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東南アジア情勢

 この世界の東南アジア地域は史実の第二次世界大戦直前と同様に、英国、オランダ、フランスが支配していた。シンガポール、マレーシア、ビルマ(後のミャンマー)、ボルネオ島北西部が英国の、スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島東部など後のインドネシアがオランダの、仏領インドシナがフランスのそれぞれ支配下にあった。史実と異なるのはソロモン諸島がドイツ領(史実では英国領)であったことだといえる。


 欧州大戦勃発後、ドイツ植民地軍がジャワ島西部とスマトラ島東部を電撃的に占領、以後は占領地域の防衛戦に徹していた。石油と天然資源(多くはゴムなど)を手にしたドイツ植民地軍は本土との連絡を図ることとなった。しかし、英国東洋艦隊がそれを阻止せんとして、インド洋で活動しているため、損害を出していた。シンガポールの英軍はドイツ海軍潜水艦部隊の攻撃に損害を出しながらもマラッカ海峡、インドおよびセイロン島との連絡路を確保していた。


 シンガポールやマレー、ビルマの英陸軍は攻撃を受けなかったため、損失は出していなかった。しかし、海軍、史実でも存在した英東洋艦隊は大きな損失を受けていたといえた。現有戦力は戦艦三隻、重巡洋艦一隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦六隻(戦艦二隻、空母三隻、重巡洋艦一隻、駆逐艦六隻が戦没)であった。仏蘭と異なり、英東洋艦隊はインド洋も防衛しなければならず、大艦隊を要してはいたが、開戦劈頭に独潜水艦の集中攻撃を受けたことが戦力を打ち減らされた原因であった。


 地中海航路が閉鎖されるに及んで、戦力の増強ができず、対潜護衛に有効とされていた空母を増強することはかなわなかった。しかし、皇国から空母購入により、対潜戦闘が継続可能であった。もっとも、航空機が少ないため、広範囲の哨戒は不可能であった。これが、未だ、独潜水艦による被害を防げない最大の理由であった。


 オランダ東洋軍はジャワ島西部とスマトラ島東部を失ったもの、ボルネオ島東部は確保しており、英国領からの石油の輸入により、何とか稼動していたといえる。当初は独海軍潜水艦による損害があったものの、皇国から購入した対潜護衛空母により、損害は減少化にあった。沈められた輸送船やタンカーも皇国からの購入により、数は確保していたといえる。それは英仏にもいえることであった。


 とはいえ、多くのオランダ兵は都市圏のジャワ島西部やスマトラ島東部、ボルネオ島東北部に集中していたこともあり、多くが戦死あるいは捕虜となっていたとされる。それでも、攻撃を受けなかった地域には一万人が存在しており、皇国の支援を得ながら攻撃を受けなかったボルネオ島の東部部は守備していたといえる。海軍兵力は軽巡洋艦二隻に駆逐艦二隻(既に駆逐艦六隻戦没)であった。


 もっとも、ドイツ植民地軍にしても戦力が少なく、多くの地域を占領維持することが不可能であったため、多くのオランダ軍は戦力を保っていたといえるだろう。このとき、ジャワ島西部やスマトラ島東部を占領したのはドイツ陸軍二万人と現地兵一万人であったとされている。


 仏領インドシナのフランス軍は再三ドイツからヴィシーフランス軍への加担を宣告されていたが、それを受け入れることはなかった。そのため、インドシナのフランス軍もドイツ海軍の攻撃対象となっていた。もっとも、彼らは対独戦よりも占領地の独立派武装集団の鎮圧に忙しく、必要な武器弾薬は英国から購入していたが、英国からの供給が難しくなると、皇国に頼らざるを得なくなっていた。これは他の英蘭軍も同じであった。


 この当時、インドシナ方面には陸軍三万人、駆逐艦四隻(駆逐艦四隻が戦没)であった。一時、ドイツ海軍潜水艦により、艦艇が消失したことで、海上兵力は稼動しなかった(石油の入手が滞ったため)が、対潜護衛空母が到着してからは英蘭と共同で独海軍潜水艦との戦いを繰り広げていた。ボルネオ島北西部の英領地域からの石油輸入も可能になったからである。


 ドイツ占領地域の石油はインド洋各地のフランス軍に供給され、それがドイツ海軍のインド洋での活動に大きな影響を与えていた。そう、インド洋では英国水上艦隊と独海軍潜水艦部隊との激しい戦闘が行われていたのである。そんな彼らを支えていたのが、皇国製の武器弾薬であった。むろん。ドイツから苦情も届いていたが、皇国は日常生活用品や医薬品の人道的供与であるとしていた。つまり、この頃には皇国国内でも、対独参戦やむなし、という状況になっていたといえるだろう。この頃には、ドイツ海軍仮装巡洋艦による皇国船籍の船隊に対する嫌がらせが多発、皇国もドイツに抗議していたのである。


 フィリピンの米軍はアメリカ合衆国所属であり、その多くが陸軍であった。海軍は旧式の駆逐艦一二隻であり、ほとんどの艦艇ははハワイにあった。とはいえ、大型艦は旧式の戦艦二隻だけで、ほとんどが巡洋艦や駆逐艦であった。これは、太平洋のアメリカ連合国の領土が東サモアだけであり、そこにあったのは軽巡洋艦二隻と駆逐艦四隻であり、その部隊を統制するための軍があればよかったからである。


 つまるところ、東南アジアではドイツ対英仏蘭との戦いが起こっていたということであり、こちらでも、皇国は自己の安全さえ確保されていれば、不介入としていたといえる。少なくとも表向きはそうであった。というのも、ヒトラーの人種政策に対する反感は国内でも強まっていたのである。だからこそ、武器弾薬の供与が秘密裏に行われていたといえる。


 他方、現地住民はどうであったかといえば、インドシナ(後のベトナム、ラオス、カンボジア)の独立派とスマトラ島西北部のアチェ地域(後のアチェ共和国)、ボルネオ島東部(後のマレヤ共和国)では独立派による紛争が多発していたが、それ以外の地域では比較的平穏であったといえる。もっとも、オランダはそのあたりの情報提供を渋っていたため、実態は把握できていなかった。


 皇国としても、今の東南アジアにはそれほど魅力を感じていなかったといえた、移転前に比べて治安が悪く、当然として、英仏蘭の植民地であったため、おおっぴらに活動できない、ということもあったからである。ましてや、移転前と比べて、皇国の求める製品が得られるかどうか疑問だとする意見も多かったのである。


 そんな中、タイ王国はこの世界でも東南アジア唯一の独立国として存在しており、皇国の技術導入により、それなりの水準の製品が生産されていた。また、史実と同じく、非常に親日であり、国民感情もよかった。そのため、皇国は緩やかな浸透を図り、史実で将来は問題となる芽を摘み取っていたといえるだろう。このタイ王国の存在があったればこそ、トラック島の整備が可能であったといえた。


 後に、東南アジア随一の技術国足りえたのは、この時期に皇国の技術導入を受けていたことが大きいといえた。さらに、ASEANアセアン、東南アジア機構軍の中核となっていくことになる。いずれにしても、移転後の皇国にとって天然資源の入手には必要な国であり、戦時下の東南アジアでは唯一、寄港可能な地域であった。皇国軍の欧州派遣時には、重要な食料の入手先でもあったといえる。実のところ、欧州派遣はタイ王国とのパイプがあったからこそ可能であった、とは立案者の大井が語っていることである。


 このようにある意味、非常に危険といえる東南アジア地域で主に海運業を行っていたのは、ミッドウェー・アリューシャン攻略部隊に徴用されていた民間船の乗組員たる船員が興した、中津島海運であった。移転後しばらくは本土の海運会社が行っていたのであるが、戦争勃発による保険金の高沸により、多くが撤退していたのである。そんな折、登場したのが中津島海運であった。五〇〇〇トンから二万トンの貨物船やタンカー、貨客船、客船を手に入れた彼らが運行していた。


 この時期には、東南アジア航路やインド洋航路は彼らの独占下にあったといえる。広く社員を募っていたため、沿海州や由古丹州、満州国からも集まり、一大海運会社へと成長していた。これが中津島の人口増加につながり、戦後すぐには一〇〇万人を数えていたといわれる。これがどれだけすごいかといえば、ほぼ同じ大きさの淡路島が約一五万人、四国全域で約四二〇万人ということからもわかるだろう。


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