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対独参戦

 移転暦七年二月、皇国政府が最も恐れていた事件が相次いで発生することとなった。シンガポールからトラックに向かっていた、中津島海運(この地に現れた大日本帝国聨合艦隊に徴用されていた特務艦艇、民間船の乗員たちを救済するために設置された会社)所属の貨物船『竜王丸』(五〇〇〇トン型)が、国籍不明潜水艦から雷撃を受け、沈没した。次いで、スエズから長崎に向かっていた同海運所属の貨物船『日章丸』(一万トン型)が寄港先のセイロンを出港後、独仮装巡洋艦の砲撃を受けて沈没した。秋津島からバンコクに向かっていた貨物船『亜細亜丸』(一万トン型)が南シナ海南沙諸島で独潜水艦に雷撃を受けて大破した。


 この独艦艇による皇国船籍の船舶に対する攻撃の報は、瞬く間に欧米に知られることとなったが、以後、英仏からの参戦要請が相次ぐこととなった。英国からは欧州大戦勃発後、幾度となく参戦の要請はきていたが、皇国は自らが被害を受けていないことから不介入としていた。国内では参戦反対、の声が一部でとはいえ、大きかったからでもある。


 こういった皇国内の情勢は当然ながら欧米にも伝わっていた。そのため、英仏は、せめて武器弾薬の供与だけでも、とトーンを落として皇国に申し入れていた。当然として、ドイツ政府にも伝わっていた。そうした結果として、ドイツは皇国が被害を受けなければ参戦しないだろう、とのことからこれまで皇国に対する攻撃は控えていたといえる。


 ドイツにとっては、皇国からの物資援助が欧州大戦に影響を与えていることを考慮しなければならかった。予定であれば、欧州戦はとっくに終結させ、ウラル山脈以西のソ連を手に入れているはずであった。ところが、未だ欧州では英国が抵抗を続けており、フランスも抵抗を続けていた。この影に、皇国の援助物資があったことを考えなければならなかった。


 ドイツ、否、ヒトラーにどのような思惑があったのかは不明であるが、欧州から遠く離れている皇国に何ができるのか、考え違いをしていたのも事実であったのかもしれない。戦後のドイツ軍幹部の多くは、皇国が本格的に参戦するのに一年と考えていたことを証言している。皇国からの支援が途絶える一年間で欧州戦を終結させる予定であり、その後に皇国に対応するはずで会ったとしている。


ソ連においても、軍はウラル山脈を越えることなく抵抗を続けていた。このソ連の善戦、これはアメリカ連合国の援助があったればこそ、といえた。米連合国国はチャーチルからの援助要請により、中東への物資援助を続けていたが、ドイツ軍が中東を支配すること恐れ、ソ連への物資援助をも認めさせていたのである。これが、バクーの油田を失ってもソ連軍が戦えている理由であった。


 皇国国内でも、政府の反対を押し切ってまで民間メディアが欧州に人を派遣し、欧州の情報を伝えていたため、リアルタイムではなくても情報が得られていた。しかし、このドイツの政策転換により、それらの記者たちとも連絡が取れなくなっていたことが判明するにおよび、考えが変わりつつあったといえた。


 前政権で与党の一つであった党の女性党首は野党となっても、戦争反対、対話による解決を、と公言して戦争反対運動を煽ってはいたが、国民の考えは確実に変わりつつあった。その表れの一つが、聨合艦隊の再編を容認したことにあった。もっとも、反対の多くは旧日本国だけであって、諸州では件の党は票を伸ばすことができず、弱小化の傾向にあったといえる。


 平和ボケしていた旧日本国国民においても、この世界では持つべきものを持たなければ強国に支配されてしまう、ことが判ってきていたといえた。遠くはあったが、欧州でそれが起こっていたからである。そう、ドイツによるヨーロッパ支配が旧日本国の国民の意識を変えさせていったのである。フランスやオランダをはじめ、北欧の国が実際にその支配下に置かれている現実があったのである。


 当然として、これら艦船に対する攻撃に対して、皇国政府はドイツ政府に強い抗議と謝罪を求めた。これに対するドイツの対応はなしのつぶてであった。ドイツは皇国が参戦しないだろう、と考えていたのかも知れなかったが、四月の国会で対独参戦が可決され、一〇日零時を期限とした最後通告がドイツに発せられることとなった。


 同時に陸海空三軍による戦争計画会議が招集されることとなった。会議には聨合艦隊司令長官、山本五十六海軍大将も参加していた。会議に先立つ前、山本大将は部下から上申のあった計画を海軍の統括意見とすることを海軍本部において提案していた。


 こうして決定した戦争計画により、皇国は体制を整えることとなる。しかし、戦争計画が出来上がっていたとはいえ、実際に戦時体制に移行するにはそれなりの時間を要する。それはドイツにおいても同じであっただろうと思われる。ちなみに、史実の第二次世界大戦においてアメリカ合衆国が真の戦時体制に移行するのに要した時間は一年であったとされるが、皇国においてのそれは、軍上層部では半年とみられていた。


 理由として、統一戦争後にそれほど時間を過ぎていなかったこと、聨合艦隊の艦艇更新を進めていたこと、英仏蘭満中各国に対する武器弾薬の援助が行われていたことがある。統一戦争で近代戦を経験していたことは、国内に戦争経験者が多くいた(皇国形成各州を含む)ことで部隊編成がスムーズに行われることとなった。聨合艦隊再編による艦艇建造や兵器製造ノウハウが得られていたこと、英仏蘭満中各国に対する援助によって、製造管理能力が向上していたため、短期間での戦時体制移行が可能と考えられていたのである。


 将兵の戦力化が早く進むということは、即応予備役兵が多数いたこと、彼らの多くが統一戦争で戦いを経験していたことがあげられる。また、聨合艦隊所属艦艇の乗員に対する習熟訓練期間が多く取れたことにより、彼らの時代からすれば四〇年先の武器に慣れたことも大きいだろう。少なくとも、習熟訓練が行われていなかったら、彼らをこれほど早く戦力化することは不可能であっただろうと思われた。


 移転暦七年四月一五日、皇国はドイツ第三帝国に対して宣戦布告することとなり、駐日独大使には出国を命じ、駐独大使にはドイツを離れてスイスに向かうよう命じている。この報は一日とおかず、世界を駆け巡った。こうして、欧州大戦は世界大戦となったのである。そうして、英仏蘭三国に対してはある提案をしていた。それは、東南アジアやインドの戦後五年以内の独立を承認する代わりに、人口に応じた徴兵を行い、軍を編成することであった。英仏は検討するとし、オランダは拒否していた。


 この宣戦布告にもっとも早く反応したのが、聨合艦隊であった。宣戦布告から二四時間後、臨戦態勢が完了していたといわれている。その証拠に、宣戦布告後一二時間で第六艦隊が出港し、二十時間で強襲揚陸艦となった『扶桑』『山城』『伊勢』『日向』が輸送艦一〇隻を引き連れて中津島を出港していた。トラック島でも航空機および駆逐隊による対潜哨戒が開始されていた。宣戦布告後、船舶の独航は禁止され、船団方式がとられることとなった。護衛部隊は聨合艦隊所属の駆逐隊であった。本土周辺域および台湾、サイパンやグアムまでは各州配備軍が担当し、それ以外は聨合艦隊の担当とされた。


 これには理由があった。皇国政府の宣戦布告直前、天皇が中津島を訪れていたのである。時代を流され、家族と離れ離れにならなければならなかったことの心中を察するにあまりある。この世界でまた迷惑をかけてしまうことを残念に思う。任務を全うすることを願うが、再びこの地で会えることを何よりも願っている。将官だけではなく、一兵卒までにそう声をかけられたという。そういう出来事があったのである。それが彼らどのような影響を与えたのかは判らない。ただ、彼らの時代は現代とは異なることだけははっきりしていた、


 ともあれ、自国船舶が攻撃され、死傷者を出したことにより、皇国の世論は一挙に参戦に傾き、早い時期に戦時体制に移行することになったのは明確であった。多くの国民、特に、旧日本国の若い世代に与えた影響は大きいといえた。少なくとも、皇国が本当の意味で変わる一大出来事であったのは事実であろうと思われた。


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