極東アジア情勢
移転暦七年初頭の東アジアはどうなっていたかといえば、史実とよく似ていたといえるだろう。皇国の近在で、もっとも紛争の危険があったのは千島列島であったといえる。史実とは異なり樺太島と大陸間は五〇kmも距離があったが、千島列島最東端の占守島とカムチャッカ半島南端との距離は三〇km、最もソ連に近い皇国の領土であった。そのため、防衛拠点としてある程度の軍備がなされていた。
瑞穂州から二〇〇kmはなれて朝鮮半島が存在していた。半島にはかって瑞穂州が併合も含めた政策を採っていたが、統一戦争後、一八〇度転換され、日本人が引き上げたため、国内産業が停滞していた。半島の赤化を恐れる皇国は、軍事顧問団として一〇〇人ほどを派遣しているが、自国軍は派遣していない。そのため、朝鮮半島の防衛はかって瑞穂州が育てた陸軍歩兵三個師団四万五〇〇〇人と海軍三個戦隊、皇国が売却あるいは供与した、聨合艦隊所属艦の三〇隻が担うこととなっていた。もっとも、戦力的にみれば、ソ連軍が侵攻してきた場合、対応できないと考えられている。
内政的には一進会が権力を把握し、議会民主国家として成立していたが、北西部では李朝派が反抗を続けており、決して安定しているとはいえないものであった。瑞穂州が関与していた時期から、彼らを半島北東部に近づけていなかったことで、ソ連との遮断に成功していたといえる。自国領の済州島を売却したとはいえ、未だ莫大な借金が皇国にあった。
半島の北西には中国東北部、この世界でも成立した満州国が存在する。史実と同じく、清帝国最後の皇帝、愛新覚羅溥儀が元首であり、国務総理大臣は鄭孝胥、外務大臣は張景恵、国軍司令官は張学良という体制であった。張学良の父、張作霖がコミンテルンと中国共産勢力の人間に爆殺されたこともあり、反共志向が強い。統一戦争後の皇国の関与により、立憲君主制議会民主国家へと移行しており、しかも、皇国の直接的な関与は減少し、親日で安定し始めていた。人口は約五〇〇〇万人を数えていたが、インフラ整備は遅れていたといえる。
この満州国は、ソ連と国境を接しており、また、黒龍江省油田が稼動し始めたこともあり、当のソ連極東軍が不審な動きを見せていた。そのため、瑞穂州が統一戦争時に所有していた武器弾薬などが放出され、国軍の編成途中といえた。また、中国共産勢力に対する反応は過敏であり、国境には多数の兵が配備されていた。六一式戦車(史実の陸上自衛隊で装備していたものと同等の性能を有していた)が二〇〇両をはじめ、六四式自動小銃(史実の陸上自衛隊で装備していたものと同等の性能を有していた)などが配備されていた。空軍は同じく、瑞穂州が使用していた<ライトニング>戦闘機一〇〇機を装備していた。
皇国は租借している遼東半島(大連州)に一個機械化師団、一個飛行隊、一個駆逐隊を配備し、権益たる黒龍江省油田および南満州鉄道、多くの炭鉱の警備に充てていた、南満州鉄道では電化工事が進み、新幹線の運行を始めようとしていたのである。そのため、多くの日本人技術者が渡満していたのである。彼らの安全のためにも軍は必要であった。
しかし、この年に入って満ソ国境では軍による小競り合いが多発していた。皇国は軍の増派も考えなければならなかった。ちなみに、七年になってからはデフコンレベルが常にイエローであり、オレンジに上がることもしばしばあったといわれる。
その満州国と国境を接しているのがモンゴルであるが、こちらは特に問題視されていなかった。史実とは異なり、満州国は自国よりに国境を設定していたからこそ、ソ連軍も手を出すことはしなかったといえるだろう。むろん、満州国側では国境警備に注意はしていたが、大軍を配備することはなかった。
中華中央はどうなっていたか、といえば、史実同様に国共内戦の状態であった。統一戦争終結後は中華民国が劣勢であったが、現在は盛りかえし、後退することはなくなっていた。それは皇国の中華民国に対する政策が変換されたからにほかならない。対華二一箇条が撤廃され、大陸から皇国(当時は瑞穂日本帝国)が撤兵し、武器援助および売却を実施したからであった。さらに、欧州戦勃発により、それまで多くあった欧州、多くは英国やフランス、ドイツなどの支援が減少したからである。特に、依存の強かったドイツが撤退したことで、劣勢となっていたのである。
満州国の建国は蒋介石総統も認めることはなかった。しかし、黒龍江省油田が発見されたことで、一部態度を変えていたのである。共産勢力を駆逐し、中華統一を達成したあかつきには、皇国によって近代化され、石油が産出する満州国を手に入れられるだろう、という考えであった。仮に、皇国や満州国が抵抗したとしても、欧州大戦が終結したなら、欧州列強が自らの味方になるだろう、と考えたのである。
この年の中華中央の勢力分布は、中華民国は安徽省、福建省、江蘇省、浙江省、江西省、重慶省、四川省、雲南省、広西省、広東省、貴州省、湖南省、湖北省、海南省を、それ以外を毛沢東の共産勢力が支配している状況となっていた。チベットはどこにも属さず、独立勢力となっていた。皇国としては、共産勢力が統一するのはまず避けたいところであった。かといって、中華民国が統一した場合、満州国が問題となるだろうことは明白であった。それに、中華民国が統一した場合、内乱が耐えないように思われてもいたのである。
皇国の希望としては現状のまま安定してくれることだったかもしれない。なぜなら、現状では中華民国で約二億人あまりの人口があり、市場規模としては十分であったからである。もし、共産勢力に統一されてしまった場合、何十年かは市場とはなりえないからである。現状のまま、安定してくれれば、半世紀後には五億人の市場に熟成される可能性があると思われた。いずれにせよ、共産主義に支配された場合、市場としての熟成が遅れると考えられていた。
これは何も推測ではない。皇国内にも共産主義の影響を受けた地域が存在し、他の三州に比べると市場としての展開が遅れているのである。特に、長くソ連の影響を受けていた沿海州では州内政治改革と市場改革が思ったより進んでいないのである。格差がありすぎるということで、将来的な問題発生を抑えるためにも、予想以上の投資が必要とされているのである。史実でも、ドイツ統一後、似たような問題が発生していたからである。
この地域でも膨大な面積を抱えるソ連であるが、開発は遅れていたといえるだろう。史実ではオハ油田や共産主義国となった中国の大慶油田があったが、この世界ではそういった石油産出地域がまだなかったため、バイカル湖近在の炭鉱からエネルギーを供給しなければならなかったこともある。それでも、シベリア鉄道を利用して搬入し、艦船の運用をしていたようである。
そういうわけであり、満州国の黒龍江省油田はソ連にとっては喉から手が出るほど手に入れたい地域であった。もう一つ、樺太の尾羽油田ということも考えられるが、こちらは五〇kmも離れているため、陸続きの黒龍江省油田が第一だろうと思われた。皇国もそれが判っているがゆえに、満州国に働きかけて防備を固めていたといえる。中国共産勢力にしても、近代化のためには石油が必要であり、近隣に産出する地域はなく、何とかウラジオストックからの入手に頼らざるを得なかった。
とはいえ、皇国においては未だどことも戦端は開かれておらず、むやみに戦力を増強することはできなかった。即応予備兵力が五二万人あるとはいえ、平時に召集することは不可能であった。この当時、皇国が完全な戦時体制に移行するまで二年は要すると考えられていた。それは兵力だけではなく、後方、つまり、武器弾薬の製造と輸送が可能になるまでの期間をあらわしていた。
そんなわけで、満州国周辺はいつ戦争が起きてもおかしくない状況だといえた。ソ連にとっても、満州国は攻めるには戦力不足であり、欧州からの兵力増強がなければ難しい。共産勢力にとっても、満州国にばかり目が向いていれば、せっかく支配権を得た地域が再び中華民国に奪われかねない、そういった薄氷を踏むようなバランスの上に満州国の安全があったといえた。どこかが崩れれば、一気に戦争に雪崩れ込む可能性があったといえる。そして、そのきっかけはソ連が起こすだろう、というのが皇国や満州国、中華民国も考えていたといえる。