ソロモン諸島
移転暦七年一〇月、マダガスカル島攻略から半月後、第二機動艦隊と第三艦隊によるソロモン諸島攻略作戦が実施されることとなった。目的は東南アジア域でのドイツ軍壊滅、であった。同地域での独潜水艦の活動を阻止し、南シナ海やセレベス海、ジャワ海などの安全化を確保するためであった。第一機動艦隊の活躍を知った第二機動艦隊の将兵は自分たちも必ず任務を達成する、と士気が高かった。
攻略部隊は主島であるガダルカナル島の攻略のみ目指していた。潜水艦による情報収集の結果、ガダルカナル島以外にはたいした戦力が配備されていない、と判断されたからである。早朝の強行偵察、それに続く航空攻撃、戦艦による艦砲射撃、そして上陸作戦という流れで行われる予定であった。中津島の聨合艦隊司令部では攻略まで一週間を要すると見込まれていた。
そして、強行偵察が実施されたが、ここで早くも作戦に変化が訪れることとなった。偵察の結果、島には戦う意思がないかのごとく、いたるところに白旗が掲げられていたのである。三川軍一海軍中将は航空攻撃の中止と対話を決めた。航空機一四四機を上空に待機させ、大胆不敵にも旗艦『鞍馬』を港湾沖に接近させ、国際周波数による通話を試みたのである。
そうして、上陸作戦実施部隊のうち、一個大隊を先遣隊として上陸させ、事情確認に充てたのである。その結果、判明したのは同島には民間人五万人と予備役部隊一〇〇〇人のみが滞在していることが判明した。港湾近くにあった軍司令部は破壊されており、破壊を免れた燃料タンク群も空であることが確認された。
皇国軍に対して、予備役兵は武装解除に応じ、島にあったすべての武器(といっても旧式の小銃や軽機関銃、迫撃砲といった歩兵用だけであった)を引き渡し、民間人の命の保障とハーグ条約に基づいた捕虜としての待遇を求めてきた。これに対して、皇国は当然のこととして応じた。さらに、自主的な情報提供を要請している。
予備役兵最高位のハンス・ミュラー大佐によれば、正規軍は皇国が参戦を表明してすくにここを引き払い、マダガスカル島に向かったという。残されているのは第一次世界大戦を経験し、その後、予備役兵となったものと四〇歳以上の民間人、多くは反ヒトラー派の技術者とその家族だけであるという。そうして、三日間の調査の結果、彼のいうことが実証されることとなった。こうして、ソロモン諸島攻略は達成され、念のため、一個大隊の駐留が決定されることになった。
彼らの要請により、ライフラインの確保を図った皇国であったが、水道以外の不備が判明し、原因は石油がないことによるものと判明した。バレンバンからの重油搬入とともに島は以前の姿を取り戻すこととなった。重油を用いた火力発電設備があり、全島への電力が供給され、ガスが供給されると、瞬く間にライフラインが復活したのである。さらに、マダガスカル島で捕虜となった民間人二〇〇人も全員がこの地に移動させられ、戦後まで暮らすこととなった。マダガスカル島に滞在していれば、フランス地の間で戦後問題となると考えられたからである。
結果として、ソロモン諸島は皇国の監視下に置かれるも、日常生活は早い時期に回復されることとなった。これにより、南西太平洋からもドイツ軍が一掃され、皇国の東南アジアおよび南西太平洋の安全化という目標は達成されることとなった。これら域内には未だドイツ兵が潜んでいる可能性も考えられたが、艦艇を攻撃するような勢力は存在しないとされた。こうして戦いは欧州に限定されるかに思われたのである。
戦後の一時期を除いて陸軍一個大隊が常駐するが、海軍や空軍は常駐しない。多くの住民は戦後もドイツに帰還することなく、この地に留まることとなったが、これは戦中の皇国の対応によるところが大きいとされている。戦後の混乱の続くドイツ本国からの移民もあり、皇国の諸州やアジア、主に中華中央からの移民もあり、戦後一〇年には五〇万人まで増えることとなった。
もっとも、皇国としては領土的野心はなかったが、というよりも、そんな余裕はなかったといえる。統一戦争後、真の意味での国内統一は未だ成されてはいなかったからである。本土と外州との経済格差が埋まるまで、戦後一〇年を要すると考えられていたからである。実際のところは、その国民性もあって、第二次世界大戦後五年、移転暦一五年には経済格差はなくなることになる。
そういうわけで、当時の皇国には新たな領土はなんとも喜ばしいものではなかったのである。しかし、終戦後の戦勝国会議において、中部太平洋の皇国委任統治領に加え、パプアニューギニアやツバル、バヌアツなどの領土を得ることとなった。これら地域は後に皇国の影響下での独立、日本皇国連邦を構成することとなる。
ソロモン諸島はその位置条件から第二次世界大戦後、ガダルカナル島は皇国にとって重要な戦略拠点となる。それ以降は日本軍が駐留することなく、独立後は小規模ながらも陸海空三軍を有することとなるのである。もっとも、軍事予算が国民総生産高に占める割合は一パーセントに満たない。位置関係からいえば、皇国よりもオセニア圏に近いことから、軍事的にはANZACの一員として扱われることが多く、装備の統一化などが進んでいる。
戦後、ドイツ系移民を中心にして諸島全域の開発が行われ、オセニア圏ではオーストラリアやニュージーランドに次ぐ文明国足りえたのは、その住民性にあったとされる。戦後一〇年、ついには独立を果たし、日本皇国連邦構成地域となるが、日系比率は最も少ない地域であり、三〇パーセントに満たない。とはいっても、オセニア圏では技術力の高い地域といえるまでになる。
近隣のパプアニューギニアや扶桑国と異なり、皇国が内政や外交に関与することはなく、ドイツ系住民を中心にして発展することになる。しかし、パプアニューギニアからの資源輸入による製造業が発達し、オセニア圏では皇国的な国家として知られることとなる。また、ツバルやバヌアツといった皇国連邦構成国の軍事面での代役を成している。
なお、フィジー諸島や西サモア、クック諸島が英国から譲渡される予定であったが、フィジーは住民の反対で、西サモアとクック諸島はアメリカ連邦国の反対により取りやめとなっている。