動も可能であった)の燃料には不足しなかった。もっとも、航空機用燃料であるジェット燃料は本土で生成されたものを運んでいた。JET-B(JP-4)規格が使用されており、国外では入手できないからであった。
島民との関係もフランス時代とは異なったものとされた。何しろ、米を主食とする共通の食文化を持っていた。また、簒奪ではなく、米を有償で購入したこともあり、島民との関係は急速に良化方向に向かうこととなった。数種類の日本米が持ち込まれ、栽培を薦めてもいる。こちらのほうが値段が高くなるということで、島民たちも受け入れたのである。
結果的に、皇国が望む農産物がいくつか持ち込まれ、生産されるようになっていくこととなった。漁業においても皇国の技術が導入され、それなりの漁獲量を上げることができていた。そういったこともあり、終戦直前には気候的に生産できないものや漁獲できないもの以外は当地で入手できるようになり、駐留軍の食料は九〇パーセントがマダガスカル島産で占められることとなった。また、こういったことが島民の食料事情に大きな影響を与えたといわれている。
民間人も多く進出し、食料加工や繊維生産などを始め、島民の雇用も活発化し、島民の中には会話のための教育を望むものもおり、日本語教育を始めていた。皇国の考えとしては、現地で入手可能であれば、現地で入手するという考えであった。そのほうが価格が安く、短期間で済むからである。こういったことから、民間工場の多くがマダガスカル島に進出することとなった。戦後においても、安い労働力で生産でき、それを輸入できれば、という考えがあったと思われた。
皇国はマルアンツェトラ近郊の電気やガス、水道などのライフラインの整備を強力に進め、二年後には皇国の地方都市と同様の生活ができるまでになっていた。アンツィラナナとの間には道路網の整備を急ぎ、通信回線の設置も急がれ、一年後には地上での連絡も可能となり、通信も可能になっていた。結果的に、古くからフランス軍が駐留していたアンツィラナナよりもマルアンツェトラが発達することとなり、後に最大の人口を有する都市となるきっかけを作っている。
マダガスカル近郊のレユニオンやモーリシャス、セイシェルなどには新たに自由フランス軍に加わったマダガスカル島駐留部隊が派遣され、一応の影響下に置かれることとなった。こうして、インド洋からドイツ軍の排除が進み、制海権の確保も進んでいった。少なくとも、皇国が掲げていた当初の目標は達成されつつあったといえる。
たとえ、インド洋にドイツ海軍艦艇が残っていたとしても、燃料や武器弾薬が底をつけば、頻繁に起こっていた通商破壊すら困難になっていたといえる。インド洋で活動するドイツ海軍の燃料油供給地となっていたスマトラ島が皇国によって確保されており、周辺海域では日英仏蘭による対潜作戦が実施されている状況では、ソロモン諸島との連絡も不可能であったからである。ちなみに、英仏蘭に売却された空母は旧『蒼龍』を除けば撃沈されていたが、既に独海軍潜水艦の多くが撃沈破されており、こちらも制海権を確保していたといえる。
これで、オーストラリアやニュージーランドからスエズまでの航路の安全はほぼ確保されたといえた。しかし、英国にとっては、地中海の制海権が確保されておらず、本国と中東の航路は未だ安全とはいえなかった。北大西洋や中部大西洋では下火になりつつあったが、独潜水艦による通商破壊が実施されており、フランスの大西洋沿岸部がドイツ占領下にあったため、本国近海の制海権はまだ確保されていない状況であった。
英本国がもっとも必要とする燃料油が地中海経由ではなく、喜望峰回りであることが、重大なネックとなっていた。地中海東部は英国が制海権を確保していたが、この年に入ってイタリア軍の北アフリカのチュニス上陸を許し、アレキサンドリア近海にも独伊潜水艦が出没していた。枢軸軍が北アフリカに目を向け始めていたのである。
ともあれ、皇国は役目を果たし、インド洋から独軍を一掃しつつあった。そして、英国が今最も必要としている東南アジアの資源、オーストラリアやニュージーランド軍の派遣をほぼ安全に行えるようにしていたのである。英国としては北アフリカの枢軸軍の撃破とともに、地中海の制海権確保を成しえたいとして、皇国海軍の地中海への派遣を望んでいたといわれる。
なぜなら、英国首相チャーチルがアメリカ連合国に働きかけていても、まだ参戦がなかったからである。むろん、レンドリース法の適用により、船舶や武器弾薬の供給はあっても、戦力化が進んでいなかったのである。人がいないためであった。そして、英国とフランスは皇国の提案による兵力増強を図ることとなった。それが東南アジアの植民地軍の編成と欧州への投入であった。
その中継点と訓練地として選ばれたのがマダガスカル島であった。ここでの訓練なら、植民地から徴兵した兵に銃火器を与えても反乱が起きることはなかったからである。そうして、戦後の独立を約束した上での兵力増強が始まり、二〇万人近い兵が集められたのである。英国はインドやシンガポール、マレーシア、ビルマ、ブルネイ、マラヤ(ボルネオ島西北部)であり、フランスはカンボジアやラオス、ベトナムであった。オランダはこれには応じていない。
これがアメリカの参戦なき欧州の戦いを変える原因となった。むろん、訓練が終わったとしても組織だった戦いをできるわけではなく、軍としては教育を受けた英国軍や皇国軍にはるかに劣るものであった。しかし、これまで植民地とされてきた地域にとっては、戦後とはいえ、独立が約束されたのである。その意思は訓練を超えるものがあったとされている。多くの人間が祖国誕生という夢に向かって戦っていくのである。
もっとも、これが後に東南アジアでの戦乱を招くことになるとは皇国ですら予測し得なかった、否、予測はされていたが、防ぐことはできなかったといえる。特に、オランダ領東インドが問題となったとされ、スマトラ島西北部、ティモール島、西ニューギニアで激しい独立戦争が起こることとなる。これら地域は後に独立を果たすが、オランダから独立後は内政的にもっとも安定した地域となるのである。
陸上戦力が不足していた英仏にとっては、大きな戦力となったといえる。英軍に組み込まれた植民地兵の多くは、中東や北アフリカ戦線、イタリア戦線で、自由フランス軍に組み込まれた植民地兵は、北アフリカ戦線で戦うこととなる。そう、一部を除いては欧州本土で戦うことはなかったのである。これは、植民地兵に本国で戦わせることを良しとしなかったためであろうと思われた。むろん、それでも戦力は少なかったが、ないよりはましであるという考えがあった。
ともあれ、こうして連合軍の反撃準備が進められていくこととなった。アメリカ連合国軍あるいはアメリカ合衆国軍が参戦していればまた違った結果であっただろう。しかし、参戦なきこの世界では、この方法しかなかったとされ、後に、英仏においてはこの決断が欧州あるいは祖国を救う一端であったとする研究者も多くいたといわれる。また、教育期間を十分に取ったことが最大の要因として挙げられてもいたといわれる。