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第一部 文化祭編
第二章「嫉妬と疲労、三途の川の再会」
教室の電気は、もう消してもいい時間だった。
だが、僕のクラスの教室は、今、この瞬間が一番の熱を帯びている。
「えー!それでそれで? 明夫くん、その時どうしたの?」
「いや、それがさ、モエカが……あ、河合さんがいきなり川に飛び込むから、俺も慌ててさ!」
「ばぶう! あの時は明夫くんが溺れたかと思った!」
「溺れねえよ! 心配して飛び込んだら、お前、もうカニ捕まえてるんだもん!」
「「アハハハハ!」」
僕の目の前で。
僕が今日、血まみれの教室を掃除しながら守ろうとした、この場所で。
河合モエカは、僕の知らない男(宝田明夫)と、僕の知らない「小学校の思い出話」で盛り上がっていた。
(……うるさい)
声が、頭に響く。
河合さんの、あの甲高い笑い声。
僕には一度も見せたことのない、心の底からの笑顔。
僕の「イケメン」も、「タイプじゃない」という言葉も、「LOAD」という秘密の共有すらも。
目の前の、この「幼馴染」という圧倒的な記号の前では、何の意味も持たない。
僕は、誰だ?
僕は、尾形カオル。
この教室を鼻血で汚染し、クラスメイトを失神させ、その復旧作業で一日を浪費した、ただの「公害」だ。
反省文を10枚も書かされ、肉体は鉛のように重い。
それなのに。
僕は、今、何を期待している?
河合さんが、僕の方を振り向いてくれることか?
「カオルくんも、昔話聞く?」
そう言って、僕を「輪」の中に入れてくれることか?
(……馬鹿馬鹿しい)
嫉妬だ。
人生で初めて、他人に嫉妬している。
この僕が。
モテすぎて、女に飽き飽きしていたはずの僕が。
たった一人の、「僕の顔を見ても鼻血を出さない少女」に、こんなにもみっともなく、焦がれている。
「それでね! 明夫くんが!」
「いや、お前が!」
二人の楽しそうな声が、だんだん遠くなる。
まるで、分厚いガラス越しに聞いているみたいだ。
肉体的な「疲れ」と、精神的な「苦悩」。
嫉妬と自己嫌悪と、圧倒的な疎外感。
それらが、僕の思考を、黒い絵の具で塗りつ潰していく。
(……ああ、ダメだ)
視界が、白く、点滅する。
脚立から落ちた時よりも、もっと強烈な目眩。
僕は、机に手をつこうとした。
だが、その指先は空を切り、僕の体は、重力に従うまま、床に向かってゆっくりと傾いていく。
「あれ……僕、もしかして、疲れ……倒れ……」
最後に見たのは、僕の異変にようやく気づいて、「え?」と驚く河合さんと明夫の顔だった。
(……そんな顔、するなよ)
僕は、心の底から湧き上がったその言葉を、音にすることはできなかった。
どれくらい、時が経ったのだろう。
僕は、冷たい、土の感触で目を覚ました。
保健室のベッドじゃない。
消毒液の匂いもしない。
ここは、僕が知っているどの場所とも違っていた。
見渡す限り、無味乾燥な草むら。
空は、色を失ったような、灰色の白。
そして、僕の目の前には、音もなく流れる、大きな「川」があった。
「……川?」
だが、奇妙なことに、その川の対岸だけは、色に溢れていた。
僕の貧弱な語彙では表現できないほどの、「たくさんの花畑」が咲き乱れている。
まるで、あちら側だけが「天国」で、こちら側が「地獄」みたいだ。
「……三途の川??」
その言葉が、口をついて出た。
え……?
僕、今若干片思いし始めてる人に、嫉妬と自己嫌悪で苦しんだ挙句、ショックで死んだの??
怖すぎんだろ。
怖すぎ……
てことは!! もしそうだとしたら、河合さんが悲しむ……
(いや、あいつは明夫と笑ってるか)
……違う! そうじゃない! 河合さんが僕の死体を発見したせいで、警察に事情聴取とかされてしまうかもしれないのか!?
嫌だ!!!
それだけは嫌だ!!!
なんとかしてこんなところから逃げ出さないと……!!
しかし、僕がそう思った、その時。
対岸の花畑に、人影が見えた。
誰かが、僕を見ている。
「カオル。大きくなったんだね」
後ろからじゃない。
川の向こう、あの花畑の中から、声がした。
とても柔らかくて、懐かしくて、ずっと会いたかった……
そんな、あの人の声が。
子供の頃は、当たり前だと思っていたあの人の声が。
僕は、自分の置かれた状況も、ここが「あの世」であるという恐怖も、すべて忘れていた。
魂が、震えていた。
僕は、対岸の花畑に向かって、叫んでいた。
僕を庇って死んでしまった、たった一人の、その人の名前を。
「お母さん!!! お母さ……!!!!」
第一部 文化祭編
第三章 「母の言葉と、仕事人の空気」
「お母さん!!! お母さ……!!!!」
僕は、対岸の花畑に向かって叫んだ。
涙が、止まらなかった。
嫉妬も、疲労も、血まみれの教室も、全部どうでもいい。
母さんが、いる。
僕は、あの灰色の川を渡ろうと、一歩踏み出した。
「来ちゃ駄目!!!」
母さんの鋭い声が、川を越えて響いた。
その言葉で、僕の動きはピタッて止まってしまった。
「カオル。来ちゃ駄目よ。そこで少し話を……」
対岸の花畑から、母さんの声が聞こえる。
なんで……?
僕、母さんともう一度暮らしたいよ。
もう一度……やり直したいのに。
「お母さん!! もう一度、一緒に暮らそうよ!! お父さんだっているし……!! それに!! 僕には……今の僕には……河合さんがいる」
そうだ。
河合さんがいる。
でも、僕は、その河合さんにすら嫉妬して、疲れて、今ここにいる。
こんなに大きくなったのに。
情けなくて、カッコ悪くて、何も守れない。
「うん。そうだね。カオルには、河合ちゃんがいるでしょ。あの子は良い子よ」
母さんは、静かに微笑んだ。
……河合さん。
確かに彼女はいる。でも、僕は彼女の前で、あの明夫という男に、無様に嫉妬して倒れたんだ。
「それに、お父さんだっている。きっと、カオルやこの国を守ってくれる」
……父親は、違う。
彼は、遠い人になってしまった。
テレビの中の人になってしまった。
あの僕が大怪我をした日、僕のことを心配して駆けつけてくれた、あのお父さんは、もうどこにもいないのだから。
だから、誰よりも優しい母さんよりも、僕が死ねばよかった。
誰よりも国にとって必要な父さんの苦労を、少しでも僕が背負えればよかった。
少しでも、僕は……誰かの……
「カオル。顔を上げて」
母さんの声に、僕はハッとして、俯いていた顔を上げた。
「……何か悩んでるようだけど、お母さんは知ってる。貴方は、優しいから、誰かのために尽くしてあげなさい」
「……一人のために、尽くす」
「それは最初は一人でもいい」
一人のために。
……そうだ。
僕には、河合さんがいる。
僕は、母さんの瞳をじっと見つめた。
今度は、もっと明るい表情で、母さんと向き合うのだ、僕よ。
「そうすれば、みんな、その一人に尽くしてくれる貴方のことが、だんだん好きになっていくから。これは、吸い寄せの法則っていうのかな?」
僕の瞳に、母さんが映る。
しかし、その時。
その母さんがだんだん霧のように薄れていってることに気づく。
「母さん……」
消えゆく母を見つめる僕に対して、母さんは少し悲しそうに言う。
「ごめんね。カオル。もう時間みたいなの」
「母さん……!」
「ありがとう。大好き」
そして、母さんは、僕への最後の愛の言葉をつづる。
「大丈夫。“また” 会える」
お母さんがそう言って、強張る唇の緊張を緩めた。
その唇の動作や身体の震えで、母の心境がなんとなく分かった気がした。
やっぱり、母さんも、僕と父さんと、本当は一緒に暮らしたかったのに。
あの事故で、母さんは死んでしまった。
父さんと、僕と、ずっと暮らすはずだったのに。
なのに、こんな……!!!
「おーい!!! カオル君!!!」
聞き覚えのある声がする。
僕はその声で、目を覚ました。
――母さんは……? それに、今の声は河合さん……??
そう思った僕は、寝ぼけながらも、寝起きの第一声を話す。
「あれ……夢……? 母さん……河合……さん……?」
案の定、僕の視線の先には、心配そうに僕の顔を覗き込む、河合さんがいた。
そして、肝心のここはどこなのかについてだけど、正直よくわからない。
僕が寝かされていたのは、簡素なベッドの上だった。
部屋は明るく、まだ秋が始まったばかりだというのに、パチパチと音を立てる「暖炉」がついている。
そして、その暖炉の横。
ふかふかのソファに座り、ぬくぬくとあの超人気エンタメ番組「お前を殺す」を、大人気スマホゲーム「殺人事件~犯人は主人公」をやりながら、見ている男が……
あれ……?
こいつ、どこかで…………
僕は眠い目を擦り、目を凝らしてみる。
すると、そいつが誰か分かった。
いや、わかってしまったのだ。
よりにもよって、アイツがいる。
河合さんを「モエカ」と呼び、僕から河合さんの笑顔を奪った、あの男だ。
「よう。起きたか。鼻血のカオル君」
奴のムカつく顔が、僕の神経を苛立たせる。
奴の名前は、宝田明夫。
僕の恋(?)のライバルだ。
状況的に、もしかしたらここはアイツの家かもしれない。
「……なんだよ。その呼び方」
「そのままの意味だろ? それじゃあ、鼻血のカオル君。早速、本題に入ろう」
「な……なんだよ。明夫……君」
その時、彼の纏う空気が一変する。
それは、さっきまで「お前を殺す」で笑い転げ、スマホゲームに興じていた男のそれとは、全くの別物だった。
研ぎ澄まされた刃物のような、冷徹な「仕事人の空気」だ。
「話をしようではないか。LOADと契約している最強の魔法使い達である七帝と、その使い魔である亡霊達についての話を」




